第9話 お酒は程々に

 エデンガルド魔法学院の一日の授業が終わる頃、黄昏の風景が学院を美しく染め上げた。空はオレンジ色から紫色へとゆっくりと移り変わり、まるで絵画のようなグラデーションが広がっている。

 学院の校舎も、その光に包まれ、柔らかな影を落としている。木々の葉は黄金色に輝き、風にそよぐ音が静寂の中に響いていた。


 学生たちが教室から出てくると、キャンパス内は一気に賑やかになった。

 彼らの笑い声や談笑があちこちから聞こえ、今日の出来事やこれからの予定について話し合っている。

 そんな学院で、オルレアは一人、研究室で帰り支度をしていた。

 彼の顔には疲労と不満が浮かんでいたが、それでも何とか一日を乗り越えたことにほっとしていた。


「はぁ、やっと終わった」


 学院を後にすると、オルレアは自宅ではなく繁華街へと向かう。今日の一件もあって、酒に逃げたい気分なのだろう。

 繁華街は学院から少し離れた場所にあり、賑やかな通りが続いていた。

 通りにはさまざまな店が軒を連ね、明かりが灯り始めていた。露店には香ばしい匂いが漂い、食べ物を売る屋台からは煙が上がっている。

 人々が行き交い、賑わいの中に独特の活気が感じられた。


 通りを行き交う人々のざわめきは、まるで川の流れのように絶え間なく続いていた。

 商人の掛け声、客たちの交渉、談笑が交錯し、個々の声は混ざり合って全体としてのざわめきに変わっていた。

 そのざわめきは一つひとつの本来の声を失わせ、ただ騒がしい音の洪水となって周囲に響いている。


 また、通りには派手な魔法光の看板が輝き、人工的な光が通り全体を照らしている。その光はどこか不気味で、人々の表情を白々しく浮かび上がらせる。

 光と影が交錯し、人々の動きがまるで夢の中のようにぼやけて見える。人々の表情には興奮と疲れ、期待と失望が入り混じっており、彼らの本音や感情が一瞬垣間見えるような気がした。


 見た目は華やかだがどこか下品な魅力を放つ店が立ち並んでいた。

 金色の飾りや派手な装飾が目を引くが、その奥には荒っぽさや安っぽさが隠れている。

 人々はその賑やかさに引き寄せられ、興奮しながらもどこか警戒心を抱いて歩いているようだった。


 オルレアは、煌びやかな繁華街の喧騒の中を進み、やがて目当ての酒場の前にたどり着いた。

 店の名前は『ルミエール』。外壁は、深い赤茶色のレンガで築かれ、年月を経て磨かれた金の飾りが控えめに輝いている。

 重厚な木製の扉には、精緻な彫刻が施され、中央にはアンティーク調の真鍮製のドアノッカーが取り付けられている。


 扉の上には、白く柔らかな光を放つガス灯風のランプが吊り下がり、その下の黒いアイアン製の看板には、金の文字で『Lumiere』と書かれている。

 周囲の明るさに比べて控えめなこの照明が、店の雰囲気を一層引き立てる。店の外には小さな階段があり、そこを上がるとオークのドアが客を迎え入れるように立ちはだかっている。


 扉を開けると、そこには都会の喧騒を忘れさせる静謐な空間が広がっていた。ジョージアン様式の優雅なデザインが、訪れる客を暖かく迎え入れる。

 店内に一歩足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、天井から吊り下がる豪華なシャンデリアだ。

 金で縁取られたクリスタルの装飾が、柔らかな光を反射し、店全体を幻想的な輝きで包み込んでいる。


 壁には、深いワインレッドのダマスク織の壁紙が貼られ、その上には金のフレームに収められた古い絵画が並んでいる。

 絵画のテーマは、古代の都市景観や静物画、そして気品ある貴族の肖像画など、多彩でありながらも調和を保っていた。


 カウンターは、濃い色のマホガニー材で作られ、時代を超えた品格が漂っている。その上には、光沢のある大理石が敷かれ、そこに置かれたグラスやデキャンタが美しく並べられていた。

 バックバーには、年代物のウイスキーやワインがずらりと並び、その一つ一つが店の歴史を物語っている。


 オルレアは、カウンターの端にある空いた席を見つけて、ゆっくりと腰を下ろした。彼が座ると、すぐにバーテンダーが滑らかな動きで近づいてきた。

 バーテンダーは、整った外見に加えて、プロフェッショナルな落ち着きを持っており、オルレアの顔をじっと見つめた。


「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」と、柔らかな声で問いかける。


「シダリスの蜂蜜酒を頼む」


 バーテンダーは無言で頷き、手際よくオルレアのために蜂蜜酒を準備し始めた。

 その動きは無駄がなく、滑らかだった。彼がグラスを用意する間、オルレアは店内の様子を見渡していた。


 客層は実に様々だ。最も目立つのは富裕層の人々で、彼らは豪華な衣装を纏い、アクセサリーを煌めかせながら静かに談笑している。その一方で、少し離れた暗がりには、見るからに怪しげな連中もいた。

 彼らは派手な服装こそ身につけているものの、目つきや雰囲気からは危険な香りが漂っていた。彼らの手元にはタバコやグラスが置かれ、時折、低い声で何かを話し合っている。


「お待たせしました。」


 バーテンダーが蜂蜜酒の入ったグラスを差し出すと、甘い香りが漂い、オルレアの心を少しだけ和ませた。

 彼は一口飲むと、その柔らかな甘さとわずかなアルコールの刺激にほっと息をついた。


 その甘い香りを一瞬楽しんだ後、グラスを口に運び、ゆっくりと一口飲んだ。

 甘さが口の中に広がり、ほっとしたような表情を浮かべる。

 彼はしばらくの間、音楽と甘い酒の味わいに浸っていたが、次第に心の中のモヤモヤが言葉となって口から漏れ始めた。


「……向いてないよな」


 オルレアが小さく呟く。彼の声は周囲の騒音にかき消されることなく、自分の耳にもしっかりと届く。


「まぁ、向いてるわけないよな」と続け、再びグラスに口をつける。蜂蜜酒の甘さが、彼の心の中の苦さを少しだけ和らげてくれるようだった。


 お酒が進むにつれて、オルレアの独り言は次第に増えていく。


「一週間も頑張ったんだ、もう辞めよう」


 まるで誰かに話しかけるように言い放つと、オルレアは懐から封書を取り出し、それをじっと見つめた。封書には『辞表』と書かれており、その文字が彼の決意を再確認させる。


「よし、帰ったら一生懸命、フローゼに謝ろう。なんだかんだ言って、俺に甘いから許してくれるさ」


 オルレアは自分に言い聞かせるように呟き、封書を机の上に置く。そして、そのままグラスを持ち上げ、一気に蜂蜜酒を飲み干した。

 店内の落ち着いた雰囲気と甘い酒の効果で、彼の心は少しだけ軽くなっていた。しかし、彼の決意は変わらない。教師としての自分はもう限界だと感じていた。

 彼は深く息をつき、封書を懐に戻すと、再びバーテンダーに目を向ける。


「もう一杯、お願い」


 彼が注文すると、バーテンダーは再びグラスに蜂蜜酒を注いでくれる。

 オルレアはそのグラスを受け取りながら、もう一度自分の決意を確認するように、深く息をついた。


 数杯の蜂蜜酒をおかわりし、彼の気分はさらに軽くなっていった。

 そろそろ帰宅しようかと考えていたその時、店のドアが乱暴に開け放たれ、ガラの悪い、見るからにチンピラ風の若者が六人ほど入ってきた。

 オルレアは一瞬顔をしかめたが、すぐにまた視線を戻そうとする。しかし、よく見るとその中に見覚えのある顔があった。

 今日の四限目の授業に遅刻し、途中で退出した落ちこぼれ、オリバーとルーカスだ。


「あんな奴らとつるんでるのか……ロクでもないな」


 オルレアは心の中で呟いたが、すぐに「まぁ、自分には関係ないし、どうでもいいか」と結論づける。

 そして、お勘定を済ませ、店を出ようと立ち上がる。しかし、ふとオリバーとルーカス達に目をやると、彼らはテーブルの上に何かを出していた。


 それは、手巻きタバコペーパーと乾燥した植物の葉が詰められた小さな袋。

 袋の口は開いており、独特の強い香りが漂っている。それは明らかに麻薬と呼ばれるものだった。

  オルレアは当初無視を決め込もうとしたが、彼の倫理観がそれを許さない。

 彼はとっさに動き、彼らのテーブルまで歩み寄る。


「それは、やめとけ」


 オルレアは低い声で言いながら、オリバーの腕を掴んだ。

 彼の突然の行動に、オリバーとルーカスは驚いたように彼を見つめる。

 彼らの目には一瞬の驚きと苛立ちが交錯していた。


「お兄さん、どうしたの? 俺達に何か文句でもある?」


 チンピラの一人が高圧的にオルレアに問いかける。

 その男は粗野な風貌で、額に短い刈り上げ髪、頬にはいくつかの傷跡が見える。

 筋肉質な体格に派手なタトゥーがちらつき、彼の強面ぶりを強調していた。しかし、オルレアはその強面の男を無視し、オリバーとルーカスの目を見据える。


「その持ってるもの、処分するから寄こしな。おとなしく渡せば、学院にも報告しないから」


 強面の男は無視されたことに激怒し、「何シカトこいてんだ! てめぇ、シバキ倒すぞ」と言いながらオルレアの胸倉を掴もうとする。しかし、オルレアはその動きを軽くいなして、一瞬で反撃に移った。


 まず、オルレアはチンピラの手首を掴み、強く捻ることで相手の動きを封じる。

 彼は痛みで顔を歪めたが、その隙にオルレアは素早く肘で相手の顎を打ち上げた。

 その衝撃でチンピラの頭が後ろにのけ反ると、オルレアは一歩後退し、力強い蹴りを繰り出した。

 その蹴りは相手の腹部に深く突き刺さり、チンピラは呻き声を上げて後退させる。


 驚愕と恐怖で唖然とする彼らの前で、強面の男は倒れ込み、呼吸を整えようと苦しそうにしている。オルレアは冷静なまま、二人に向かって再び言う。


「最近、ストレスが溜まっているんだ。頭に来てることもあるし、何より疲れている。その上、俺の生徒が麻薬に手を出しているようだし、好きでもない暴力を他人に振るってしまった。俺の心は悲しみで満ち溢れている。あと一回の忠告で理解してくれないなら、溢れ出す。そうすれば、お前達はきっと後悔することになる」


 オルレアの教職者とは思えない脅しの言葉にオリバーらは戸惑いを見せたが、その背後でバーテンダーが不機嫌そうに声を上げる。


「喧嘩なら他所でやってくれ。ここは酒を楽しむ場所だ」


 オルレアはその言葉に苛立ちを隠せず、振り返ってバーテンダーを一瞥する。


「やかましい! すぐに終わるから、黙ってろ!」


 その怒声に一瞬、店内は静まり返った。しかし、オリバーとルーカスらは、非行青年特有の血の気が多さから、そんな忠告に耳を貸す様子はなかった。

 むしろ、彼らの顔には反発の色が浮かび上がり、周囲のチンピラたちと目を合わせる。


「こいつを袋にするぞ」


 オリバーが言い、ルーカスもそれに同意するように頷く。

 チンピラたちは一斉に立ち上がり、オルレアを取り囲んだ。彼らの目には攻撃的な光が宿り、今にも暴力を振るう準備が整っているようだった。

 彼は一瞬だけ周囲を見渡し、深いため息をつく。


「ここでやったら店に迷惑がかかる。表へ出ろ」


 その言葉にチンピラたちは一瞬戸惑ったが、オリバーが笑いながら、「いいぜ、表でやろうや。どうせここじゃ狭すぎるんだ」と答えると、ルーカスも不敵な笑みを浮かべた。


 オルレアは無言のままドアに向かい、チンピラたちもそれに続く。

 酒場の外に出ると、夕闇の中に繁華街の喧騒が響いていた。

 通りを行き交う人々は、彼らの異様な雰囲気に気づいて道を避けるように歩いていた。

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