いろいろめがね

葵月詞菜

第1話 いろいろめがね

 まさに小春日和という天気だった。

 街へ買い物に出た帰り道、家と家の間に挟まれた小さな公園にあるたった一つのベンチに小柄なおばあさんが座っていた。

 丁度時間帯的に陽の光が降り注ぎ、公園は光に溢れている。見ているだけでポカポカとしてくる空気だった。

 公園のあちこちには白や茶の塊が思い思いに丸まっている。――この『あべこべ兎毬町』名物のうさぎたちだ。町のいたる所にうさぎが生息していて、住んでいる人たちもみんな大切にしている。

 おばあさんの膝の上にも一匹丸まっているのが見えた。

 入り口から様子を見ていた少女の視線に気付いたのか、おばあさんがこちらに顔を向けた。ずり落ちかけた眼鏡を手で直し、それからそっと手招きした。

 誘われるままナコがベンチに近寄ると、おばあさんの膝の上にいるうさぎは気持ち良さそうにうたた寝をしていた。


「かわいいでしょう」

「はい。気持ち良さそうですね」


 ナコの頬が自然と緩む。おばあさんはそっとうさぎの毛を撫でて目を細めた。

 ベンチを見ると、おばあさんの傍らには編み棒が刺さった毛糸玉があった。

 

「編み物をしていたんだけど、今日は良い天気だから眠くなっちゃってねえ。少し休憩しようと思って目を瞑ったらうたた寝しちゃったみたいだわ。起きたら膝の上にこの子がいて」


 この陽気だ。人もうさぎも眠くなるのは同じらしい。

 

「しかもこの子ね、面白いのよ。ほら、よく見て」

「?」


 おばあさんに言われて、ナコは改めてうさぎの顔を覗き込んだ。


「あ、眼鏡かけてる」


 実際に眼鏡をかけていたわけではない。そのうさぎの目の周りの毛が薄っすら円を描くような模様になっていたのだ。

 時々変わった模様の個体を見ることはあるが、こんな眼鏡模様のうさぎは初めて見る。


「ね、面白いでしょう。そしてかわいいわ」


 おばあさんはまたずれ落ちた老眼鏡を直しながら微笑んだ。

 ナコも頷きながら、しみじみとうさぎを見つめたのだった。




 ナコが暮らしている『うさぎ荘』に帰ると、丁度二階から長い黒髪の少女が降りて来るところだった。

 彼女は腕にノートや教科書、文房具などを抱えている。


「あ、ナコ。お帰り」

「ただいま。レイは今から勉強?」

「そう。少し難しいからトキに聞こうと思って」


 この『うさぎ荘』には管理人の兄弟二人と、高校生のレイと、中学生のナコの四人が住んでいる。彼女たちの部屋は二階であるが、一階には共用の食堂や居間があった。

 ナコは一旦自分の部屋に荷物を置くと、手を洗ってから食堂へと向かった。小腹がすいていたのでおやつでもと思ったのだ。

 食堂に入ると、仕切りの襖が開け放されているせいで隣の居間の様子が目に飛び込んできた。

 テーブルの一片にレイが陣取り、早速教科書とノートを広げている。その対面には黒髪の青年が座っていた。この『うさぎ荘』の管理人の一人であるトキだ。大学生の彼はよくレイとナコの勉強を見てくれていた。


「あ、ナコ。冷蔵庫にプリンあるよ」


 トキはナコが食堂に来た理由などお見通しだったのだろう。ナコは礼を言いつつ冷蔵庫を開けた。

 邪魔になってはいけないので居間には行かず、食堂の席に座ってプリンを食べる。恐らくトキの手作りだろう。


「おいしい……」

「そう? 良かった」


 ナコの小さな呟きを彼はしっかり聞いていたらしく、少し安堵したような笑みが返って来た。心配しなくても、お菓子を含め彼が作る料理は全ておいしい。

 スプーンを口に運びながら、ナコは何ともなしに居間の方に目を遣った。

(……ん?)

 教科書とにらめっこするレイの横顔を見て僅かに首を傾げる。


「レイって眼鏡してたっけ?」


 心の内の問いは声に漏れていた。こちらを向いたレイの顔にはやはりワインレッドのフレームの眼鏡がのっていた。

 彼女が目が悪いというのは聞いたことがなかったが、もしかしていつもはコンタクトレンズをしていたのだろうか。


「これは伊達よ。度は入ってないわ。たまに勉強のやる気が出ない時、これをかけるの」

「かけたらやる気が出るの?」

「出る時もある」

「……?」


 それは効果があるのかないのか? ナコはよく分からずさらに首を傾げた。それを見たトキが苦笑する。


「レイは形から入るとこあるからな。眼鏡をかけたら何だか賢くなったような気になるんだろ」

「眼鏡かけると賢くなるの?」

「ほら、学者さんとか勉強できる人って眼鏡かけてるイメージあるだろ」

「ああ」


 確かに眼鏡をかけると理知的な雰囲気が漂って見える――気がする。

(あの眼鏡模様のうさぎさんは賢いっていうよりかわいかったけど)

 先程の公園で見たうさぎを思い出して勝手に癒された。


「あ、そういえばトキもたまにかけてるけど、あれもレイと同じ?」


 前に彼も眼鏡をかけてパソコンに向かっていたのだ。


「あれはブルーライトカットの眼鏡な」

「ぶるーらいとかっと……」


 またナコにはよく分からない単語が飛び出して来た。


「まあ簡単に言うと、目に悪い光をカットして守ってくれるんだ」

「へえ。そんなのもあるんだ」

「私も今度ブルーライトカットのやつ欲しいんだよねえ」


 レイが言いながら今かけている眼鏡のレンズを拭いた。


「あとは――」


 トキがさらに何か続けようとしたところで、廊下から足音が聞こえて来た。音の主はバンっと勢い良く居間の戸を開けた。


「今日めっちゃ良い天気だなー。ずっと日の下にいたらあっついくらい――」


 サングラスをかけた色素の薄い髪の青年がそこに仁王立ちしていた。この『うさぎ荘』のもう一人の管理人、トキの弟のセツである。

 いつも態度と口が悪い彼だが、ブラウンのサングラスのせいでさらに顔が怖く見える。

 ナコは最後の一口を思わずつるりと飲み込んでしまった。折角最後まで味わいたかったのに最悪だ。


「セツのバカ……」


 小さく呟いて彼を睨むと、セツは片手でサングラスを外して目を眇めてこちらを見た。サングラスを外してもやはり人相が悪い。


「何なんだいきなり」

「セツ、あんた怖いのよ」


 遠慮なく言い放ったのはレイである。


「ああ? 何がだよ」

「そのサングラス。ただでさえ不愛想な顔してんのに」

「お前こそ何かしこぶって眼鏡なんかかけてんだよ」

「かしこぶってなんかないですー。私は今から勉強する賢い子なんですー」

「自分で賢い言うな」


 セツは舌打ちし、それからサングラスのつるを畳みながら食堂の方へ来た。


「今日のおやつはプリンか」

「私の最後の一口返してよ」


 まだ恨みがましく言うと、セツは眉間に皺を寄せた。


「何でだよ」

「さっきのセツに驚いて飲み込んじゃったから」

「そんなん知るか。他人のせいにすんな」


 セツはそう言って冷蔵庫から自分のプリンを取り出す。だがナコも抗議を諦めたわけではない。彼の一挙一動をじっと見つめてやる。


「……」


 ナコの前の席に座ったセツが溜め息を吐いた。そして、プリンの容器をこちらに傾けた。


「分かったよ。ほれ、最後の一口分取れ」

「!」


 ナコは自分のスプーンをなめらかなプリンの表面に突き刺した。思い切り掬い上げる。


「おい、ちょっと待てお前、最後の一口絶対そんな多くないだろ――」


 彼の文句を聞き流して口に入れてしまう。口の中いっぱいで味わうその大きな一口分は最高だった。


「良かったわね、ナコ」

「セツも大人気ない」


 レイが微笑み、トキが呆れた表情をしているのが見えた。

 ぶつぶつ言いながら残りのプリンを食べるセツを放って、ナコは彼がテーブルの上に置いたサングラスを手に取った。

 つるを開いて軽く覗き込んで見ると、見える景色が薄い茶色の世界に染まる。しかし視界は思ったよりもクリアだった。歪みがなく、頭もくらくらしないので度は入っていないのだろう。


「サングラスも太陽光とかを遮って眩しさを和らげてくれるんだよ」


 ナコの様子を見たトキが教えてくれる。


「ふーん、眼鏡って色々あるんだね」

「そうだな。レイのとはまたちょっと目的が違うけど、単なるファッション眼鏡もあるし」

「眼鏡ってクールにも見えるしかわいくもなるし良いアイテムだよね!」


 途端にレイが話題に入って来るが、多分ファッション関係のこの話をしだすと長くなる。それを察知したトキが「はいはい。でもとりあえず今は勉強だ」と無理矢理軌道修正をかけた。

 レイがまた問題に取り組み始めたのを見てから、トキが飲み物を取りにこちらへやって来た。

 ふと思うことがあり、ナコは持っていたセツのサングラスをトキに向かって差し出した。


「トキ。これかけてみて?」

「え?」


 彼は不思議そうな顔をしながらも素直にかけて見せてくれた。

 その顔を見て、ナコは首を傾げた。向かいに座っているセツをちらと見る。


「セツは怖かったけど、トキは怖く見えないね?」


 兄弟だというのにこうも印象が違うとは。確かにトキはいつも柔和な表情をしているけれども。


「ナコ、お前喧嘩売ってんのか?」


 サングラスをかけていなくても怖い顔をしたセツが睨んでくる。


「こらこらセツ。自分の印象の悪さを他人のせいにするな」


 ナコとセツの間に割って入ったのは言うまでもなくトキである。サングラスを外して笑う。


「普段の印象と態度の差だろう」

「……それは悪うございました!」


 弟はふてくされたよう言ってそっぽを向いてしまった。それを見てまた兄は笑う。

 ナコは居間で勉強しているレイの横顔を見ながらポツリと呟いた。多分無意識だったと思う。


「私も眼鏡かけてみよっかなあ……」


 それでレイの言う通り勉強のやる気がアップするなら御の字だ。


「じゃあ今度一緒に見に行こうか」


 ナコの小さな呟きを拾い上げたトキが微笑み、セツが「オレが選んでやっても良いぞ?」とニヤリと笑う。


「いや……セツは来ないで良いよ」

「じゃあ私が代わりに行ってあげるわね!」


 またレイの元気な声が聞こえ、「レイはやる気より集中力アップの方が必要だな」とトキが肩をすくめて苦笑した。

 プリンの容器とスプーンを流しに置いたセツが居間を出て行こうとして、ふと思い出したように振り返った。


「そういやさっき、変わったうさぎを見だぞ」

「変わったうさぎ?」


 ナコが反応すると彼は頷いた。


「ああ。なんか目の周りの毛の色が円を描くように違う色でな。まるで眼鏡をかけてるように見えて――」

「あ、そのうさぎ私も見た! 面白い模様だよね!」


 思わず大きな声を上げてしまってから、ナコは自分の口を押えた。だがもう遅い。

 居間の方から、興味津々の視線を感じる。振り向けばレイのキラキラした目がレンズの向こうで輝いていた。

 その正面ではトキがもう諦めたように肘をついてその上に顎を載せていた。


「そのうさぎはどこで見たの!?」


 それから暫く、例の変わった眼鏡模様のうさぎの話で盛り上がったのであった。

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