日常からはずれた日

次の日、ぱちりと目を覚ましたわたしは、じぶんの部屋のベッドでねむっていることに気がついた。

身体を起こしてぐぐぐっと伸びてみる。ベッドから降りて、カーテンを開ける。

いつもだったら母が「もう起きなさい」って部屋にやってきて開けてくれるのに、きょうはまだわたしの部屋に日差しは届いていなかった。じぶんで開けるカーテンから差し込む陽の光は、いつもよりまぶしく感じた。


部屋を出てダイニングに向かう。だんだんと朝食のかおりが近づいてくる。


──きょうはパンとベーコンかも。


しっかりとねむったわたしは昨日のできごとをすっかり忘れ、新しいいちにちにすこしだけわくわくしていた。


「おはよう」


ダイニングへ続く扉を開けてのぞきこむと、兄と姉が黙ってそれぞれご飯を食べていた。ふたりはわたしに気がつくとにっこりと笑う。


「おはよう、調子はよくなった?」

「突然倒れるから心配したんだよ」


それぞれの慈しみに満ちた視線はわたしのことをしあわせにさせる。


「うん、げんき」


わたしもふたりにとびっきりの笑顔を向けてダイニングの椅子に座る。キッチンに立っていた母がわたしに気づいて振り返った。


「あら、まだ寝ていてよかったのに」

「きょう、がっこうじゃん」

「そうなんだけど、あなたはきょうは学校はおやすみ。おかあさんといっしょにお出かけしましょう」

「えっ、なんで」


わたしはびっくりして母を見つめる。そんなわたしを見返し、曖昧に口角を上げて視線を手元に戻した。


「あとでゆっくりお話しましょう。さあ、冷めないうちにご飯を食べなさい」


母はそういってわたしにサラダと焼きたてのベーコン、目玉焼きを持ってきてくれた。


「おねえちゃん、パンを焼いてあげて」

「はあい」


のんびりと返事をしながら姉はわたしのためのパンを焼きにトースターへ向かう。


「じぶんでやけるのに」


むむっとするわたしを見て、兄が笑う。


「いいじゃん。あいつ、おれには焼いてくれなかったぜ」

「おにいちゃんは中学生になってまでわたしに甘えっぱなしなのはよくない!これもです!」

「へへ、どこでそんなの覚えてくるんだよ」


兄と姉がやいのやいのしながら騒がしい食卓は、我が家のいつもどおりの光景だった。

しかし、父の姿が見当たらない。


「おとうさんは?」

「ちょっと早めに会社に行ってるの。あとで会えるよ」


わたしが座っている椅子の隣に立ったままだった母が、わたしのあたまをやさしく撫でながら答えた。


朝食を終え、わたしはパジャマからおでかけの装いに着替え、出かける準備をした。兄と姉もそれぞれ準備をしてばたばたと「いってきまーす!」と玄関から飛び出していく。

学校に行かなくていいと言われたわたしは、リビングのソファに座り、母が手渡してくれたホットミルクを飲みながらその様子を眺めていた。

ふたりを見送った母は「洗濯物を干してきちゃうね」と言い残し、わたしはひとり、リビングに取り残されている。


──あの子は、いまごろどこで何をしているのだろうか。


わたしは昨日、ふいに街のなかで流れ込んできた「思い出」のことを考える。


「思い出」の"目線"だった子の記憶をなぞる──やさしいおとこのひとがいた。その子のおとうさんだろうか。その子はそのひとのことがせかいでいちばん好きで──あたたかい気持ちがあふれていた。そのおとこのひとが笑ってくれるだけで、うれしかったことが手に取るように伝わってきた。けれど、どこを辿ってもおかあさんらしきひとは見当たらなかった──しかし、ある日を境にしてそのおとこのひとは暴力的になる──その子は殴られた、蹴られた、痛い、かなしい、どうして────まっくろに塗りつぶされたその視界から感じるその気持ちだけが、どこまでも生々しくて、わたしはぎゅっと目を閉じる。強く閉じた目のあいだをくぐり抜けたしずくが、ゆっくりと頬を伝わる。そのしずくのあたたかさが、なんだか余計にかなしかった。


突然、わたしの身体の全身がだれかの体温でつつまれた。

びっくりして目を開けると、母がわたしに抱きついていた。母のかおりがふわりとわたしをつつむ。


「だめよ、思い出したら。それはあなたのものじゃない」


わたしをぎゅっと腕のなかに閉じ込めたまま、耳元でゆっくりとささやく母の声は、いつもよりずっとやさしかった──母はいつもやさしいけれど、それとはちがったやさしさだった。


わたしからすこしだけ身体をはなした母は、わたしの顔をのぞきこみ、頬を伝うしずくを指先でゆっくりとぬぐう。


「出かけましょう。おとうさんもあとから来てくれるって」

「──どこに、いくの」

「あなたにとって、これからの人生を決めるうえでとても重要なひとに会いに行くの」

「これからの、じんせい……?」

「そう、あなたはおそらく、"思い出を読むひと"になるのよ」

「"思い出を読む"──?」

「詳しくはこれから会うひとに教えてもらいましょう。実はおかあさんも、よくわからないの。そういうことができるひとたちがいる、ってことは知っていたのだけれど。でも、すくなくともおかあさんがなにも知らないわけじゃなくてよかった。あなたたちになにかあったら、って思ってこれでもすこしは勉強していたのよ」


さみしそうな、それでもどこか誇らしげな母のかおは、これまでわたしが見たことのない不思議な表情をしていた。


「さあ、行きましょう──ああ、でもごめんなさい。あなたは目隠しをしないといけないわ」


そういってやわらかな布で言われるがままに目隠しをされたわたしは、ずっと何がなんだかわからなかった。

ただただ母に手をひかれて家を出て、どこをどう歩いているかもわからないまま、言われるがままにされていた。そのあいだ、母はわたしが退屈しないようにするためか、ずっとひとりでおしゃべりしていた。


「あんなにちいさかったのに、もうわたしがずっと抱きかかえて歩くには大きすぎるくらいまで大きくなったわ──ごめんね、不安だろうけど、もうすこし我慢して……あ!おとうさん!」

「遅くなってすまない。ここまで大変だったろう」


どうやら道すがらに父に会えたらしい──目隠しをされているわたしにはその姿はみえないのだけれど。


「よしよし、よくここまで歩いてきたな。あとはおとうさんに任せておけ」


父は──声の方向から推測すると──わたしに向かってそう言ったらしく、さっとわたしを抱きあげた。

ふわりと浮いたその身体に不安になったわたしは、その首筋にきゅっと強く抱きつく。


「おはよう。朝ご飯はちゃんと食べたか?」

「たべた。おねえちゃんがパンやいてくれた」

「そうか、それはよかったな」

「おかあさんもベーコンと目玉焼きをつくったじゃない」

「うん、おいしかった」


わたしは父と母がくすくすと笑う気配を感じる。


「あとすこしで着くからな。もうちょっとだけがんばろう」


そう言って父は、ゆっくりと歩き出した。








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