第3話  ある日の事件 ―職場での最初のセクハラー

そのような日々が続いていたが、ある日、衝撃的なことが起こった。

O田原にある職業技術校の校長先生から、「霧野ちゃん、学校にタケノコが生えているから、学校の授業視察がてら、取りにおいで」と言われた。

「重いので家から車(この頃は、自家用車を大きな荷物を運ぶことが多かったため公用車の申請を出していた。)で来たほうがいいよ。」とのことだった。

新採なので、そういわれれば、そのとおりしてしまう。

K食コースの授業視察も終わり、校長先生が庭のタケノコを掘ってくれた。

泥だらけの15本ぐらいのタケノコを車に積み込んだ。

ふと見ると、車の脇に隣の班の渡田俊司さんが立っていた。渡田さんは建築の技術屋さんで、普段からとてもやさしいスポーツマンタイプの人だった。

「あれ、渡田さん、今日は出張ですか?」

「うん、そう。霧野ちゃん、車?」

「あ、そうです。タケノコあげるから、車で来たらって、校長先生に言われたのです。」

「あ、じゃあさ、O田原駅まで送ってくれる?」

「あ、でも私、O田原厚木道路に乗りたいので。あ、でもいいです。O田原駅まで送ります。」

「あ、そう。ありがと。」

「いいえ。」

O田原駅まではほんの10分程度だったが、仕事の話などをしながら和やかに終わった。

O田原駅に着いたので「では、失礼します。」というと、渡田さんは車から降りようとしない。

「O田原駅に着きましたけど。もう暗くなるので、運転心配だから、私早く帰りたいのですが。」

「ねえ、ついでだから横浜まで乗せて行って。」

「え?」(何、この人?)

「え、霧野さんち、Y浜だよね。」

「はい。」

「車の運転心配だったら、俺変わるよ。」

「え、いいです。それにY浜だと方向違うし。」

「え、でも霧野ちゃんち、Y浜市だろう。方向、一緒だから、適当な駅で下ろしてもらうから。」

(そのころは、課の職員の住所録を課員に配布していたので、渡田さんもぬんの住所を知っていた。)

運転席と助手席はほぼ無理やり変わった感じだった。ぬんも自分の車でなかったら、O田原駅で降りて帰っていたかもしれない。

乗り換えたとたん、渡田さんは、

「ねえ、湖でも景色を見に行かない。」

「何で?ですか?」

「たまにはいい景色見に行こうよ。いいじゃん。」

「私は、湖は嫌いですから行きたくありません。」

「俺は、いい景色、見に行きたいよ。」

ぬんは、渡田さんのあまりの強引さに少し怖くなっていた。

でも、半分「この人はいい人なんだ。いい人なんだ。」と思い、仕事の話などを続けていた。

1時間ちょっと走って、渡田さんの目的の湖に着いたらしかった。

既に日は暮れて、辺りは真っ暗だった。対岸の光がきれいに輝いていた。

「ねえ、霧野ちゃん、あっちきれいだよ。」

ぬんは渡田さんに目を合わさないようにしていたので、左の方側を指さして、そう言われたとき、

(あ、良かった。渡田さんがいる右側を見ろって言われなくて。)

と思った。

しばらく左側の光の集団を見ていて、顔を右に戻した瞬間、恐怖が襲った。

私の顔の2,3㎝前に渡田さんの顔があった。

ぬんはとっさに両手で自分の顔を覆った。

渡田さんの唇がぬんの右手の甲にくっついた。

「なんで?」渡田さんは言った。

ぬんは両手で顔を覆ったまま「何するんですか?」と言った。

「霧野ちゃんかわいいからさ、前から狙っていたんだよ。いいじゃないか。」

「特にこういう風景見ていると、雰囲気いいからさ。キスぐらいさせてもらってもいいかなと思ってさ。」

「やめてください。こんなこと。職場で言いますよ。」

「言ってもいいよ。霧野ちゃんから誘ってきたっていうからさあ。」

「それ、何ですか?」

渡田さんの左手がぬんの右腕をぎゅっと握って、ぬんの顔を覆っている右手をよけようとした。

男の人の力は強い。

ぬんは必死に顔を覆っている手を動かさないようにした。

指の間からチラッと見ると、渡田さんの腕はものすごい力で、私の腕を動かそうとしていたが目つぶって唇を近づけようとしていた。

「あ、こっち見ていない。」

ぬんは左手のぐうパンチで思いっきり渡田さんの顔を殴った。

・・ごんっ!!・・

渡田さんの鼻の骨の出っ張りを直撃した。

ぬんの手にも、相当な衝撃が走った。

「いってぇ~。何するんだよ。」

渡田さんは、半分怒って言った。

ぬんの左手の中指には、大きな銀の指輪をはめていた。

それが渡田さんの鼻の骨を直撃したのだから、さぞ痛かっただろう。

「私、帰ります。」

「じゃあ、せっかくここまで来たんだから、どこか、雰囲気の良いレストランで食事しない?」

あれだけ痛い思いをしたのに、反省もなく、よく言ってくるなあ。

ぬんは、呆れていた。

「するわけないじゃないですか。帰ります。一緒にいたくないから、すぐに運転席から降りてください。降りたら私もう一人で帰ります。」

「ここじゃ、駅もバス停もないし。どこかまで乗せて行ってよ。」

「ダメです。」

「運転席から降りてください。私、中から乗り換えますから。早くっ!」

渡田さんはしぶしぶ降りた。

外から乗り換えていたら、車を盗まれて、こんなところに置いていかれても困るので、ぬんは中から乗り換えた。

ぬんは運転席に乗り移ると、カギをロックした。

渡田さんは、窓をバンバンたたき、「乗せてくれよ。」

「嫌です。襲おうとするなんて最低です。」

「お願い。お願い。どこかまで送ってよ。ここじゃ、バスもないよ。お願いだよ。一番近くのバス停でいいから。」

「もう変なことはしないですか?絶対ですか?信じていいんですか?」

「約束するよ。もう指一本触れないから。お願いだよ」

「約束してくれるなら、一番近い駅かバス停まですよ。」

「わかったよ。」

この場所は、本当に何の交通手段もない場所だったので、ぬんは考えた。

仕事で同じ所属の人でなければ、捨てて帰ってしまっていただろう。

しかし、同じ職場で、明日からまた一緒に仕事をしなければならない関係の人なので、ぬんは仕方なく渡田さんを一番近くの駅まで送った。

降りた姿を見ると、哀れなことに鼻の骨のところがぷくっと膨らみ、くっきり青あざがついていた。

ぬんは、後ろを振り向くこともなく、一心に家に向かって車を飛ばした。

「怖かった。」

家までの帰り道は、全く覚えていない。

家に着くと、母が「ぬんちゃん、ずいぶん遅かったのね。お母さん、心配していたのよ。」と言った。

ぬんは、母に抱き着いて、わんわんと泣いた。

キスを迫る男性の顔は、ドラマで見るようなダイレクトな場面だった。

母は何も聞かなかったが、何かがあったことは悟ったらしかった。


次の朝、職場に行くことがためらわれた。

でも、ぬんは何も悪いことしていないので、負けてはいけない。と思い、心を震わせて出勤した。

所属で渡田さんに出会ったが、見るのも嫌だった。

世で言うセクシャルハラスメントそのものだった。


何にもなかったかのように、職場でのいつもの朝が始まった。

渡田さんがニタニタしながら寄ってきたので、一歩引いてついつい身構えたが、「昨日はお疲れー。」という普通の挨拶だけだった。

上司に報告はしなかった。

どうせぬんに隙があったとか、ぬんが考えなしに男性と湖に行かなければ良かったのではないか、と言われるに違いない。

こういう時、なぜか、女性の言い分は軽く見られてしまうからだ。

でも、渡田さんに少し気を許したぬんにも言い分がある。

渡田さんは結婚していて、その頃、2歳くらいと生後数か月の2人の子供がいたからだ。

ぬんは、知らず知らず、普通は、子供がいるそういう家庭的な人が、女性を襲うはずがない、と思ってしまっていた。

県庁も行政機関とはいえ、一社会である。一概にみんなが真面目ではないのかもしれない。

それは、これから書いていく文章で、県庁という組織が、通常の社会と同じくらい、いやそれ以上に差別意識が強い社会であることを解き明かしていくことなる一面を見せてくれることになるとは。。。


ぬんのK共訓練班も普通の朝が始まった。

植田さんはいつものごとく、ぬんがやっと入れきたばかりの日本茶を捨てに行き、「朝は、コーヒーだよね。」と言いながら、インスタントコーヒーの香りを漂わせ、ズズッと歩き飲みをしながら席に帰ってくる。

「お茶いらないなら、いらないって言ってくれないかな。」と思ってしまう。

次の年、ぬんの前に異動してきた主任主事の村中淳郎さんは普段、優しくてすごくいい人だった。

上司に叱られたりすると腹が立つのか、紙くずを丸めたものをぬんに向かって投げてきた。その紙くずがお茶碗に入り、ぬんのお茶は飲めなくなった。

ぬんのお茶は、ぬんの隣に座っているお茶の先生でもある副主幹の平井幸恵さんが丁寧に入れてくれたお茶だった。

ぬんは腹が立ったので、仕返しに消しゴムなどを投げつけた。

そんなことをしているうちに最後に二人で立ち上がって、その辺にあるものを真剣に投げ合うという状況になって、

「いい大人が仕事中に一体何しているんだっ!」と植田さんにしかられた。

けんかのお詫びに、ぬんは村中さんは、ユーフォーキャッチャーで取ったセーラームーンの小さなお人形をプレゼントした。

こちらから見ていたら、村中さんは机の上にそれらを並べ、ニタニタしていた。


渡田さんの事件がなければ、新採、最初の職場は何の事件もなく無事お勤めを果たしたといえよう。

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