第6話 逆鱗に触れる

 五月の穏やかな朝、オルレアはいつも通りの時間に玄関の扉を開ける。

 清々しい朝の風が肌を撫で、空は透き通るような青一色で、雲一つ見当たらない。 

 

「じゃあ、行って来るわ」


「行ってらっしゃい。今日も頑張ってね」


 オルレアが軽く手を振ると、フローゼは微笑みを浮かべながら優しく返事をする。その声は、温かくもどこか優しい響きがあり、彼を鼓舞する力があった。


 背後にフローゼの視線を感じながらも、オルレアは学院へ向かうふりをして、いつもの公園へと足を運んだ。

 彼の就任から3日が経過していたが、初日の授業以来、オルレアは一度も学院に顔を出していなかった。


 オルレアがたどり着いた公園は、四季折々の自然が豊かに息づく場所だった。

 大きなオークの木々が列をなし、緑の葉が風に揺れる音が心地よいハーモニーを奏でている。

 また、中央には広々とした池があり、水面では白鳥が優雅に泳いでいる。

 小さな噴水がしっとりと水を噴き上げ、その周囲には色とりどりの花が咲き誇っていた。


 オルレアは一つのベンチに腰を下ろし、深呼吸をした。木々の間から差し込む陽光がきらきらと輝き、鳥たちのさえずりが耳に心地よく響く。

 彼の髪がそよ風に揺れ、春の香りが漂ってくる。大きなオークの木が自然の庇となり、柔らかな日差しを和らげてくれた。

 遠くからは子供たちの笑い声が聞こえ、リスが木々を軽やかに駆け巡る音も耳に届いてきた。


 やがて、お昼が近づくと、オルレアはフローゼが作ってくれたお弁当を取り出した。

 木陰のベンチに座り、丁寧に包まれた布を広げる。

 そこにはふっくらと炊かれたご飯、彩り豊かな野菜、そして香ばしい焼き魚が美しく並んでいた。


「こんな天気に外でお昼ご飯とは、贅沢ですね」


 声の方を振り向くと、教会の神父が微笑みを浮かべて立っていた。

 彼も公園を散歩するのが日課のようで、この光景は二人にとって初めてのものではなかった。

 オルレアはその微笑みに応えて軽く会釈をする。


「これは、神父様。お時間があれば、お話でもいたしませんか?」


 オルレアの申し出に、神父は微笑を絶やさず、ゆっくりとベンチに腰を下ろす。


「もちろんですよ、今日は何か特別なお話でも?」


 神父が穏やかに尋ねると、オルレアは少しため息をつきながら、言葉を紡ぎ始めた。


「実は……最近、少し悩んでいましてね。私という人間は、どうやら講師という仕事が心底向いていないのではないかと感じているのですよ」


 神父は黙って、優しい眼差しでオルレアの言葉を受け止めた。

 彼の目には、聖職者特有の何も隠さずに話せるような包容力があった。


「知人の紹介で今の仕事に就いたのですが、どうも自分には合っていないようだ。私が教えるべきことと、生徒たちが知りたいこと、また彼らが期待することとの間に、どうしても埋めがたい大きな乖離があるのです」


 言葉を紡ぎながら、オルレアの視線は遠くの木々へと向けられていた。

 彼は自分の心の中を覗き込むように、静かに語り続ける。


「本当は、今すぐにでも辞めるべきだと思うのです。それが私の為でもあるし、彼らの為でもある。しかし、その知人にどう話すべきかがわからないのです。毎日、家を出てこうして公園で時間を潰していますが、いつかはこの行動もバレてしまうでしょう」


 オルレアの言葉には、ため息と共に深い憂鬱が滲み出ていた。

 視線は重く地面に落ち、まるでそこに答えが埋もれているかのように足元を見つめ続ける。

 彼の態度には、いかにしてこの混迷の中に陥ったのか、そしてそこからどうやって抜け出せばいいのかという、無力感と焦燥感が絡み合っていた。


「あなたが今感じている不安や迷いは理解できます。しかし、まずは自分の気持ちに正直になることが大切です。本当にやりたいことや、自分が何に対して情熱を持っているのかを見つけるための時間が必要なのかもしれませんね」


 オルレアは神父の言葉を心に噛み締めながら、内なる自問自答を続けていた。

 果たして本当にこの道を進み続けるべきなのか、それとも新しい道を探るべきなのか。

 彼の心には迷いの霧が立ち込めていた。


「神父様、もし知人に辞めると言うとき、どう説得すればいいのでしょうか。知人にはどう伝えればいいのですか……」


 神父は一瞬考え込み、優しさと理解の光を宿した瞳でオルレアを見つめる。


「大切なのは、正直に自分の気持ちを伝えることです。ご友人も、あなたの気持ちを理解してくれるはずです。勇気を出して、自分の本心を伝えることが、これからの道を開く第一歩です」


 オルレアはその言葉に感謝の表情を浮かべ深く頷いた。


「ありがとうございます、神父様。その言葉を胸に、頑張ってみます」と口では感謝を述べたが、神父が立ち去ると彼の顔には不満の色が浮かんだ。


「誰にでも当てはまる薄いことしか言ってねぇな……」


 オルレアは小さく悪態をついた。もっと具体的なアドバイスが欲しかったのだ。

 自分の混乱した状況を変えるための具体的な方法や知恵を期待していたのだ。

 しかし、神父の言葉はあまりにも抽象的で、まるでぼんやりとした霧の中で手探りをしているようだった。


 オルレアはベンチに座ったまま、しばらく苛立ちを感じていた。

 思考がぐるぐると巡り、出口のない迷路に迷い込んだような気分だった。

 しかし、公園の風景は相変わらず美しく、木々の間をすり抜ける穏やかな風が、彼の心を少しずつ和らげていった。


「もう少しだけ、ここでゆっくりしよう」


 オルレアはそう心の中で決め、ベンチに横たわる。木漏れ日が彼の顔を優しく照らし、温かな光が眠気を誘った。

 まどろみの中で、彼は自分の未来について考えを巡らせたが、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。


 夢の中でオルレアは再び学院に立っている。そこには、生徒たちが真剣な眼差しで彼の授業を受けている光景が広がっていた。

 彼らの目には期待と希望が輝いている。しかし、その夢はまるで霧が晴れるようにすぐに消え去り、オルレアは現実へと引き戻される。

 目を覚ますと、周囲は夕方の柔らかな光に包まれていた。空は橙色と紫色が織りなす美しいグラデーションを見せ、幻想的な風景が広がっている。


「嫌な夢だ。もうこんな時間か……」


 彼はため息をつきながらゆっくりと起き上がり、長い間同じ姿勢でいたために凝り固まった身体を伸ばした。

 夕方の公園はなおも賑わっており、人々が穏やかな時間を楽しんでいた。

 しかし、オルレアの心には、深い孤独感と無力感が残り続けていた。

 彼の現状は何も変わっていない。それが現実であり、その重みが再び彼の心を圧迫してきた。


 ゆっくりとベンチから立ち上がり、オルレアは家に向かって歩き始める。公園の道は夕日に照らされ、まるで黄金の絨毯のように輝いている。

 歩きながら、彼の頭の中では神父の言葉が繰り返し再生されていた。

 あの抽象的なアドバイスには物足りなさを感じつつも、どこかでその言葉に救われた自分がいることにも気付いていた。


 やがて、豪奢な貴族屋敷が視界に入ると、オルレアの胸は不安にぎゅっと締め付けられた。

 まるで自分が一匹の小さな虫となり、巨大な蜘蛛の巣に近づいていくような感覚だ。

 玄関の重厚な扉を開けると、フローゼが輝くような笑顔で彼を出迎える。

 その笑顔は、一見して魅力的で男を虜にするものだったが、オルレアにはその背後に隠された冷たい本性が見えていた。


「おかえりなさい、オルレア。今日もお疲れ様」


 フローゼは優しく声をかけたが、その声には氷のように冷たい刃が隠されているようだった。オルレアの背筋には、瞬時に冷や汗が流れ落ちる。


「ただいま、フローゼ……あの、ちょっと忘れ物をしてしまって、取りに戻らないといけないんだ」


 オルレアはその場から逃げ出す口実を急ごしらえで作り上げる。しかし、フローゼは微笑みを崩さず、その言葉を断ち切った。


「そんなものは明日取りに行けば良いわ。気にすることはないわよ。それより、最近頑張ってるから、夕食にあなたの好きなものを沢山用意したの。一緒に食事をしながらでもしましょう」


 その言葉の響きは、柔らかく甘やかだったが、オルレアにはそれが捕食者が獲物を前にして舌なめずりをするような響きに聞こえた。

 フローゼの笑顔の裏には、彼の全ての行動を見透かしている冷徹な視線が隠されている。

 その視線は、まるで獲物の逃げ場をじわじわと追い詰める蛇の目のようだった。


「そ、そうか。ありがとう、フローゼ。それじゃあ、夕食をいただこうかな」


 オルレアの声は震え、心の奥底にある恐怖が露わになっていた。しかし、フローゼの笑顔は微動だにせず、その冷たい視線は彼をしっかりと捉え続けていた。

 彼女の目には、全てを見透かす冷酷さが宿り、まるで氷のように冷たく、鋭い刃のように鋭利だった。


 オルレアは、まるで今から処刑台に向かう死刑囚のように重い足取りで家の中へと向かった。

 足元の大理石の床が、まるで冷たい墓石のように彼を迎え入れ、玄関の扉が静かに閉まる音は、牢獄の鉄の扉が閉じる音に等しかった。

 彼の背筋には冷たい汗が伝い、心臓の鼓動が鼓膜を突き破らんばかりに響いていた。

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