かみさまのめがね
碧
第1話
ママが降誕祭にくれた絵本には、えらい男の人の絵が描いてある。
その絵本は、綺麗な分厚い表紙をしていて、中のページはつるつるの紙でできていて、触るのが楽しい。きらきらしたものがいっぱい並んでいる中に立っているその男の人は、ボロボロの白い服を着て、こけた頬をして、頭が禿げていて、頼りない両足で床を踏みしめながら、どこか遠くを見つめている。
わたしは夜、眠くなるまで、この絵本を見ているのが好きだ。ママはそばにいてくれないけど、この絵本をめくっていると、寂しくないから。
「この人が神さまなの?」
囁くように尋ねると、パパは暗がりの中で困ったように少しだけ視線を彷徨わせた。
「この人は『神さま』がこの世界に存在するということを見つけた人だよ」
「じゃあ神さまじゃないの?」
「そうだねえ」
わたしはパパとおしゃべりするのが好きだ。ママとはめったに会うことができないけど、パパはいつだって私のそばにいてくれて、なんでも教えてくれるから。時々、何を言っているかわからないこともあるけど、そんなとき、パパは、いつかわかる日が来るから、それまで何度でも教えてあげるよ、って言ってくれる。
「この人は預言者と呼ばれたこともあるし、使者と呼ばれたこともある。ただ、この人自身は自分のことを科学者だと思っていたんだよ」
「カガクシャ?」
「そう、もう滅びてしまった種族だね」
「どうしてカガクシャはいなくなってしまったの?」
「そうだねえ」
パパはまた、少し視線をあちらこちらにやった。でも本当は、パパは暗闇の中ではあまり何も見えていないんだって、前に言っていたのを覚えている。わたしや、地上にいるほかの子供たちは、どんなに明るい場所でも、どんなに暗い場所でも、眼底埋没眼鏡ですべての物が見通せるようになっているけど、パパみたいな昔の人はそうではなくて、だから本当は、こうやって目をきょろきょろとさせているのは、何かを見ているわけじゃないんだって。じゃあどうしてそんな仕草をするのって聞いたとき、パパは珍しく、何も答えてくれなかった。
「最後の科学者が、『眼鏡』を見つけてしまってからだね」
「私たちの目の奥に入ってる、『かみさまのめがね』のこと?」
「君たちの目の奥に入っているもののことだけど、僕はそれを『神の眼鏡』だとは思っていないんだよ」
「だって、学校でもそう習ったし、前のママも、その前のママも、そう言っていたよ?」
「そうだね」
パパは寂しげに笑った。
「その眼鏡を通すと、世界のあらゆるものが見えるようになってしまった。遠い遠い宇宙のこと、小さな小さな微生物のこと。未来のこと、過去のこと。そうして、見えすぎるせいで、人間は驕り高ぶって、自分自身で知ろうとすること、伝えようとすることを辞めてしまったんだ。だから今、科学と真に呼べる分野は滅亡してしまった」
「うーん、それっていけないことなの?」
パパの言うことがよくわからなくて、私はとりあえずそう聞いた。カガクシャとかいう人たちがいなくなったのは、寂しいことだけど、私たち人類は今、幸せに、安定して、平和に暮らしているから、良いんじゃないのかな。
「良い、悪い。善悪。正誤。そういう基準が、段々と狭量になり、やがて世界が閉塞していく。このままではすべてがいつかは滅んでしまう」
「……よくわからない」
今日のパパの話は、一段と難しくなってきた。こんなとき、ちょっとだけ悔しくて、悔しい分、甘えたくなる。布団の中で、横たわるパパに寄り添うふりをする。パパもわたしの頭をなでるふりをするけれど、ぬくもりも、触れられる感触も、もちろんない。
「……キョーリョーって言うのは、前の前の前のママが、私がパパをパパって呼んだら、怒ったときみたいなこと?」
「そうだねえ」
パパが見えるようになったのは、わたしが3歳ぐらいのときだ。わたしはパパのことがひと目で好きになって、それで、わたしにはママがいるから、きっとこの人はパパなんだなって思って、パパって呼ぶようになった。パパはそれを許してくれたけど、そのときのママはひどく怯えたような顔をして、私を『めがね』屋さんのところに連れていった。
それからわたしは何回も何回も手術をして、何回も何回も目の奥に埋め込まれた『めがね』を最新式のものに取り換えたけど、わたしはいつだってパパのことが見えてしまうので、ついにママは娘の方を取り換えた。次のママもしばらくしたら娘を取り換えて、その次のママも娘を取り換えた。今のママは、わたしをひとりきり部屋に残して滅多に帰ってこないので、寂しいけどその分、パパと思う存分お話ができる。
どうしてわたしにはパパが見えるのかよくわからない。他の人はどんな『めがね』をしてもパパのことが見えないんだけど、パパは気にしなくていいんだよって言う。
「ねえ、パパが知っている、『かみさまのめがね』のお話をして」
私は絵本を閉じて、パパにおねだりした。パパは困ったように笑っている。パパはこんなとき、自分が困ったように笑っているのをわたしが見えていることを知っているけど、それがわたしにどんな風に見えているかは永遠にわからない。
「……その昔、神がこの世に、怒り狂った四つ足の生き物を地に放った」
それは学校でも習う、創世の物語。破壊の衝動に支配された、邪悪で最強なバッファローの群れだ。私は黙って続きを待った。
「それは群れを為してすべてを破壊しながら突き進み、人類は滅亡の寸前まで追い込まれた。人類の最大の武器は、知恵と知識と科学技術だった。そうして最後の科学者は『眼鏡』を発明し、すべてを見通せるその義眼で、破滅を回避し、再び地球を自らの手に取り戻した……」
パパは遠いところを見ているような目をしていた。こんなとき、パパは眼鏡をしていないはずなのに、どうして過去の世界を見るような目をしているんだろう、と私は思う。
「バッファローはみんな死んでしまったの?」
私が尋ねると、パパは首を横に振った。
「いいや、バッファローは、決して消え去ってはいない」
「でも学校ではバッファローは絶滅したって習ったよ?」
「そうではないんだ」
悲し気にパパは目を伏せる。
もう深夜を回っていて、私は話し疲れて、段々と眠くなってきた。
「さあ、もう、寝なさい」
私の欠伸を見て、パパは今度は優しげに微笑んで、また私の頭を撫でた。
「でも、バッファローは、どこに……」
「大丈夫。焦らなくても、いつかわかることだから」
パパの声が遠くなっていく。私はいつものように目を閉じて、眠りに落ちていく。
「……バッファローは、きみたちの、目の奥にいるんだ。彼らの破壊はまだ続いているんだよ」
かみさまのめがね 碧 @madokanana
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