第2話 クッキーとおじいちゃん

定年退職を目前に控えた老骨の私からすると、もも先生はまるで娘のような存在であり、未成熟な『少女』だ。


不器用だが努力家で、常に気を張っている。

自分から周りに頼ることはしない。そもそもその発想がない。きっとそうやって生きてくるしかなかったのだろう。

ーーそれはまるで、若い頃の自分をうつす鏡のような存在。

だから余計に、勝手に、親しみを感じてしまう。


学校の先生の社会は歪だ。

未成熟な子供が大学を出て、いきなり人を導く『指導者』となる。

担任を任されれば、それはつまり自分の世界を与えられることだ。

指導者である自分の力量次第で、この数十人の未来ある子供達の人生を輝くものへするか、取り返しのつかないものへするかーー

全ての責任がその指導者の肩にのしかかってくる。

しかし日々の忙しさが、膨大な『やるべき仕事』がその『本質』から先生達の目を逸らしてしまう。

まあ、それが救いでもあるのかもしれない。

生徒数十人とひとりひとり向き合うことは、たったー人の担任の先生には不可能だ。

たったー年間では、現状の『先生の業務量』では不可能だ。

まあ例え生徒に割ける時間が増えたとして、『先生の業務』量が減ったとしても、所詮人間なんて、自分のことさえわかっていない。その程度のちっぽけな憐れむべき存在でしかない。

虚しい憐れむべき職業だと思う。



『山岸先生』が赴任してきてから、もも先生は少しづつ変化していった。

まず表情が少し豊かになった。そして、山岸先生を通して、他の先生と会話をする機会が増えた。山岸先生は好感の持てる『良い子』だ。


仕事一筋で走ってきて、ふと気がつくと家族も何も得られなかった人生の私にとっては、そんなもも先生の、一人の危うい少女の変化が、何よりも嬉しく、生き甲斐だったりもする。


つまりそんな私が最も気をつけねばならないことは、少しでももも先生が働きやすい環境となるように見守りつつ、他の先生達の防波堤になりつつ、しかしもも先生にはストーカーと思われないように、適度な距離感を保つことだ。私は有能だから簡単なことだ。むしろこの『使命』の為に私は様々なスキルを今までに培(つちか)って来たと言っても過言では無い。私の残り少ない先生としての時間はただ彼女の為に捧げる。

うん、たった今、自分の『使命』に気づいた。


だがぶっちゃけ、かわいくてかわいくてしかたがないから、三日に一度のペースでお菓子の献上だけはやめられない。

ほんとは毎日与えてあげたいが、ここはぐっと我慢の子だ……っ!!



「いづる先生、今日のクッキー格別ですね…」

うららかな午後の昼下がり、理科準備室で私が入れた紅茶と私が用意したクッキーを夢中で食べるもも先生は、なによりも尊い。


ちなみに今回の献上品は、並ばないと買えない店のクッキーだ。寒空の下若い女の子達ばかりが並ぶ列はだいぶ気恥ずかしく居心地が悪かったが、今、たった今、その苦行が至高の喜びへと昇華したーー


「おかわりもありますよ。放課後用の他にお土産用にももう一缶買ってきましたから、そちらはおうちで召し上がりなさい」


途端にもも先生の周りの空気に天上の花が開花する。そんな幻覚がみえるほど、今私の脳内はお花畑という表現が相応しい。


「最近はどうですか?何か戸惑っているようにみうけますが…山岸先生と何かありましたか」


途端にリスのように頬張っていた口の動きが止まる。何度でも言おう、もも先生は全てが尊い。


「…………。やっぱりいづる先生にはなんでもわかってしまうんですね…ほんと、尊敬します…私ももっと他人の機微に敏感にならないと、真の先生に近づけないですもんね…」


だいぶ時間はかかったが、口の中のクッキーを紅茶で流し込んでから、口に手を当てて話す。

親の教育がよかったのか、それとも独学か…多分、この子の性格からすると後者だろう。


「実はーー」

上目遣いで、困ったように口を開く。もも先生は尊い。推せる。


「ふむ…どうしても接し方が掴めない生徒がいる、ですか…」


この場合、実際には『生徒』ではなく、確実に相手は山岸先生のことだろう。私くらいのファンになればもも先生の悩みは全てわかる。私の洞察と校内での情報収集能力をなめるな。清潔感に気をつかったおじいちゃんは老若男女からモテる。これはテストに出したいくらいのこの世の真理だ。


「人は自分をうつす鏡、という考え方がありましてね。問題は全て自分にあるんです。『相手に嫌われているかもしれないから、接するのが怖い』、と考えるのは自身の思い込みで、勘違いの場合が多いんですよ。もも先生は誰より努力家で、生徒からも保護者からもクレームはありません。もっとご自身に自信を持ちなさい。貴女は、ご自身が思っているよりも、周りに好かれているんですよ。貴女が今まで積み重ねてきた努力が、今、貴女を支える柱となっているんです」


どこか神秘的な瞳でまっすぐ私を見つめる彼女は、年齢よりも幼い顔立ちで、繊細な少女を想わせる。

長い黒髪が風で揺れて、つい目で追ってしまう。世間体を気にした控えめな色の口紅が彼女らしく、よりいっそう彼女の魅力を引き立てる。もし私があと20年若かったら、私は彼女に自分のエゴを押し付けていただろう。私が20年若くなくて、今私がおじいちゃんだからこそ、もも先生はこうしてこの準備室で私と時間を過ごしてくれる。おじいちゃんでよかったと、心の底から、この『奇跡』の時間を神様に感謝する。

そして、この少女にとっての最倖の『奇跡』を

私はいつも神様に祈っているーー

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