エピローグ~ギゼラ~

 ギゼラは目を覚ます。とても恐ろしい夢を見ていた気がするが、よく思い出せない。

 起き抜けのボサりとした前髪越し、眠け覚めきらない黒目がちな眼を半分にして隣のベッドを見つめると同室であるルームメイトの一学年上の先輩アネッテが既にいない事に慌てる。いつも「あ~、寝かせてって~」が口癖な程によく眠る彼女よりも遅く起きるという事は朝の始業に遅刻してしまうという事だ。焦りに襲われるのは当然であろう。ギゼラの慌てな朝はこうして始まった。


 結果的には遅刻では無く先輩アネッテが珍しく早起きにボーッと部屋の隅で虚空を見つめていただけであったがそれはそれでギゼラは引き攣りな短い悲鳴をあげる程に驚いた。口数は少なくあまり得意な先輩では無いが、何だか心配にはなったギゼラは声を掛けてから一緒に身支度をした。


 アネッテからは眠たげな声で「ありがとうぅ~」と垂れ目がちな子犬のような眼をフニャリと笑わせて礼を言われた事が妙に嬉しかった。昨日まではこんな短い会話さえもできないほどに距離があったのにギゼラは何だか不思議な気分である。






 朝のやり取り以外は別段と平和な一日をギゼラは過ごす。変わった事があるとすればギゼラに対し理不尽なイジメを繰り返してきたガリリアと取り巻き二人が絡んで来なくなったのだ。ギゼラが顔を向けると何故だかガリリア達は平伏するように頭を下げてくるので驚くとガリリア達自身もそんな行動をとる自分自身にわけが分からないと唇を戦慄かせて逃げるように一列になって去っていくとそこから一日ギゼラから距離を置いているのである。


 理由は全くと理解はできないがあの理不尽イジメが今日一日無かった事に心は随分と軽くなり、穏やかな気持ちで一日を過ごせた。それだけで今日はとても満ち足りた気分だ。


 ただ、何か大事な事を忘れているような気がして、そこだけは心が晴れないままにギゼラは何かを探し求めるように階段を降りていた。


(何を忘れているんだろ?)


 心ここにあらずと中空を見つめながら階段を降りていくギゼラ。霞みがかったように誰かの事を思い出せないのだ。きっと大切な誰かを忘れているのだと思うのに、どうしても思い出せない。


「誰を──ッッ!」


 あまりに上の空すぎたか、ギゼラは階段から足を踏み外していた。目の前がスローモーションに落ちていく感覚に気づいた時にはもう遅いと理解した。このまま後頭部を打ち付けて転がり落ちる痛みの未来しか見えない。



 だが、ギゼラは後頭部を打つ事は無く、急に身体が羽根のように軽くなる錯覚を感じると同時に、身体は柔らかな感触に支えられていた。それは一瞬の出来事であり驚く暇も無い。ただ、暫くと惚けた表情で目の前で見下ろされるを見つめていた。


 その眼を知っている気がしてギゼラの黒目がちな眼は徐々に大きくなりその人の名を口にしようとした。


「ァ……」


 だが、何故だろう。名前が出てこない。どうしてだろう。ギゼラの開いた口は無理に言葉を吐き出そうとして咳き込んでしまう。


「気をつけなくてはダメよ貴女」


 助けてくれたその人はただ短く抑揚の無い綺麗な声で告げ、小さく背中をさすってくれるときびすを返してギゼラを残して去って行こうとする。


 その抑揚の無い声と紅玉色の瞳にギゼラは冷徹令嬢と恐れられているひとりの女生徒の噂を思い出す。今の彼女がそうなのだと。だけど、自分を「助けてくれた」彼女をとても冷徹だとは思えなかった。


(?)


 そうだ、彼女は自分を助けてくれた人だ。何から助けてくれたかなんて思い出せもしないけど、確かに助けてくれたのだ。


 彼女の背を追いかけようとしたが、その脚は何故だか動かない。自分ギゼラが動かそうとしないのだ。彼女には近づかない方がいいと心の内に誰かが楔を打ち付けたようにしか思えず、黒目がちな眼は潤む。


 あの背には近づけない。だけど、お礼くらいは言えるはずだ。理由はある、いま階段の落下から助けて貰えた理由が。


「助けてくれてありがとうッ」


 その声は発せられた。上ずりではあるが確かに意味ある言葉として彼女に伝わったのである。その背は振り向きはしなかったが小さく手を振ってくれた気がして、ギゼラは胸に手を当ててキツく眼を瞑り階段を駆け戻っていた。







 ***




(ワタクシ達の記憶、あの子から消したのね貴方アナタ)


 廊下を歩きながらヒルダはワイバンへと静かに問い掛けた。

 ワイバンの声は静かに帰ってくる。


 ──ああ、精神を元に戻す際にな。私達との繋がりを持っていると彼女を再び危険に晒す可能性もある。ヒルダ嬢、君も理解はできると思う。

(……そうね)


 ワイバンを会した一時とはいえ、慕ってくれたギゼラ。できる事ならば平穏な日々を過ごして貰えればという偽らざるヒルダの本音はある。


(ワタクシが接触しなければ、彼女はもう安全といえるのかしら?)

 ──ああ、ガイゾーンは一度融合させた精神を使う事を嫌う。言い方は悪いが敗北者にようは無いという訳だ。私達との繋がりがあれば別の使い道に利用されてしまうが記憶さえ無ければ問題は無い。彼女の無事は約束しよう。

(無事……でも、彼女の敵は日常にもいるのでは無くて?)

 ──それも心配は無い。あの三人の精神にはバイゾッド機兵であった時の上位存在であった彼女ギゼラに逆らえない本能が残されてしまっているようだ。動物の群れの長に逆らう事ができぬのと同じと言っていい。不可抗力ではあるが、歪んだ心を撒き散らす事を抑制できるのであれば、このままにしておく方が良いと判断した。


 ワイバンの言葉にヒルダは短く頷いた。ガリリア達の理不尽を止められるのであればそれでよいと思えた。仮に、ガリリア達が他の生徒に理不尽を振りまこうとしてもギゼラの存在がそれを止めてくれるだろうと理解した。


(なら、いいわ。それだけでも分かれば、充分というものね)


 ヒルダは歩みを速め自然と胸を張って歩き出した。そこに迷いは無いと感じたワイバンはヒルダに問い掛ける。


 ──共に戦おう、ヒルダ。


 ワイバンの声の響きに、ヒルダは抑揚なく答えた。


(誰が戦うと言ったのかしら?)

 ──なっ、ハッハッハ、冗談が過ぎるぞヒルダ嬢、自ら変身を──

(──あれは特別な事情。それに、変身を口にしたのは夜のワタクシ、今のワタクシでは無くてよ)

 ──屁理屈だぞヒルダ嬢、まだガイゾーンとの真の戦いは始まったばかりなのだぞッッ!!?


 ワイバンの何処か焦った様子に少しばかり溜飲は降りたとヒルダは一瞬だけ紅玉色の瞳を細め笑わせ、胸を張る歩みをもう一段強め駆け出した。


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