ヒルデガルダ~リンドヴラームの大穴へと~

 クララが興味深げに見降ろす下方にはまるで大地を抉り取ったような巨大な大穴クレーターが空いている。まるで学園には似つかわしくない、底なぞまるで見えぬ深淵の別世界に吸い込まれてしまいそうな大地の空洞がそこにあるのだ。この大穴を中心に四棟の建物で囲うような形でこのリンドヴラーム貴族学園は建てられている。学園の生徒、教職員にとってはリンドヴラームの大穴はそこにあるのが必然であり、生活に溶け込んだ当たり前の風景である。入学したての頃はともかく、そんなに好奇心旺盛と眺めるものでも無いのである。


「確かにあの大穴は壮観だとは感じますけど、興味を持つ程に珍しいものとは思えないわね」


 ヒルダは別段と興味は無いがつまらなげな声でクララに声を返した。クララはその声に蒼い瞳を向けて柔らかな笑いで応える。


「そうでしょうか? この大穴は空から落ちてきた神様がいた証拠なのだと子どもの頃から聞いてましたのでわたしは入学する前からとても興味惹かれてましたよ」



 ドランヴェール王国神話に伝えられる神様の話はヒルダとて子どもの頃より幾度も聞かされた話であり、先程までのアーベント教諭の芝居がかりな演説会のような授業で嫌というほど聞いてきた所でもある。


「空から降ってきた神様が降臨された大穴。そこから神様の魔力がこのドランヴェール王国に溢れ四季の彩る世界となり温暖なる気候と多くの実りにより平穏な日々を我々は過ごせるのである」


 ヒルダは淡々と呟くようにリンドヴラームの大穴に纏わる神話を軽く口にした。正直、ヒルダはこの神話の神様を実のところ信じてはいない。だが、信心深い人々にとってはこの神様とやらは本当にいるのだと語られている。ヒルダの両親も信心深い貴族であり、専属メイドのメートヒェンの家系もそうだ。家の中で特異なのはヒルダである。表向きはヒルダも信じているのだとしているが、神様の存在は半信半疑だ。


「ロマンチックですよね、あの暗闇の先に神様がいらっしゃるかも知れないだなんて」


 そして、それは目の前のクララも同じようである。ドランヴェール王国の貴族で神様を信じていない者は極小数であるので当たり前であるのだが。


「だけど、あの底に飛び込む事はできはしないでしょう」


 ヒルダが細指で渡り廊下の先の景色を触ろうとすると見えない壁のようなものに指が阻まれる。転落防止に渡り廊下に張り巡らされている重力結界ジ・ウォールである。大気に触る風や陽光は通すが、渡り廊下を進む人間にたいしてのみ発動する結界だ。リンドヴラーム貴族学園を象徴するこの大穴を普段から目にできるように施してある。たとえ神様がいようとも生命と引き換えに会いに行く事は許されはしない。


「ふふ、神様に会えるものなら会ってみたいですけどね」


 クララは奥せずと冗談めかした笑いを返す。ヒルダは障壁触る指を引っ込めるともうこれ以上は興味も無いと後ろのメートヒェンに流し目で目配せをし、学生寮へと歩みを進めようとした。


「わたし「夢」を見るんですヒルデガルダさん」


 その時、突然に呟いたクララの「夢」という一言に足を止める。


「……夢?」

「ええ、わたしの中にいる「天使」さまとお話する夢を見るのですよ。優しい天使様の夢。わたしは、いつか天使様に、夢の中ではなく本当にお会いする事が夢なのです」


 何処か愛おしげな表情で夢を語るクララをヒルダは少し羨ましいと思うのと同時に悔しいと思えた。


 ヒルダの見る夢は、いつだってあの訳の分からない「悪夢」だ。天使の夢なぞ、見た事もない。幸せだと思える夢を見られるのは最高の贅沢だ。


 この昼間の性格では珍しく妙な苛立ちを覚えてしまったヒルダは。


空想癖メルヘンな夢は、あまり見るものではなくてよ」


 抑揚の無さに何処か暗いものを混ぜて呟き、そんな自分も愚かで虚しいとさえ思え、その場を早く去ってしまいたいと今度こそ足を踏み出そうとした──瞬間。


 耳を劈くような異音が響いたかと思うと、強烈な横凪な突風が、ヒルダの身体を突然と巻き上げた。


「ぇ?」


 何が起きたか理解出来ぬままに、ヒルダの身体は重力結界を越え、渡り廊下の外へと投げ出されていた。


「ヒルデガルダさ──ッ?!」

「お嬢さま──ッッ!!?」


 二人の裂かれるような叫びが嫌に遠くに感じられ、ヒルデガルダの身体は空を切り裂き、落ちてゆく。重力結界ジ・ウォールに守られたはずの渡り廊下から転落してゆく。


(ああ、死んでしまうのねワタクシ)


 まるで他人事のように心の中で呟き、ヒルデガルダは真っ逆さまに深淵たるリンドヴラームの大穴へと堕ちていった。






 ──暗い、暗い、どこまでも暗い。いったい何処まで落ちれば気がすむの。これではまるであの悪夢の中にいるようじゃない。死ぬって決まっているのに、どうしてこんなに、アタシを──。


 リンドヴラームの大穴を落ち続けるヒルダの心は真夜中の子どものような人格に戻っていた。確定した死を待つ事をその心は耐えられはしない。


「神さま、アタシ……死にたくないよ。いるなら──助けて、お願い」


 ヒルダは信じてはいない神様に、今だけは死する運命を避けるように願った。それがどこまでも虚しい事だとわかっていても、願わずにはいられなかった。


「……ぁ」


 その時、紅玉色の瞳に何か青と白の巨大な存在をとらえた。瞬間、時は恐ろしい程に遅く流れるように感じられた。その存在を観察できる程に。その存在──甲冑のような腕に見覚えがあった。幾度も見た悪夢の中の自分の腕そのものに見えたのだ。


 死する瞬間に見るものがこれかとヒルダは運命を呪うように瞳を閉じ、彼女の意識は──いま、世界から消えた。







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