第7話 もっと堕落せよ

 フローゼは優雅に身を翻し、「こっちよ」と食堂へと導いた。

 長い廊下を歩く間、オルレアは心臓が高鳴るのを感じる。

 壁に飾られた絵画や装飾品は、いつもよりも重々しく感じられた。

 フローゼの背中を見つめながら、彼の頭の中では様々な言い訳や逃げ道を探る考えが渦巻いていた。


 食堂に入ると、豪華な食卓が目に飛び込んでくる。

 白いテーブルクロスの上には、色とりどりの料理が並べられていた。

 オルレアの好きな海鮮シチューが大きなボウルにたっぷりと盛られ、鳩のパイは金色に輝くパイ生地が美しく焼き上がっていた。他にも、彼の好物がずらりと並び、その光景に少し嬉しさを感じる。


 しかし、その喜びも束の間、心の緊張は全く解けなかった。

 フローゼの目には、いつもと変わらぬ優しさが宿っているように見えたが、その奥には彼の行動を全て見透かしているような冷ややかな光があった。


「さあ、座って」とフローゼはにこやかに言い、オルレアを食卓の席へと促す。


 彼はぎこちなく椅子に腰を下ろし、彼女が向かいの席に座るのを見守った。


「今日は特別な日だから、あなたの好きなものを沢山用意したのよ。食べながらゆっくり話しましょう」とフローゼは微笑みながら言う。


 オルレアはおずおずとスプーンを手に取り、海鮮シチューを一口食べた。

 その味はまさに彼好みで、口の中に広がる豊かな風味に一瞬だけ心が和らいだ。しかし、その瞬間もすぐに消え去り、彼は再び緊張の中に引き戻された。


「美味しいよ、ありがとう」とオルレアは微笑みながら言ったが、その声にはどこか不自然な震えが含まれていた。


 フローゼは彼の反応を見逃さず、優しく、そして冷たく笑う。


「それは良かった。さあ、もっと食べて」


 オルレアは彼女の言葉に従い、食事を進めながらも、心の中ではどのようにこの状況を切り抜けるかを考え続けていた。

 食卓に並ぶ美味しそうな料理たちは、彼にとってまるで最後の晩餐のように思えた。

 フローゼの微笑みの奥に潜む真意を見極めるため、彼は細心の注意を払いながら、一口一口慎重に食べ進めていった。

 食事が進むにつれ、フローゼはふと視線を上げ、オルレアの目をじっと見つめる。


「どう? 学校には、もう慣れた?」


 その問いは、まるで彼の心の奥底を見透かすかのように鋭かった。

 オルレアは一瞬動揺しながらも、何とか言葉を絞り出す。


「まぁ、色々と頑張ってはいるんだけど、まだ慣れないかな」


 フローゼは優しく微笑みながらも、その目は冷ややかだった。


「そう。それで、生徒たちとは上手くやれてるのか? まさかとは思うけど、遅刻なんてしていないだろうな」


「大丈夫に決まってるだろ。全く問題ない」


 フローゼの問いかけにオルレアは内心で冷や汗をかきながらも、軽く笑って答えた。


「私に隠し事とか、嘘をついていないよな?」


「もしかして俺を疑ってるのか。俺とお前の仲だ。隠し事なんてないよ」


 オルレアは内心で動揺しながらも、必死に平静を装う。しかし、つかなくても良い嘘をついてしまい、嘘に嘘を重ねる。

 フローゼはその言葉を聞くと、静かに視線を外し、しばらく沈黙する。その沈黙が重く感じられ、彼は不安でいっぱいになった。そして、彼女はやがて、冷静な声で言った。


「なるほど、そうか。いや、実は今日、理事長から報告があった。ここ3日間、お前が学校に来ていないって。そして、初日のお前の授業が素晴らしすぎて、生徒たちから多くの苦情が寄せられているそうだ」


 その言葉を聞いた瞬間、オルレアの顔から血の気が引く。

 頭の中が真っ白になり、どう答えればいいか分からない。

 フローゼの視線は彼を射抜くように鋭く、逃げ道は完全に閉ざされていた。


「どうした? 箸が進んでいないようだけど。この家で食べる最後の晩餐になるかもしれないんだ。遠慮しなくてもいいんだぞ」


 その言葉に込められた冷ややかな威圧感に、オルレアは内心で震え上がった。

 フローゼは遠回しに彼をこの家から叩き出すと言っているのだ。

 彼の頭の中には、様々な逃げ道や言い訳が浮かんだが、すぐにそれらが無意味であることを悟る。

 この期に及んで、謝罪などすれば、余計に彼女に詰められるだけだ。ましてや、とぼけたりしたら、火に油を注ぐことになるだろう。


 オルレアは深く息を吸い、ここは堂々とするしかないと決意する。

 自分の立場を守るためには、真っ直ぐに向き合うしかない。


「フローゼ、確かに君の言う通りだ。俺はこの3日間学校には行っていないし、初日の授業も酷いものだったと思う。それらは既存の道徳規範からすれば、けしからん罪だろう。だが、この事の何がいけないのか」


 オルレアはしっかりとフローゼの目を見つめながら、言葉を続ける。


「それって上辺だけの道徳規範であり、人間の本質はそういったものでなく、人間ならそれでいいじゃないか」


 フローゼの表情に明らかな苛立ちが浮かんだが、オルレアは構わず話を続けた。


「学院、いや社会において、遅刻、サボりは固く禁じられている。しかし、それらは国民を堕落させてはいけないという政治家などの権力者の魂胆であり、いいように使ってやろうと考えていたのだろう。彼らは人間の怠惰さを知らなかったわけではない。むしろ、知っているからこそこう言った禁止項目を作ったのだ」


 フローゼの苛立ちが増しているのを感じながらも、オルレアはさらに声を大にして訴えかける。


「人々はそんな社会の中で空気を読み、自分を押し殺して生きている。つまり、コントロールされるだけの個人の無い機械でしかないのだ。俺は、そんな事はしなくても良いと思う。もっと素直に、あるがままの自分を出すのだ。それこそ人間、それこそ堕落」


 オルレアは立ち上がり、演劇のような口調でフローゼに語りかける。

 古く都合よく捏造された道徳規範、権力者が作り上げた民衆先導の為の虚構から抜け出し、現実に目覚め、自分を取り戻せ。つまり、彼は社会的にそれは堕落といかに言われようとも、人間性や本質的には自己の獲得であり、自己の獲得なしに倫理は生まれず、倫理なき社会に未来はないと主張しているのだ。


「であれば、皮肉を込めてあえてこう言うおう! 人間よ、もっと堕落せよ!」


 オルレアは心の中で、自分の演説の出来に満足していた。

 これでフローゼも理解してくれるはずだと思った。

 少なくとも、「まぁ、そういう考えもあるかもね」と言ってくれるものだと考えていた。しかし、彼女はその言葉に全く響かず、彼のペースにも合わせない。


「もう言い訳は終わったのか?」


 その一言で、オルレアは立ち上がったまま固まる。

 彼女の冷ややかな言葉が、彼の誇りを打ち砕くようだった。


「いいかフローゼ、人間とは堕落する本質は変わら—」


 フローゼはオルレアの言葉を遮り、不機嫌さを凝縮したような、とげとげした口調で言い放つ。


「講師を辞めて、客を取りたいようだし、住み込みの仕事を明日にでも探してこうようか」


 フローゼの言葉にオルレアは一瞬固まったが、すぐに軽い笑みを浮かべる。


「またまた、そんな人を傷つける冗談ばかり言ってさ。フローゼちゃんの悪いところが出てるよ」


「その顔なら、どっちにも人気が出るんじゃない」


 フローゼは冷たく無視して言葉を続けると、不穏な沈黙が部屋を包んだ。流石のオルレアも心臓が激しく鼓動しているのを感じていた。

 彼はこの状況をどうにか打開しなければならないと考えたが、言葉がうまく出てこなかった。客観時間にして数十秒経過したのち、ようやく彼は深く頭を下げる。


「あの、本当に申し訳ございませんでした。明日から、本当に頑張るので、もう一度チャンスをください」


「最初から、そう言えよ」


 フローゼの声は冷たく、怒りを抑えたものだった。彼女はオルレアの言葉に少しも動揺せず、鋭い視線を彼に向け続ける。


「めんどくさいのは分かるけど、何事にも限度というものがある。お前は私や周囲の人たちをどれだけ迷惑をかけているか、考えたことある?  お前の行動がどれほど無責任か、自覚している?」


 オルレアの心臓はまだ激しく鼓動していた。フローゼの言葉一つ一つが、自分の心に鋭く突き刺さる。彼は深く頭を垂れながら、謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。


「これからは、ちゃんとやります。もう二度とこんなことしません。許してください」


 フローゼはしばらくの間、オルレアの言葉をじっと聞いていた。彼女の冷たい視線はまだ変わらず、彼の内面を探るように見つめていた。しかし、彼女の表情には微かに和らぐ気配が見えた。


「分かった。今回は信じる。でも、次はないからな。その言葉が行動に伴わなければ、次こそ本当に容赦しない」


「ありがとうございます。これからは本当に頑張ります」


 フローゼは軽く溜息をつき、オルレアの言葉を受け入れたように見えた。彼女は一度深呼吸をして、微笑みを浮かべた。


「嫌な話はこれで終わり。さぁ、食べましょか」


 その笑顔には、まだ完全な許しを意味していない冷ややかさが残っていたが、それでもフローゼがオルレアを受け入れようとしていることが伝わる。

 彼は胸の中で複雑な感情が渦巻くのを感じていた。心の中で深く息を吐き出し、自分の席に戻る。


「ありがとう、フローゼ。本当に美味しそうだ」


 オルレアはそう言うと、フォークを手に取る。

 フローゼは何も言わず、ただ微笑んで彼を見つめていた。

 その視線にはまだ鋭さが残っていたが、彼はその視線を受け止めるしかなかった。


 オルレアは料理を口に運びながら、心の中で次の行動を考えていた。

 なぜなら彼の性格上、己の行いに対して完全に反省したわけではないが、次に同じような真似をすれば彼女に殺されるということは理解していたからだ。

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