第32話 壊れたぬんの心を癒してくれたN谷高校のメンバー。

4月になった。最初出勤日、学校近くのバス停を降りて、空を見た。

ここはどこだろう。

ぬんは、出先機関に出たことがなかった。

いつも県庁か横浜駅の近くにいた。

同期や知り合いが多い中で賑やかに生きていた。

上司からも同僚からのいじめに会って、辛いことが多かった。

でも、周りにいた多くの知り合いたちに支えられてきた。

S業流通課でもいろいろあった。

小港グループリーダーからは、中小企業診断士でなければ、人間じゃないような扱いも受けた。

千田課長からは、「障害があるのでは、もう昇格はないから。」ともはっきり言われた。


でも、時々出掛ける、商店街ツアーではいろいろな人と出会えた。

商店の人とも会えるし、また参加してくれる県民の人とも出会えた。

だから、もう少しS業流通課を続けたかったのに。

人事課は、そういう県民との大切なつながりを考えていない。


N谷高校は、坂の上に会った。

バス停からは7,8分程度上り坂だった。

そして、最後に極めつけの30段くらいの階段があった。

多田課長が

「県庁より近いのだけが、唯一良かったことですね。」

と言ったが、最寄りのK浜急行の駅からは渋滞すると、バスで40分ぐらいかかった。

家からだと1時間30分はかかる。

6時台に家を出なければ、間に合わない。

全然近くないじゃないの、県庁の時は、7時20分くらいに家を出れば間に合ったのに。

何でもかんでも都合のよい嘘だらけ。

S業流通課の方がずっと近かった。


異動した最初の日、異動者の挨拶があった。

学校なので先生が主である。

職員室で挨拶するとき「数学を教えています、佐藤です。」というような挨拶をする。

先生たちの紹介が終わった。

「えーと、これで終わりですかね。」

と教頭先生が言った。

「あれ~?」というような沈黙があり、すべての先生がぬんを見ていた。

ぬんは困った。

先生でもないから、今、言うべきか、言わないべきか。

すると、校長先生が慌てたように

「事務の霧野さんがいますよ。教頭先生、忘れないでくださいっ!」

「あ、すみません。霧野さん、一歩前に出てください。霧野さんには、これから職員室の先生方がみんなでお世話になる方です。覚えていてくださいね。霧野さんがいないと、お金は一銭も出してもらえませんよ。ということは、学校は授業一つ進まなくなってしまいますからね。」

どっと笑いが起きた。

(「人事課の障害者差別で、学校へ飛ばされたんです。」とは、みんな知らないだろう。)

でも、最初の印象が大切だ。

ここは明るく、

「霧野です。学校初心者ですので、いろいろ教えてください。よろしくお願いします。」

「では、先生たちは、机に名前のシール貼ってありますから、周りの先生たちに聞きながら、席についてくださーい。」

「霧野さんは、ちょっとここにいてね。」

職員室の廊下側で、一人ぽつんと立っていた。

学校って人数が多い割には静かだな。

今は、春休みだから生徒もいないようだし。

いつも本庁の人数が多く、狭い中で過ごしてきたぬんにとっては、思いがけず静かだった。

「あ、霧野さん、遅れてごめんね。」事務長らしき人が迎えに来た。

「今から、校長から辞令もらうから、校長室に行こうね。」

「あ、そうそう、私。私はこのN谷高校の事務長で、高坂って言います。」


(あ、この人だ、S業流通課の多田課長が最後の最後まで、ぬんのことを頼んでいた人。)

「霧野をどうぞよろしくお願いします。学校はもちろんのこと、出先に出たことがないのです。霧野の担当は何ですか?え、支出?財産担当?学校の管理で一番重要なことではないですか???でも、霧野はしっかりした人です。まちがえなくできますが、何しろ経験がないものですから。心配していまして。。。」)

多田課長は、とても心配をしていた。

でも、そのような多田課長の心配をよそに、高坂事務長は、

「大丈夫ですよ。私がカバーしますから。ご心配はいりませんよ。」

そんな返事をしていたらしい。

校長先生から辞令をもらった。「N谷高校の主査を命じる。」だった。

やはり障害者は「副主幹」には、ならなかったか・・・

多田課長?J事課?の嘘つき。


N谷高校の事務室は、事務長を入れて5名だった。

高坂事務長とぬんが常勤職員、後は臨任さんの平田さん、非常勤さんの上野さんと守川さん。

大きくて静かな事務室だった。一人分の席は今までと違って、二人分ぐらいあった。

年もみんな同じくらい、上野さんだけが30代、あとは40~50代で、よく昭和のころの話をしていた。

「霧野さんも昭和世代だよね。」

同い年の平田さんが言った。

来たばかりの右も左もわかないのぬんに、何十年も昔からの知り合いかのように、みんな話しかけてきてくれた。

コーヒーの会があって、月500円払うと毎日一日中飲み放題だった。

ぬんはコーヒーが好きだったので、すぐに仲間に入れてもらった。

そして、ぬんが勝手に「N谷カフェ」という名前を付けた。


学校の4月は超忙しかった。

電話に出てくれるのも、来校者の対応も、生徒との関係は、ぬん以外の3人がやってくれている。

ぬんは、事務長の次に偉い・・・扱いをしてくれる。

それより何より、ぬんは前任者の引き継いでいった年度末と年度初めの仕事に追われた。

まったくわからない(涙)。

パソコンの会計事務システムなんて使ったことがない。

高坂事務長に「あのー、決算ってこの前任者の差引簿と起案を合わせていくのですか?」と聞いた。

「あ、霧野ちゃん、私さあ、何もわからんのよ。霧野さんの前任者が一人でやっていて。決裁してくれっていう時だけ、はんこ、押していただけ。」

「えー――――っ?????」

前の課の多田課長に

「大丈夫です。心配いりませんよ。」

と言った高坂事務長の言葉は何だったのだろうか。

S納局S導課に毎日、そして一日中、電話していた。

S導課の中でも毎日度々電話してくるぬんは、有名になったらしく、ぬんが電話すると、ぬん担当の女性と男性の人一人ずつ代わりばんこに電話に出てきてくれた。

わからない言葉と格闘しながら、同じくわからない先生たちからいろいろ聞かれることも対応して、前年度決算をして、始まったばかりの年度で先生たちが早急に欲しいというものを買っていいものなのか、買ってはいけないものなのか事務長に相談したりして、1分1秒、頭が休まる間がなかった。

1週間でこの日は郵便局等に行くと決めた曜日に、いつも行ってくれる守川さんが「ぬんちゃんも(とてもフレンドリーな職場だったのでぬんのことを守川さんは「ぬんちゃんと言ってくれていた。」)、駅の近くの郵便局とか行って場所、覚えてきたら。毎日夜遅くまで、会計システムとにらめっこじゃ疲れちゃうから。」と言ってくれた。

ユニークで、ジョークが大好きな高坂事務長も

「霧野ちゃん、行っておいでよ。」

と言ってくれた。

荷物を持って、学校を出て、階段を下り、なだらかな坂道をバス停まで歩いた。

バスに乗って10分。駅前に着いた。前の所属の時に何回か来たことがある駅だった。

大きなⅠトーヨーカドーが中心的な存在で、比較的大きなベッドタウンの駅だった。

郵便局などで用事を済ませ、ずらっと並ぶ年配の買い物客と一緒並び20分おきに学校の近くのバス停を通るバスに乗った。

行きに乗ったバス停の反対側で降りて、行きとは違うN谷川沿いの道を通った。

濃いピンクのたくさんの八重桜が満開で、真っ青な空に輝いている。

「うわー、きれい。」

スマホで何枚か写真を撮った。

しばらく立ち止まって見ていた。

一筋の涙が頬を流れた。

泣かない、絶対泣かない。

泣いちゃ、ダメだ、ぬん。

いくら悔しくても泣いちゃダメだ。

でも、あふれてくる涙は止められなかった。

N谷高校と決まって、ずっと何時間も何日も多田さんと話して、多田さんがぐずぐずと泣き出した。

そしていつしか二人でぐすんぐすんと一緒に泣いていた。

それからは、多田さんはぬんのために時々泣いてくれたが、ぬんは泣かないと決めていた。

元はと言えば、体の傷だ。

4か所目の所属の菊田グループリーダーのと二瓶副課長の強烈ないじめのストレスによって、顎関節が劣化し、最後に口も開かなくなった。

病院にいかなければ食べ物も食べられないほど壊された体。

残った手術の傷跡。

それでも、いじめは収まらなかった。

だんだん壊れて行った体。

そのせいで、通院を余儀なくされ、障害者となり、そして、今度は障害者だから昇格することも許されなくなってしまったんだ。

人事課はひどい。

いつも、パワーハラスメントハラとセクシャルハラスメントをしている男性の課長代理やグループリーダーの味方じゃないか。

こうやって、邪魔なもの(障害者)を排除していく。

そして、排除されたぬんは、N谷川のふちで、八重桜に慰められている。

ふと見ると、途中の長い階段の先には赤い鳥居の神社があった。

ぬんはここで何を祈ればいいのですか?

ここまで、神奈川県庁に追い詰められて。

仕事は好き、でも、ハラスメントだらけの人間関係があるK奈川県庁の組織は嫌い。

神様、ぬんは、どう祈ったらいいのでしょうか?


八重桜の優しい香りを感じながら、学校へのカーブの上り坂を上った。

そして、極めつけの階段。

正門を入り、学校に着いた。

守川さんが駆け寄ってきて、

「ぬんちゃん、場所わかった?バスが来ない暑い夏や寒い冬ですけど、私はIトーヨーカドーのなかでよけているの。ぬんちゃんもそうしたら。」

「お帰り、場所わかった?」と高坂事務長が言った。

本当に、N谷の事務室は、いつもぬくもりでぽかぽかだ。

同じ年代だから昭和の話に花も咲く。

昼になると、平田さんが昭和の歌謡曲を時々歌ってくれた。

高坂事務長もちょっとなかなかユニークだ。

ちょっとしたジョークを言っては、みんなの肩透かしに合っていた。

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