18 異変のはじまり

 監視塔の一角で、見張りの小人がつぶやいた。


「月が……妙に赤いようじゃないか?」


 夜空の一番低い場所に、血を乾かしたような赤黒い月が、どんよりと浮かんでいた。満月には足りない、いびつにへこんだ、その形。……潰れ、ただれ、まるでれすぎた果実のように、あるいは、充血した目玉のように人々を見つめている。


 その不気味な月を見た者たちは、背筋が凍るような戦慄せんりつを覚えるとともに、なにかを問いかけられているように、そわそわして落ち着かない気分になった。



 次の異変は、北の空の一角から現れた。白い線のようなものが、ゆらゆらとゆらめきながら、城に近づいてくるのだ。


 それは白い煙か、あるいは、長い蛇体を持つ龍のようにも見える。しかしそれは、一部が太くなったり、細くなったりして、形が一定ではない。


(いったい、あれは何だろう――?)


 見張りの小人たちがぼんやりと考えているあいだに、白い煙は思いもよらぬ速さで近づいてきて、城全体をひと息に飲み込んだ。


 それは、


 手のひらほども大きい蛾が、ばたばたばたばた音を立てながら、耳元をかすめ飛んでゆく。胸にぶつかってくる。頭に止まる。首筋を撫でてゆく。まともに呼吸もできない。城は大混乱に陥った。


 シュメールとペールネールはバルコニーに出たが、ふたりともすぐに腕で目鼻をかばい、体をそむけた。


 千匹、万匹ではきかない。億か、けいか……数える気も起こらないほど無数の蛾が、体にまとわりつき、耳元をかすめ飛んでゆく。鳴り響く羽音の、その轟音!


 金色に、銀色に、鱗粉が吹雪のように降りそそぐ。灰のように細かな粉が、鼻から、口から、耳から、みるように入り込んできて、目をあけてもいられない。


「シュメールさま!」


「ペールネール!」


 シュメールはペールネールを護ろうと、その頭を自分の胸に強く押し込んだ。ペールネールは羽根を広げ、シュメールの体を覆い隠した。そうしてかばいあいながら、きつく体をり固めて、ふたりは嵐が過ぎ去るのを待ちわびた。


 そうして、どれほど待ったことだろう。


 気がつけば、恐ろしい白い蛾の嵐は、忽然こつぜんと過ぎ去っていた。


 一転して、怖いほどの静寂が漂った。


(夢でも見たのか……)


 しかし、おびただしいほどの蛾のむくろが床に転がっているのを見れば、夢でなかったことがわかる。シュメールは膝をつき、死骸の一匹をつまみあげた。見たことのない種類の蛾だった。  


「……おお、おお……」


 急に、くぐもった声が頭の上で聞こえたので、シュメールはハッと顔をあげた。 


 バルコニーに出てきたラーマ女王が、細く長い指をふるわせながら、虚空こくうを指している。その美しい顔は、驚きと恐れのために、ひどく歪んでいた。


 シュメールは、ふり返った。


 女王が指さした先、森の一画に、煌々こうこうきらめく、ひとつの点が見えた。


「母上、あの光は?」


「あれは、《アレスの塔》の光です」


「アレスの塔?」


「千年間、あの塔に光が灯ったことはありません」


「――? どういうことです?」


 女王は、唇をふるわせた。


「あの炎は、このアル・ポラリスへの信号です。アレスの塔は、われわれに伝えているのです。『』と!」


 シュメールは、ゾッとした。


「敵襲!? そんな馬鹿な! いったい、何者が?」


「女王陛下!」


 と、駆け込んできたのは、鳥の巫女ブランディンだった。杖をふりまわし、冷や汗をかき、ほとんど溺れもがいているような動きだった。


「鳥たちがしらせてきました! 『数万の魔物の群れが、王国の北方にある《常闇の領域》から、続々と押し寄せている』と!」


 それとは別に、伝令の小人が次々と駆け込んできた。北からの急報が、矢継ぎ早に届いた。


「敵は、オーク、オーガーを中心とした魔獣、数万です!」


「ものすごい勢いで、王都に向かって、街道を南下しております!」


「敵の首魁は、『魔皇帝ダルクフォース』と名乗っております!」


「魔物どもを止めるすべがありません!」


「援軍求む! 援軍求む!」


 ……だが、援軍の用意など、この千年の平和を謳歌していたノクターナル王国には、ありはしなかった!




✱.˚‧º‧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈‧º·˚.✱


 恐ろしい戦いが、ついに始る――!

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