遥 -はるか-

わたしの目隠しがやっとはずされたとき、そこは知らない部屋だった。ずっとわたしのことを抱きかかえていた父が、わたしを着地させた。どことも知れぬソファのうえにぱたりと身体を沈める。ずっと光をさえぎられていたわたしは、まだすこしだけ目が慣れない。ぱちぱちとまばたきをする。


「いらっしゃい──いや、さいしょは"はじめまして"と言うべきかな?ちいさなお嬢さん」


わたしは声のしたほうに視線を向ける。そこにはぱっと見ただけでは男のひとか、女のひとかわからない、いわゆる「中性的」なひとがいた。にこりと笑みを浮かべるその顔はシュッとしていて、髪はショートカット──女のひとだったとしたら短すぎないか、と思うくらいには短いと思ったけれど、それでもそのひとにはとても似合っていた。服装はすらりとしたスラックスとジャケット、襟元はパリッとしたシャツ──ネクタイはしていなかった。

発せられたその声の高さでも性別を判断できないほどに、そのひとはありとあらゆるものの"真ん中"にいた。


「ああ、初対面の方にはこれを渡しているんだ。マナーとかはどうでもいいから、受け取って」


そう言ってそのひとは、ちいさな紙切れ──わたしはのちにそれが"名刺"だと知った──を差し出してきた。

わたしはおずおずとそれに手を伸ばして受け取る。


「夕稀 -ゆうき-」


その紙切れにはそう書かれていた。それ以外の情報はむずかしくてよくわからなかった。唯一、名前だけはひらがなで書きくわえてあったからたすかった。わたしはまだ漢字が読めない──習っていないから。


「ゆうき、さん」


わたしはじぶんでもびっくりするほどか細い声で、そのひとの名前を声にした。名前を知ったところで、やっぱりそのひとの性別は、わたしには判断ができなかった。


「はい、夕稀です。よろしく、ちいさなお嬢さん」


そのひとはにっこりと笑った。


「お嬢さんはなにか好きな飲み物とかある?あ、おとうさんとおかあさんは彼女になにかアレルギーとかあったら教えてね」


そういって「ふふふ」と笑うそのひとに、「この子はホットミルクが好きです」と答える母の声が、わたしの右後ろから聞こえる。


「そう、ホットミルクが好きなの?」

「はい。でもきょう、ここに来る前におかあさんが温めてくれたやつを飲んだので、ゆうきさんが好きなものを飲みたいです」


あら、と夕稀さんはうれしそうな顔をする。


「ほんとうにかわいいお嬢さん。でも大人の飲み物は出せないから、お茶にしようかな。緑茶とほうじ茶と紅茶なら、どれがいい?」

「それなら、ほうじちゃがすきです」


それを聞いてまた、夕稀さんは「かわいいわね」とにこにこする。そしてわたしの座っている後ろのほうに視線を向ける。


「おとうさんとおかあさんは?ほうじ茶でいい?」


それぞれが「はい」と言う声──それはとてもほっとしていた──に満足そうに夕稀さんがうなずく。



「はい、お待たせしました」


夕稀さんが持ってきたほうじ茶は、いつもわたしの家で出てくる湯呑み茶碗ではなく、とてもおしゃれなカップに入り、おなじくおしゃれなソーサーにのせられていた。


「ほうじちゃ……?」


ほうじ茶が入れられているにはあまりにもおしゃれなそのたたずまいにびっくりして、うっかり漏れ出したわたしの言葉を聞いて夕稀さんは大きな声で笑う。


「ごめんね、これしかカップがなかった。でもちゃんとほうじ茶だよ」


まだ笑いがおさまらないという表情で「あはは」と軽快に笑うそのひとは、なんだかわたしの気持ちを軽くさせた。

カップを手に取って鼻に近づけると、それはたしかにほうじ茶の香りがした。その様子を夕稀さんはにこにこしながら眺め、「熱いから気をつけて」と言う。

ふうふうと息を吹きかけ、ゆっくりと口をつけてみたけれど、それはまだわたしにはすこしだけ熱かった。


「ああ、そうだ、ねえ、お嬢さん。だれかの思い出が見えたの?」


なんでもないことのように、夕稀さんがわたしに尋ねる。


「はい、みえました」


カップをソーサーにゆっくり戻しながら、わたしは答える。


「そっか。つらかった?」

「うーん……よくわかんないです。でも、あのときみえたもののことをかんがえると、かなしくなります」

「ん、そうだよね。あの光さあ、まぶしいよね」

「はい、とってもまぶしかったです」


わたしのその言葉を聞いて「うんうん」とうなずくそのひとも、カップを手にとって躊躇なく中身をぐびりと飲む。熱くないのだろうか。


「お嬢さんはここまで来るのに、どうやってきたの」

「おうちでおかあさんに"ごめんね"って言われて、目隠しされてきました」

「そう、お嬢さんはとっても大切にされてるのね」

「──どういうことですか?」


その問いには答える気がないのか、曖昧な微笑でごまかそうとするそのひとのことが、わたしはすこしだけこわくなった。


「もしかしたら、お嬢さんにとって残酷なことを言うと思うのだけれど」


ほんとうに言いづらそうに、夕稀さんは言った。


──これまでの名前は"カンする"必要があるわ


わたしには、そう聞こえた気がした。


「えっ?」

「この言葉はお嬢さんにはまだ難しかったかしら。かんたんに言えばあなたはこれまでの名前を封緘──封印する必要があるの」


その意味がわからず、わたしは素直に問いかける。


「どうしてですか」

「それが、"あなた"だから」


これが、"わたし"だから────?


「かわいそうな運命、と言ってしまえばかんたんかもしれない。けれどあなたは、もうこれまでのあなたと同じようにこの世界で生きていくことはできない」


わたしがそうだったように──と、夕稀さんが言う。それを聞いたわたしは、言葉にされた内容を理解することよりさきに「ゆうきさんはおんなのひとだったんだ」と思った。


「これからは"はるか"と名乗りなさい。それが、あなたの閲読師としての名前」


そうしてわたしは、なにも理解できないまま「閲読師・遥」の名を与えられた──父と母がわたしにつけてくれて、いままでわたしが名乗っていた愛着のあるだいすきな名前は、この日を境に二度とわたしが口にすることはなかった。





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