第15話 マ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ッ!!


 柚花との間に、沈黙が流れる。

 その瞳から真意を読み取れずにいると、柚花の方から顔を近づけてきた。


「お、おいっ……」


「しっ」

 

 これマジ? いいの? 

 何か事情か、狙いがあるはずだ。だとしたら俺はどう対応すればいい? 流れに身を任せていいのか、抵抗すべきか、柚花は一体俺に何を求めているんだろうか。

 心拍数が爆上がりしていき、思考の車輪が悲鳴を上げている。

 ふわりと甘い香りがして、気付けば柚花の顔が鼻の触れる距離まで迫っていた。

 よし、行こう。もう知るか。キスぐらいなんだと言うのか。据え膳食わぬは男の恥。

 俺は腹を決め、スカしたキス顔を作り自分から唇を近づけた。

 その時。


「──柚"花"た"ん"!!」

 

 濁った叫び声に振り向くと、そこにいたのは醜い豚。

 肩で息をしながら、油ぎった肌をテカらせ、肉団子みたいな汗ばんだ体にアニメキャラの描かれたTシャツが張り付いている。

 曇らせた眼鏡の奥に光る切長で陰湿な細目が、俺の事を殺意MAXで睨みつけていた。

 なんだこいつ……。

 あと数ミリまで迫っていた柚花の唇は、既に目的を達する事なく離れてしまった。

 柚花は険しい顔をしながら、隠れるように俺の背中に体を寄せた。

 豚が何か言っている。


「なんだその男!? ボボっ、ボキを裏切るなんて許さないぞ!?」


 肩を怒らせながらキレ散らかすその姿は、もはや芸術。

 "醜悪"の二文字をこれ程まで的確に体現した人類も稀有だろう。

 年は30代くらいだろうか。

 初対面だが、既に内面が人間として終わっているであろう事がひしひしと伝わってくる。


「あ、なるほど」


 熟成されたワインのような味わい深いキモオタを前に、俺は一つの仮説を紡ぎ出した。

 これあれだ、多分ストーカー的な奴だ。

 柚花の怯え方を見るに、恐らく前々から、このビンテージキモオタになんかしらのストーカー被害を受けていたのだろう。

 そこで柚花は考えた。

 適当に都合がいい男とデートするフリして、自分に幻滅して貰おうと。そこで白羽の矢が立ったのが俺だったと言うわけだ。

 問題はただ引き下がるのでは無く、敵意剥き出しで現れてしまった事。


「柚花たん! そんな奴は君に相応しくない!君は、ボ、ボキが幸せにしてあげるから! ね!」


「お前じゃ無理だろ」


「う"る"さ"い"ク"ソ"ニ"ート"っ!!」


「っ!!?!!??」


 ぐ……鋭いじゃねぇか……。

 適当な暴言のつもりだろうが、偶然にもクリティカルヒットである。

 柚花が横から、ジト目で俺の顔を覗きこんできた。


「む? まさかホントにニートなのかい? やっぱり! 柚花たん! 分かったらそんなクズから離れるんだ!」

 

 俺の服の裾を掴む柚花の手に、ぐっと力が入るのを感じた。


「も、もう付き纏わないでっ!」


 突き放すような一言に、豚はショックを受けたように見えたが、そこはストーカー。


「あぁ、そいつに洗脳されちゃったんだね。可哀想な柚花たん……ボキが今助けてあげるからね」


 そう言いながら不気味に口角をあげると、背負っていたリュックからナイフを取り出し、こちらに向けた。

 鉛色の刀身が夕焼けを反射しながら鈍く輝いている。

 手入れの行き届いた、なかなかいいナイフだ。その意識を少しでも自己研鑽に向けたらいいのにと思った。


「ごめん、凪ぽん……こんなことになるなんて……」


「下がってろ」


 俺の指示に従い、柚花は数歩後ずさる。

 

「柚花たんは僕のものだ! お前なんかに渡すもんか!」


「柚花がお前のモンなんかになる訳ねーだろ。コイツは俺のオンナだ。指一本でも触れてみろ? 挽肉からのそぼろ丼してやるよ」


 出来るだけヘイトを買うように挑発する。

 逃げた所で何も解決しない。柚花をこのストーカー野郎から解放する為にも、ここでケリをつけてやる。


「柚花たんはボキのオンナだ!」


「現実見ろよ。柚花と話した事もないだろお前」


「黙れ! 柚花たんはボキのコメントに反応してくれるんだ!」


「それは話したって言わねーよ。ま、俺は話した事あるどころか、もうやる事やってるけどな」


「ななにゃわ◇☆%ん◯△*て▽!!?!?」


 顔を真っ赤にして怒るキモオタ。

 何故か眼鏡にヒビが入った。


「テキトーな事いってんじゃ──」


「──本当だよ」


「え?」

「え?」


 やべ、俺まで反応しちゃった。

 柚花は俺の隣までくると、いきなり頬にキスをしてきた。


「────っ!」


 思わぬサプライズに呆気に取られてしまう。

 キモオタはあんぐりと口を開けて固まっていた。


「そういう事だから、もうウチの事は忘れてくれない?」


 キモオタはプルプルと震え出し、その頬に一筋の涙がつたった。

 

「……ふざ、けるな」


 憎悪に満ちた声音が、空気を震わした。


「お前にいくら注ぎ込んだと思ってんだ……返せよ……ボキの金……返せ……っ」


 また愚かな事をのたまうキモオタに、心底呆れた。

 柚花はDチューバーであり、アイドルでもなんでも無いと言うのに。

 この男は勝手に夢を見て、勝手に失望し、勝手に逆恨みしているのだ。


 キモオタがナイフを握り込むのが分かった。

 俺は柚花を下がらせ、臨戦体制をとる。

 そしてついに、怒りに我を失い獣と化したキモオタが、こちらに向かって咆哮を上げながら駆け出した。


「マ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ッ!!」


 キモオタvsクソニート(俺)の、絶対に負けられない戦いが始まった。

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