7 悪夢と、勇気

 目の前に、圧倒的な冷酷さと非情さで、魔皇帝ダルクフォースが迫ってきた。その額には二十の目玉がぎょろぎょろとひしめいている。


 氷の凶弾を撃ち込もうと、魔皇帝はシュメールに向かって右腕を突きあげた。


「死ね!」


 血なまぐさい瘴気の闇が、あふれるようにシュメールの全身を覆い尽くした。


「うわーーーッ!!」


 絶叫しながら、シュメールはベッドから飛び起きた。


「ここは、どこだ……」


 背中も顔も汗びっしょりで、ゼエゼエハアハア、呼吸がのように激しい。


 ずっと見守ってくれていたのか、ペールネールの顔がすぐそばにあった。ペールネールは膝立ちになって、シュメールの頭をやさしく抱え寄せた。


「昼の国です。大丈夫、安全です」


 そう言いながら、落ち着かせるように、シュメールのうしろ髪をなでた。


 ぶ厚いカーテンの隙間から、白い昼の光が漏れている。


「……また、ダルクフォースに殺される夢だった……」


 魔皇帝と対決した、あの時の夢。こうして悪夢にうなされて目覚めるのは、もう何度目だろう。うぅ、うぅ、と、シュメールはペールネールの胸に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくりはじめた。


 ペールネールは慣れた手で、背中をあやした。天使態の翼で、シュメールの体をやさしく覆う。それから静かな声で、夜の国の歌をくちずさんだ。『月のひかり』という、夜の民に広く親しまれている唄だった。




 あなたの上には 大きくきよらかな

 月のひかりが 輝いている


 とてもやさしい 思いやりに満ちた

 月のひかりが 輝いている


 くじけそうなときも 心の月は

 おだやかなひかりで 照らしつづける


 負けてもいいよ 泣いてもいいよ


 今は、おやすみ……


 今は、おやすみ……




 ペールネールの透きとおった子守唄を聞きながら、シュメールは幼子おさなごのように、もう一度眠ってしまった。




 何時間かして、シュメールは目覚めた。


 小さな丸机の上に、すぐに飲めるよう、コップに水が用意されていた。シュメールはそれをゆっくりと口にふくみ、ふぅと、小さなため息をついた。


(……進もう、進もうとすると、目の前にまた、あの悪夢が落ちてくる。なんでなんだ? 苦しい、つらい。だけど、進みつづけなきゃ。ノクターナルのために……)


 悪夢を断ち切るように首をふって、シュメールは起きあがった。



 階段を下りると、ペールネールがアトリウムの長椅子に腰かけてぼんやりと、降り込む雨を見つめていた。シュメールの姿に気づくと、すぐに立ちあがって迎えてくれた。


 シュメールは吹き抜けから、雲に覆われた空を見あげた。


「久しぶりだね、雨……」


「はい。曇りや雨の日は、心が落ち着きます」


「やっぱり? 僕もそう。一日中太陽が出てるから、たまに太陽が隠れてくれると、安心するね」


 シュメールはそう言って、ペールネールの隣に腰かけた。


「家のなかに雨が降ってるなんて、不思議な光景だよね」


「はい。やっぱりアトリウムっていいですね」


 吹き抜けの真下が、三メートル四方の、正方形の池になっている。今、その水面に雨粒が跳ね、波紋の輪をいくつも描いていた。雨が水を叩くかろやかな音が、木琴のアルペジオのようで心地がいい。


 ふたりで静かに雨を見つめていると、シュメールが呟いた。


「……ごめんね、泣かないって約束したのに……」


「え? 謝らないでください」


「僕、弱いね……」


「そんなことないです。シュメールさまは強いです」


 ペールネールの元気づけの言葉も届かず、シュメールは力なくうつむいた。


 少しでも勇気づけたくて、ペールネールは体いっぱいで、シュメールの体を抱きしめた。


「がんばりすぎないで……」


「ありがとう」


 シュメールはそっと、ペールネールの背中に手を置いた。




  ☪ ⋆ ⋆




 そのあと、ペールネールは自分の部屋で、ブリジットに相談した。


「シュメールさま、また、あの悪夢を見たんだ。わたしが頼りなさすぎるのかな?」


「まーた、『弱虫ぺるる』になってるぞ」


 とブリジットは笑いながら、ペールネールの頭に黒い手をやさしく置いた。


「シュメールさまは黒薔薇ので、ほんとうに怖い思いをしたんだよ。だから、心の傷口が癒えるまでは、しょうがないのさ。『悪夢を見ることによって、心を整理して、心を治してる』んだよ」


「わたし、なにかしてあげられないの?」


「あんたはあんたのままでいなよ。それでシュメールさまは安心するんだから」


「わたしのままって?」


「えー?」と、ブリジットは上を向いて考えた。「……並んでる木の実を追っかけてって罠につかまったり、川に連続で落ちたり……」


「それって、ただのドジっ子でしょ!」


「きゃはは、そうかもね」


「もう!」


 とペールネールはブリジットにむかって、叩く真似をした。


「もっとしっかりしなきゃ……」


 ペールネールはいつになく真剣な目で、空中を見つめている。


「じゃ、あんたの勇気を見せてあげるんだね」


 と、ブリジットは提案した。


「え? 勇気?」




  ☪ ⋆ ⋆




 次の日の朝、ペールネールは、いつもより早起きした。


 ここプラチナの都では、大聖堂の鐘の音が時間を教えてくれる。


 ペールネールはかまどに火を起こした。……といっても、初めて火打石と火打金を使うから、ずいぶん時間がかかった。苦手な火を、克服しようとしているのだ。


 ブリジットに何度もやり方を聞いて、ようやく、赤い炎が小さく燃えあがった。


 炎を見ると、まぶたの裏に、あの夜の記憶が甦った。燃えあがる夜の森。悶え苦しむような黒煙。古代樹が崩れ落ちる、恐ろしい音――。体がふるえ、手から力が抜けてゆく。


(――いけない! がんばらなきゃ)


 急いで首をふって、悪い映像をふり払った。


 見よう見真似で野菜を切って、料理をはじめた。わからない部分はブリジットに聞いた。


 起きてきたシュメールは、ペールネールがキッチンにいたのでびっくりした。


「シュメールさま、今日はわたしが朝ごはんをつくりました!」


「え? わ、珍しいね」


 野菜スープ、スライスして軽く焼いた田舎パンカンパーニュ、ルッコラやバジルの山盛りのサラダ、それから、このあいだのマルシェで買ってきた、ナッツとドライフルーツ。新鮮なフルーツも切り分けてある。


 シュメールは驚きながら、ダイニングの椅子に腰掛けた。ペールネールも隣に座った。ふたりはいつも向かい合わせではなく、仲よく横に並んで食事する。


「ペールネール、火、どうしたの?」


「はい……勇気を出して、がんばりました!」


「えーーー……」


 感動したシュメールは、思わずペールネールの体を抱き寄せた。


「なんか、気を使わせちゃったみたいで、ごめんね」


「いいえ……」


「君はいつも、僕に勇気をくれるね」


 そう言って軽くキスしたので、ペールネールの頬が桜色に染まった。


(やった! 大成功!)


 ペールネールは心の中で、喜びの声をあげた。


「あたたかいうちに、どうぞ」


「うん、おいしそう! いただきます!」


 スプーンで野菜スープをすくって、口に運んだ途端……


 シュメールは真っ青になった。


「あ、あま~~~~~」


 背骨がふるえるほど甘かった。野菜スープが、まるで、あったかいスイーツだ!


「えぇ? そうなんですか?」


 ペールネールは自分はスープは飲まないので、あわてて立ちあがり、鍋から小皿によそって味見した。


「? おいしいですよ……」


「え?」


 ふたりの味覚が違うのだ。


「アハハ!」


 と、オンジャがこらえきれず笑って、宝石のなかから出てきた。


「果物や花の蜜を食べる鳥は、『甘み』を『うまみ』として感じるのさ。だからペールネールは、『旨み』を増やそうとして、砂糖をたくさん入れたんじゃねぇの?」


 ペールネールは、こくこくとうなずく。


「そういう鳥は、甘み以外の味覚は、鈍感ってわけ」


 と、オンジャ。


 ペールネールは涙目になって、ブリジットのほうに視線を投げかけた。


「ブリジット~~」


 ブリジットはあわてて言い訳した。「にゃはは! 影には味覚ないんだよねー。あたい、影だし、鳥だし、四人のなかで一番、料理の味わかんないから」


 ブリジットの言うことはもっともなので、シュメールはうなずいて、甘々なスープと向き合った。


(野菜スープとは思わずに、なんか新しいスイーツだと思おう)


 そう決心すると、スープにパンをつけて、食べはじめた。


「あ、おいしいよ!」


「ほんとですか?」


「うん。あったかいジャムみたい」


 ペールネールにも、シュメールがムリしてくれていることがわかる。


「ペールネールが初めて作ってくれた料理だから、うれしいよ」


 そう言ってにっこり笑うシュメールに、ペールネールは瞳をうるませた。


(ふぇーん、また失敗しちゃったよー!)


 しおしおと下を向いたペールネールに、


「そんなに落ち込まないで。元気出たよ。がんばったね」


 シュメールはもう一度、元気づけるようにペールネールの体をハグした。


 ブリジットはそれを見て、


(シュメールさまを元気づける作戦だったのに、ペルのほうが元気づけられてるよ! ……でもまあ、シュメールさまも笑顔になったし、とりあえず作戦は成功かな……)


 微笑しながら、ふたりを温かく見守った。




✱.˚‧º‧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈‧º·˚.✱


 ペールネールのお料理作戦は、とりあえず成功……かな笑


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