お疲れ様です。
人間の身体は普段は意識されない、痛みや不調などの違和感があって初めて意識される、みたいなことを哲学者の鷲田清一氏がしきりに言っていたと思いますが、眼鏡は身体化されたものでありながら、日常的に着脱するので、ありがたみを意識しやすいのかもしれません。
鷲田清一氏のファッションの話はあまり覚えていませんが、今回の「眼鏡が本体」の話を拡張させるなら、特定の服装に熱心な人にとっては、生活実感として「服が本体」みたいなこともありそうです。この場合、人間の固有性がファッションの社会的なメッセージ性の中に埋没しているという見方もできると思いますが、眼鏡はあまりそういうことがない点で、実はファッションアイテムの中では最も自由なものの1つと言えるのかもしれませんね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
興味深い意見ですね。眼鏡は目の機能を代替しながら、着脱という方法を以て「距離を取る」ことが出来る。自分自身の肉体は距離が近過ぎるがゆえにその実態を知ることが難しいが、眼鏡にはそれが出来るということですね。
「服が本体」という言葉だけでピンと浮かんできたのは、衣装モデルでした。モデルの方々は、服を通じて自身のプロポーションを披露すると同時に、服(デザイナー)の主張も伝えている。二つの本体が共存(あるいは反発)していると言いますか。
眼鏡は肉体よりも遠く、衣服よりも近い位置に存在している。だからこそ「自分/眼鏡が本体」という重ね合わせのような状態が生まれているのかもしれません。
メガネをかけたまま洗顔したことあります。今までで三度ばかり。
元々強度の近視の乱視なのに、乱視矯正のハードコンタクトが合わない質です。さらに最近は加齢で遠視が入ってきて、ますますメガネが手離せません。
まあ昔からお風呂と睡眠時以外にはメガネ着用必須ですが…
作者からの返信
コメントありがとうございます。
日常的なメガネユーザーだと、装着している感覚すらも含め、自分の顔の一部になっちゃうんですよね。
裸眼でモノを見るのは(気まぐれでなければ)今後もほとんどないんじゃないかと思っていたり。