君を離さない

403μぐらむ

君を離さない

「はぁ……」


 今日何度目のため息をなんだろうか。ため息を一つ吐くと幸せが一つ逃げていくなんて聞くけれど、今日一日でわたしはいくつの幸せを不意にしたのだろうか。とはいえ元より大した幸せなどわたしにはないのだから大差変わらないだろうとも思う。


「はぁぁ」


 こんな日に限って仕事は定時で終わってしまった。残業でもしていれば時間も潰せるし、余計なことも考えないで済む。

 映画でも観ようと思ったが、今上映しているものにピンとくるものはまったくなかった。ラブロマンス、アクション大作、話題のアニメーション。今のわたしにはどれも刺さらない。ただの時間つぶしにするなら何でも構わないのだけど、対価を払う以上それなりには楽しみたいと思うのはおかしいだろうか。


 会社の最寄り駅から数駅離れたところで途中下車して、ふらふらとしながら入ったチェーン店のカフェショップ。ここで何時間も席を占領しているわけにもいかない。

 腕時計を見てみるもまだ時間は20時にも届いていない。

 SNSでケイコやリオンに連絡してもいいけど、割と忙しい彼女らはまだ仕事をしているだろうし、もしはねていても毎度のごとく付き合わすのも申し訳ない。手持ち無沙汰にスマートフォンをいじっているとバッテリーの残量低下を警告する通知が出る。


「モバイルバッテリーは……忘れたみたいね」


 まったく。今日は本当に碌でもない。モバイルバッテリーも持ってきていないし、充電用のケーブルの類も一切ない。朝、カレシと喧嘩して出てきたからいつもは持ってくるものを自宅に置いてきてしまったようだった。

 なけなしの電池残量でカレシに電話をかけてみるが、聞こえてくるのは電源が入っていないか圏外にいるという冷たい機械音声のみ。

 彼が電源を落としているのは女と会っているとき。自分では気づいていないみたいだけど、後ろめたいのか必ず浮気しているときは電源を落としている。出かけに『今日は残業だからずっと遅い時間になるからねっ。勝手に何でも自分でやってちょうだい!』ってわたしが啖呵切って出てきたものだから、これ幸いに部屋に女を連れ込んでいることもわたしはわかっている。


 カレシとわたしは同棲中。だから、浮気相手の女のいる部屋には帰れない。今更乗り込んでいって怒鳴り散らすつもりもないし、そんな気力もない。そもそもそんなことに費やす気力体力が余っているのならばこんなところでくすぶってため息を連発などしていないのだ。

 カレシとの関係はとっくのとうに冷めきっている。それでも一緒の部屋に住んでいるのはわたしに行き場がないってことのただ一点。部屋の契約者は彼でわたしは転がり込んだほうになる。熱心に呼んだのは彼の方だから責任の所在はどっちもどっちなのだけど。

 ただ、いざ別れて出ていくとなってもわたしには行き先がない。新しく部屋を借りるにしてもお金は必要だし時間だってそれなりに用意しないとならない。

 カレシは自分が悪者になりたくないのか『出ていけ』とか『別れる』とは自ら絶対に口にしない性格。反対にわたしはお金がないので簡単に出ていけない。そもそもわたしにお金がないのは彼の浪費が原因だから彼としては何も言えないというのが本当のところだろう。まさに手詰まりって状態になっている。


「どこかに敷金礼金ゼロで家賃も格安なところないかしら……」


 この際築年数など気にしないし、どうせ昼間は仕事に行っているのだから日当たりだって気にしない。最悪事故物件でも構わないと思っているけれど、これがなかなかいい物件には巡り会えないもので思いの外困っている。

 行き先さえ決まればあんな男など秒で切り捨てる心づもりはできているのだ。未練など毛頭ありっこない。


「あれ、道方みちかたさん? どうしたんですか、こんなところで」


 考えに耽っていたところに急に声をかけられて体が跳ねる。


「あっ、あっ、ね、音成ねしげくん。まったくっ、いきなり声かけるなんてびっくりするじゃない」


 飛び跳ねた恥ずかしさと会社の人間と会わないように会社から離れたのに、こんなところでぽつねんといるところを見られた気まずさから動揺してしまった。不審に思われていないだろうか。


「す、すみません。まさか道方さんがいるなんて思ってもみなかったので思わず声をかけてしまいました。驚かせてほんとうに申し訳ございません」


 深々と謝罪する彼をみて、やや批難めいて彼に抗議の声を上げてしまったことを悔やむ。彼もそこまでも謝らなくてもいいのに。


「ううん、ごめんなさい。わたしこそそこまで怒るようなことでもなかったわ。音成くんは今帰り?」

「はい。今日は軽くここのカフェのサンドイッチを夕飯にしようと思って寄ったんです」


「そうなのね。週末なのにこんな時間まで残業なんてお疲れ様」

「いえ、今日の残業は自分の提案が社内コンペで優秀賞とったことに起因するものなんでぜんぜん余裕ですよ。寧ろもっと残業しても良かったんですが課長に帰されました」


 そういえばそのような話を同僚がしていたのを聞いた覚えがある。今回の社内コンペは接戦だったらしいのだが、あたま一つ抜けて音成くんの提案が通ったらしい。


「そうなのね。それはおめでとう。やりがいのある仕事なのはわかるけどやり過ぎはだめよ?」

「はい、ありがとうございます。えと、それで道方さんはどうしてここに?」

「……」


 答えないといけないのだろうか? ここで誤魔化すこともできるが、一度嘘を吐くと次から次へと嘘を塗り重ねることになるのを最近身近なところで見たばかり。今頃わたしの知らない女と懇ろしている糞カレシのことだが。


「ねえ音成くん、このあとヒマ?」





「――ということがあったので家に帰れなくてあそこにいたって訳よ。笑いたければ笑ってもいいよ。自分でも情けなくて笑うしかないと思うもん」


 音成くんとは所属課は違うが同じ営業部所属であり、彼の所属する営業課のサポートをわたし達営業支援課が行っているのでもともと知らない仲でもなかった。しかも彼の先輩の並木貴文とうちの江永良美が恋人同士ゆえ、その関係で一緒に飲みに出かけたことも何度かあったので、いちおう音成くんとは顔見知り以上の関係にはなっている、つもりではいる。


「僕は笑いませんし、このことは誰にも話さないです。他言無用秘密厳守します」

「もう、かたっ苦しいなぁ。もう会社じゃないんだし肩の力抜こうよー」


 入店後15分、もうわたしはもう大ジョッキ2杯めである。音成くんが暇だというので近くの居酒屋に繰り出したのだ。


「い、いやぁ道方さんは先輩ですし……」

「そんなの義之よしゆきくんが大学受験で一浪したせいでしょ? 歳はわたしと一緒じゃない? 先輩だのなんなのお酒の席でいちいち気にしなくていいよっ」


 高校生のころなら同級生ではないか。いや学校が違うからそうは言わない? うん、どうでもいい。ここは会社じゃない、ただそれだけ。


「よ、義之って」

「あれ? 音成くんって義之じゃなかったっけ? 下の名前」

「いや、合っているけどいきなり名前呼びされると驚くでしょ?」

「おっ、いいねタメ口。そうだ、わたしのことは紗奈さなって呼んでよね」


 最近では糞カレシぐらいしか名前で呼んでこないので義之くんに名前呼びされてしっかりと上書きしておかないと我が名前が腐りそう。


「えっ。嫌だけど?」

「はぁぁ!? なんだとぉ〜カノジョ以外は名前で呼ばない主義かい? そいえば、義之くんはカノジョいるの?」

「いないけど? 悪いけど彼女いない歴イコール年齢ですがナニカ?」

「ほんとうに?」

「ほんとに……」


 義之くんは別にイケメンとまでは言わないけどそれなりにいい面構えしていると思う。背も高いし、スポーツでもやっていたのか体つきもガッチリしていてスーツが良く似合っている。性格だって温和だしけっこう気も利く。仕事もコンペで賞を取るくらいにはできるのは間違いない。

 そんな優良物件そうな男なのにカノジョがいたことが一切ないなど嘘にしか思えない。


「取り敢えず飲もうか?」

「あ、はい。じゃぁハイボールで」

「わたしはジントニックにする」


 わたしは注文用タブレットをポチポチしている義之くんの横顔をこっそりと覗き見る。




『出てくる。今日はもう帰らない』


 スマホがぶるっと震えてメッセージの着信を知らせた。そこに入っていたメッセージが糞カレシからのこれだ。スマホの充電は義之くんのモバイルバッテリーを借りたので復活している。


「はぁ……」


 義之くんといることで影を潜めていたため息がまた現れる。幸せな気分が水泡のように消えていく。


「どうしたの?」

「こんなのが入ったから帰るね……」


 スマホの画面を見せると義之くんも微妙な表情をする。楽しかった時間もここで終わりってことだ。指先に憂いを漂わせ注文用タブレットの会計ボタンをタップする。

 飲み代はわたしの奢りにした。義之くんは頑なに固辞したけどクレカでピッと支払いを済ませてしまえば何もいえまい。


「わたしに付き合わせたみたいなもんだからここは先輩に譲りなさい」

「ここだけ先輩面すんのズルいじゃないか? じゃあ代わりに道方さんちまで送っていくよ。酔っ払っている美女をこんな夜中に一人で帰すほど僕は男を廃すつもりはないからね」


 一瞬逡巡したけれど、確かに時間も時間だしあの場所に一人で帰るっているのも抵抗があったので、義之くんの善意に乗っかる形で申し訳ないけれど送ってもらうことにした。美女と言われたのが嬉しかったのも少しだけある。電車で4駅15分ほど、駅からは徒歩10分かからない住宅街のアパートまで送ってもらう。


「そういえば義之くんの家ってあの駅が最寄りなの?」

「うん。歩いて5~6分ってところかな。叔父の所有するマンションの一室を借りている」

「駅チカでいいね」

「かわりに休みの日には管理人みたいなことを叔父に代わってやっているんだ。だから住人の中には僕のこと管理人さんって呼ぶ人もいるくらいだよ」

「なにそれおもしろい」





「ここでいいよ。ありがとう義之くん」


 アパートの建物の下まで来たところでお礼を言って帰ってもらおうとした。終電までは未だ時間はあるけどけっこう深い時間なので残業で疲れた身体には堪えるだろうと思った。


「いや、道方さんがちゃんと部屋に入るのを見届けてから帰るよ。意外と部屋に入る直前が危ないなんて話も聞くし」

「もう、心配性だね。じゃぁ、部屋までよろしくお願いします」



 メッセージの通りカレシはいないようで部屋は真っ暗だ。鍵をバッグから取り出してドアを開ける。

 途端に部屋の奥から漂ってくるムワッとした淫靡な臭い。メントールタバコと性行為の痕跡をありありと証明するかのような臭いにわたしは顔をしかめた。最低限換気扇くらいは回しておいたらどうなのかと思う。

 振り返ると義之くんも臭いに気づいたみたいで同じく眉間にシワを寄せていた。


「ごめんね。不快な匂いかがせちゃったね」

「それはいいんだけど、僕、ここに道方さんを残して帰るのだけは出来ないかもしれない」

「? どういうコト」

「こんなところ道方さんがいていい場所じゃないと思う。ゼッタイに間違っている。あのさ、不躾なのは重々承知なんだけど、今から僕んちに来ないか? 部屋は空いているし道方さんの一人くらいどうってことないし」

「……いいの?」

 そう言ってしまったのは酔いのせいなのか。それとも?





「あとこれだけ?」


 とりあえず窓という窓を全部開けて、悪臭を換気して耐えられるレベルまで落としたらわたしの私物をスーツケースに詰められるだけ詰め込む。昔海外旅行に使ったとても大きいスーツケースを処分していなかったのが功を奏した。

 荷物の量はスーツケース大一つ、スーツケース小一つ、ぱんぱんのボストンバッグ一つに纏まった。持っていくようなものは意外とあるようでないものだった。一方いらないものは放っておくことにした。ごみ捨てくらいはあのクソ男でもできるだろうし、なんなら浮気相手の女にでもやらせればいい。後のことをわたしは関知しないしするつもりもない。


「おっとメモを残しておくのを忘れた。えっと――」


将信クソ男

 あなたとは本日別れることにしました。

 長々とお世話になりましたが今を以てこの部屋を出ていきます。必要なものは持ち出したので残りはあなたが不要ならば処分してください。鍵はポストに入れておきますのでご回収くださいまし。

 なお、今後はわたしから一切の連絡をすることはないので、あなたからも連絡はしないようにお願いします。これをたがいますと迷惑防止条例違反となりうるのでご留意ください。

 では、さようなら。 道方紗奈』


 あくまでも事務的かつ端的に要点だけをまとめたつもり。そうしないと恨みつらみだけで小説1冊分くらいは書けてしまうような気がしたから。



 アパートの外に出るとタクシーが待っていた。いつの間にか義之くんが用意してくれていたようだ。待ってくれている車も最近良く見る背の高い荷物がたくさん乗りそうなタイプなので大きなスーツケースも余裕で収納してもらったあとだった。タクシーをさり気なく手配しているのも配車された車種が荷物をたくさん載せられるタイプにしているところまでなんともスマートでちょっと、いやかなり義之くんのことは見直した。気遣いのできる子だとは思っていたけど、実のところわたしは彼のことをもう少しぽーっとしたおぼっちゃんタイプだと思っていたのだ。彼にはゼッタイに言えるわけないが。


 ちょっとお腹の奥のほうがカーっと熱くなってきて自分でも驚く。

 今までは糞でもカレシがいたので他の男になんて全く見向きはしてこなかった。もしそんなコトをしてしまえばクソ男と同じ穴の狢になってしまう。それだけは御免被りたかったので厳しく自分を律していた。だから義之くんのことも会社の同僚とかせいぜい仲の良い飲み仲間程度までにしか考えていなかったのに。決して一人の男性としては見ていなかったのに……。


「どうしたの、道方さん。もう行くよ?」

「ごめん、ちょっと感傷に耽っていただけよ」

「そんな必要あるの?」

「ないかもね。はい、もう終わり。行こっ」


 感傷になんか耽っていない。あなたのことを考えていただけ。

 簡単にそう言えれば苦労はないのだろうけど、それなりに拗らせた人生を歩んでしまったらしく素直に言葉を紡げないようになってしまったようだ。人前でもカレシの並木さんに甘えられる江永の様な女だったら可愛げもあるのだろう。

 車窓を眺めながらそんなコトを考えていたら、左手をキュッと握られる。もちろん握ってきた相手は義之くん。その手の感触に嫌な感じはまったくなくて寧ろ安心するような気さえした。わたしも彼の手を握り返す。

 何となくそうしたかったからそうした。


「大丈夫だよ。僕がなんとでもするから」

「うん。ありがとう」


 無性に泣きそうになったがなんとか我慢した。




 彼の叔父さんの所有するマンションと聞いていたので各戸ワンルームのようなもう少し小規模な物件を想像していたのだけれど家族向けにしか見えない部屋が20世帯ぐらいは入りそうな規模のマンションだったのでいきなり度肝を抜かれる。叔父さんとは何者なのだろう?


「昔からここに住んでいてこんな大都会になる前には地主だったと言えばわかるかな?」


 叔父さんが大地主なら義之くんのお父様も? と卑しい考えがよぎったけれど、彼のお父様は土地を相続しなかったようで今では法で言うところの社員さんとのこと。法ってなんのことか聞いたけど義之くんも誤魔化されてよくわかっていないらしい。どうせ親子の仲でも金銭は他人っていうし、ましてや第三者のわたしには関係のないことなので気にするだけ無駄だ。


「まあ入って。いうほど狭くはないと思うけどさっきのアパートよりはマシだと思いたい」

「いや、マシとかいうレベルじゃないでしょ? 完全にこっちのほうが広いしきれいだよ」


 2LDK風呂トイレ別。整理整頓も行き届いているようですごく居心地が良さそうだ。


「道方さんの部屋はこっちでいいかな? 今は全く使ってなくて半分物置みたいになっていて申し訳ないんだけど」

「いや、ちょっと。さっきまでの私の部屋より広いんだけど? わたし、そこのクローゼットだけでもいいくらいだよ」


 四畳半くらい有りそうなウォークインクローゼットがあるのでわたしはそこで構いませんと言いたい。


「御冗談を。さて、もうすぐ12時になっちゃうから先にお風呂入ってください。道方さんは湯船派? それともシャワー派?」

「今日はちょっと色々とありすぎて湯に浸かりたい気分なんだけどいいかな? 我儘言ってごめんだけど」

「僕も湯に浸かりたいから問題ないよ。湯張りするから沸いたら入ってね」

「ありがとう、助かります」


 湯が沸くまで物置と言われていたわたしの部屋になる場所を片付ける。ヨガマットや腹筋ローラーなどのトレーニンググッズがあるだけで物置とは言えないレベルだったのですぐに片付けは終わる。


「義之くんってトレーニングとかしているんだ」

「あー、社会人になってから運動ってなかなかしないからね。僕、太りやすいみたいだから気をつけているだけだよ」


 その心掛けがすごいのに気づいていないのかしら。こんなわたしでもダイエットくらいはするが運動はからっきしだ。それに糞カレシ、もとい元彼が運動などをしていると茶化してきてうるさかったからあまり運動はしなかった。やはり義之くんは偉いと思う。


『タランタラン♪ お風呂が沸きました』


「あ、風呂出来たみたいだから入ってきて」

「義之くんも一緒に入る?」

「…………」

「あ、ごめん。そういうつもりじゃなくて、不快にさせちゃったらごめんなさい」

「自制しているんだから気をつけてくれよな……」

「えっ、なに? ごめん聞こえなかった」

「いやいやなんでもないよ。ほら、早くあったまっておいで」

「うん、ありがと」




 チャポンッ……。

 温かい。たくさんの嫌なものが身体から流れ出て汚れが落ちていくような気分。ああ、やっとあの男と別れられた。もう二度とあんな思いはしなくていいのだ。あれもこれも全部義之くんのお陰だ。

 なんでわたしのような女にここまで優しくしてくれるのだろうと思っていたが、先程の言葉、実はしっかりと聞こえていた。『自制しているんだから……』と彼が言っていたのを聞き逃してはいない。


(それってわたしのこと一人の女として見てくれているということだよね?)


「いつからかなぁ」


 まさかさっきからということはないと思う。あと義之くんだから一時的な性のはけ口としてわたしのことを見ているとも思えない。何故かというと、わたしはそれなりにスタイルに自信あるのに義之くんの視線がわたしの胸などに来ていることはぜんぜんなかったから。こっそり見られていたらわからないけど、見る人は凄く見てくるからよく分かる。性的な視線なんて案外とすぐに分かるものなのだ。

 かく言うわたしも以前から彼のことを気にしていたことは間違いないと言える。交際を前提として見ていなかったのは事実だが、一男性としては彼の人となりをよく観察するくらいには気にしていたことは否定できない。


「今はお互いにフリーだよね……」


 もしわたしが誘惑したら彼は乗ってきてくれるだろうか、などと不埒な考えが頭をよぎる。そのようなことがわたしにできるのかと問われればまず絶対に無理と答えるに違いない。こう見えて身持ちは堅い。なにせ元彼があんなクズでもわたしは元彼以外の男性には見向きもしなかったくらいだから。そんなわたしが幾ら彼に気持ちがあるとはいえ、自分から彼を誘惑するなんてことできっこない。でもそんなことをいつまでも言っていたら……。

 自らの胸を持ち上げてみる。まだしっかりとハリもあるし形だって良いと思う。男の人からすれば触り心地だって気に入ってくれるはず。


「でもわたしの身体には目もくれないんだよね……。そんなにわたしって魅力ないのかな」


 それとももしかしたら単にあんなクズ男の後釜が嫌なのかもしれない。もしそうならわたしにはどうすることもできない。泣きそう。





「お先いただきました。ごめんね、長風呂しちゃって」

「ゆっくりできたなら僕も嬉しいよ。じゃ、僕も入ってくるね。もし眠かったら、今日は申し訳ないんだけど僕のベッドで寝てくれ」

「えっ? 同衾?」

「違う、違う。ほら、布団ないでしょ、だからだよ。僕はリビングで寝るので大丈夫だから」


 一緒ではないのかと少し残念に思う。それよりもリビングを見てもソファーなどないし、あるのは人がだめになりそうなビーズクッションの小さいやつがひとつあるだけ。これのどこで寝るというのだろうか?


「どこで寝るつもりなの、義之くん?」

「えと、そのクッションを枕にラグの上でいいかなって。ほらたまに映画見ながら寝ちゃうこともあるからソレと一緒だよ」

「だめだよ。それじゃ疲れも取れないし身体が痛くなっちゃう。もしそうするならわたしが床に寝るよ」

「いやいや、女性を床で寝かすなんてありえない」

「義之くんが床で寝るのもありえない」


 優しさも行き過ぎると心配にしかならない。そこはわかってほしい。


「一緒にベッドで寝ましょう。ね? くっついて寝れば二人でも寝られるでしょ?」

「僕の理性のことも考えてほしいんだけど!?」


 深夜のテンションのせいなのかとても大胆なことを言っているという自覚もなく、ある意味ベッドに義之くんを誘ってしまった。いや、ベッドを共にしてもそういうことはするつもりは……ないわけではないけれど。

 わたしは生理痛がちょっと辛いレベルで強いのと元彼がアレだったのもあってピルを服用している。だから、たとえ避妊具の用意がなくても問題ない。ただそれを義之くんに伝えるべきかどうかが悩ましい。でも伝えておかないとそれが原因で諦めるなども義之くんなら有りそうだ。ただ一方で下手に伝えるとわたしのほうがしたがっていると勘違いされそうな気もしなくもない。義之くんのことだからそんな穿うがった見方はしてこないと信じているけれど。頭をグルグルさせた挙げ句わたしが言ったのは――。


「いいんだよ。理性、なくしても……」


 トドメの一言だった。


「っ! え、ええと。風呂、入ってくるね」


 それだけいうと義之くんは飛ぶようにリビングを出ていった。そういえば義之くんはカノジョが一度もいたことないって言っていた。もしプロの方ともしてないとなるとまだ彼は……。


「わたしがリードしないとねっ」


 これをきっかけに変な責任感というか使命感がわたしの中で湧き上がる。いつの間にか義之くんのカノジョの座に収まる気満々になっていることに気づく。さっきの感じだと元彼の後だから嫌だというような感情は彼にはないみたい。ならば先程の不安は杞憂でしかない。


「紗奈。この状況、どうするか決めるのはいつなの? 今でしょ!?」


 古い流行り言葉を口にして気合を入れ直す。さあ、ベッドに入って義之くんを待つことにしよう。





 カーテンの間から光が差し込む。眩しさにわたしは顔をしかめ、同時に目も開けた。

 昨夜はあのあと義之くんと熱い夜を過ご――していない。


「やってしまった……」


 ベッドの中は義之くんの香りで充満していた。布団は彼に包まれているような感覚をわたしに与えた。結果、安堵の気持ちが勝ってしまいそのまま就寝。それに気づいたのはたった今だ。

 わたしは頭を抱える。

 精神的な意味と実際に激しく頭が痛いからだ。完全に二日酔いになっている。居酒屋でしこたま酒を飲み、その後元彼のアパートで酔ったままの引越し作業をした。義之くんの部屋に来てからは安堵と期待と期待と期待。心身ともに限界だったのかもしれない。


「義之くんは?」


 一緒のベッドで寝た形跡はない。つまりは彼を床で寝かしてしまったということ。自分は気持ちよく柔らかなベッドで寝ておいて彼を硬い床で寝かすなんてとんでもない女だ。

 慌ててベッドから這い出る。文字通り這って出た。頭痛がひどくてまともに歩けないのだ。


 部屋から出るとリビングには普通に義之くんがいた。なんならふつうに洗濯物を片付けているまであった。


「あ、おはようございます。昨夜はゆっくりと眠れましたか?」

「うん。でも義之くんは……」

「僕は大丈夫ですよ。クローゼットに昔使っていたシュラフとインフレーターマットがあったのでちゃんと寝られましたよ」

「シェルフがインフレ?」


 よくわからないが義之くんも眠れたことは間違いなさそう。少しだけホッとした。


「ごめんなさい、わたし昨日、先に寝ちゃって……」

「いえいえ。僕も酔っ払っていたんでよく覚えていないんですけど先に寝ちゃうのは全く問題ないのでご安心ください」

「でも……。うっ、いたい……」

「あれ? 二日酔いですか? えっといま薬を用意しますね。少しお待ち下さい」


 五苓散を飲みビーズクッションを背に横になっている。義之くんはわたしのために朝ご飯を用意してくれている。本当に情けない。

 最初に無様な姿を見せてしまえばあとは何も怖くない、などというがどうせならその無様はさらしたくなかった。

 それよりも彼が昨夜のようにタメ口を使わず丁寧な口調で話してくるのが気になる。少し距離を感じてしまう。



 午後になり頭痛もすっかり治まったので買い物に行くことになった。わたしの身の回りの寝具や食器類など含め日用品が一切ないからだ。さすがにアパートから布団や細々とした茶碗など持ってこられなかったし、そもそもそこに気も回っていなかった。


「車出しますのでまず、家具屋に行って寝具を揃えてしまいましょう」

「義之くんは車を持っているの?」

「あの、滅茶苦茶古い車なので期待しないでください。狭いですし乗り心地もいいとは言えませんので……」

「気にしないわよ。乗せてもらえるだけ有り難いわ」


 駐車場に停まっていたのは深い緑色をした小さな車。丸いライトにずんぐりむっくりなボディ。お世辞にもかっこいいとは言い難いが可愛らしい車であった。


「ローバーミニって名前で、2000年より前の製造なのでもうすっかりおじいちゃんなんです」

「大事に乗っているのね」

「はい。僕が手に入れてからもう5年になります。動かなくなるまで乗るつもりです」

「すごいね。じゃあお願いできるかな」


 緑の看板のお値段以上の量販店に向かう。道中もやはり義之くんの話し方は先輩に対する丁寧な言葉づかいという感じでどうにもこうにも落ち着かない。一度昨夜のような話し方に慣れると違和感しかない。ここは会社ではないのだから普通に話してほしい。


「ねえ、義之くん」

「なんでしょうか? 運転が荒かったですか?」

「ううん、大丈夫。そうじゃなくて、その話し方。元に戻してほしい」

「もともと僕は先輩に対して丁寧に話していたつもりですが」

「だからそれが嫌なの。昨夜みたいに普通にタメ口で話してほしい。もしわたしが昨日変なことしたせいなら謝るから元通りに話してほしい」


 わたしが勝手に期待して誘ったことが不快だったなら謝る。もし出て行けというなら有無を言わさず従うのもいとわないつもりだ。少し時間はほしいが。


「昨夜は道方さんも酔っていたし、ほら、カレシの家から別れて出てくるとかいろいろあったから混乱していたのかなって。だから、昨夜のことは全部忘れようかと」


 全部お酒のせいにしてなかったことにしようとしているの? それは違う。


「確かにわたしは酔っていたし、人生でいちばん波乱万丈な夜だったと思うよ。でもね、意識もちゃんとあったし記憶もしっかり残っている。わたしは自らの望んだことをしようとしただけなの。それを忘れるなんて嫌よ」


 期待ばかり最大限に膨らましておいて最後は寝てしまうという失態を犯したけど。


「……分かった。でも」

「でも?」

「直ぐには答えを出したくないんだ。もし道方さんがいま僕にそういう想いを持ってくれているのが、カレシと別れた喪失感とか空虚感を埋めたいがためから来ていたりしたら嫌なんだ。そんなことはなければいいと思うし、違ってあってほしいと思っている。でも、もしそうだとしたら僕はもう立ち直れないかもしれない」


 わたしがあのクソ男と別れて喪失感を持つ? ありえない。けど、義之くんはそれを危惧しているということらしい。


「わたしからすれば全く問題はないと思っているのだけど。義之くん的には違うんだよね?」

「彼女いない歴イコール年齢のめんどくさい男が何を言っているんだかって感じかもしれなくてごめん。でもそれくらい僕も真剣なんだ。そこはわかってほしい」

「分かったわ。でも、いつまでも待っているのは辛いわよ?」

「うん。ひとまず一月時間をくれ。その一ヶ月一緒に暮らしていく間に僕も答えを出すよ」


 それならいいだろう。嫌われているわけでもないし、寧ろ好きだと言っているのとほぼ同義のことを言われたのだ。ここは納得しておくのがいい女だと思う。




 20分ほどで店舗に到着する。わだかまった気持ちがスッキリしたので楽しく買い物が出来そうだ。寝具は最後にして最初に自分専用のご飯茶碗や箸などとひと揃えのカラトリーを選んでいく。


「どうせならお揃いとかにしない? でももう持っているから義之くんは無駄になっちゃうかな?」

「いや。どうせなら一緒のものを買い揃えたい。量販店で選ぶのもなんだけど最初だから許して」

「問題ないよ。値段の高い安いじゃないもん。気に入ったのがあったら教えてね」


 二人で相談しながら食器を選んでいく。すべてがちゃんとペアになっているのを見るとなんだか嬉しくなる。元彼とはそういう選び方なんて全くしなかったから新鮮で楽しい。新しい生活が始まるのだと思うと心も弾む。


「とりあえずこれくらいかな。次は寝具だね。ベッドはさすがに持ち帰れないだろうけどマットレスとかなら物によっては持ち帰れるみたいだよ」

「マットレスが持ち帰れるの? だってマットレスだよ? どうやっても畳めないでしょ?」

「なんか圧縮して円筒形になっているみたいだよ。以前何かで見たことがあるんだ」

「へー。なんかすごいね」


 布団などの寝具は寝られれば何でも良かったので高価過ぎず安価過ぎずのちょうどいい塩梅の価格帯のものを選ぶつもり。どうせならダブルベッドを買って二人で並んで寝るのがいちばんだけどそれは一ヶ月後の楽しみにしておこうと思う。ただその予定だと今あるベッドも今から買うベッドも不要になるので少し購入に躊躇する。


「といことで方針転換。一番安いのでいいです。マットレスもいらない。掛け敷布団のセットでいいや」

「それじゃよく眠れないんじゃないの?」

「そんなコトないでしょ? 普通に売っているのだから最低限寝ることぐらいは可能でしょ?」

「では僕がその布団で寝るよ。道方さんは僕のベッドで寝てくれ」


 義之くんのベッドは彼の匂いがたっぷりして最高以外の何物でもないが、そこはグッと我慢して自らの布団で寝ることを主張する。わたしが意地を張ったので最後は義之くんも折れてくれた。ただし、わたしがしっかりと眠れていないようならば有無を言わさず交換するという条件付きにはさせられた。優しすぎて幸せすぎる。


「あとね」

「うん」

「道方さんはやめよう。この際なので紗奈と呼んでちょうだい。わたしからのお願い」

「うぐ……。えと……。さ、紗奈さん……でいいかな」

「さん、はいらないんだけどそれはまぁ一ヶ月あるからそのうち取れてくれればいいかな」

「善処します……」


 買った布団などを車の後部座席(狭い!)に押し込んで一旦自宅に戻ることにした。

 うん。自宅と言ってその場所に帰れることのこの喜びよ。


「どうしたの? 口元が緩んでいるよ?」

「なんでもない。新しい生活に期待しているだけ」

「そっか。新生活か。僕にとっても……えと、紗奈さん、がいる生活が始まるんだね」

「へへへ。ちゃんと名前が呼べたね。えらいえらい」


 いい子いい子と義之くんの頭を軽く撫でる。恥ずかしそうにモジモジしているのがとても可愛い。こうやって少しずつスキンシップをとって彼の不安を取り除いてあげたい。わたしはあなたしか見ていないんだよって。

 あなたと一緒ならば渋滞の環八だってメリーゴーラウンドに思えてくるから不思議。壊れかけのカーラジオの音質が悪いスピーカーから聞こえるソプラノヴォイスも今は心地良い。

 あなたとならすべてがバラ色、とはすこし浮つきすぎだろうか?


 ひと月後『君を離さない』と言ってもらえるようにわたしも努力しよう。




※読んでいただきありがとうございます。

今回は区切らずに短編の形を取りましたが連載の1章のような感じで仕上げました。ご要望次第で連載も考えています。

ぜひともご評価お願いします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君を離さない 403μぐらむ @155

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ