第6話 誰かに似ている
「ねえ、一緒に学校にいってみない?」
「………は?…………え?」
優からこの言葉を聞いた瞬間に俺の脳の処理が追い付かなくなっていた。お年玉が欲しいとかだったらまだ対応が出来ていたが、まさかのことに度肝を抜かれた。
「…………どう……かな?なるは、いってみたい?」
俺の顔を覗くように見てくる。優の目からは、緊張と、少しの恐怖心が入り混じっているように見える。怒るかも、と思っているのだろうか。
考えることを放棄していた。俺には未来なんてものはないんだ。折り紙で生きて、いつか死ぬ。そう思っていた。もちろん今でもだ。
「いや、俺には折り紙の仕事があるからさ。ありがと、俺にそんな贅沢な選択肢を与えてくれて」
優の誘いは俺にとって運命を変えるものだ。学校なんてとうの昔に諦めていた。俺には時間はあったけれど、自由はなかった。それを自由と呼べばよかったものの、あらゆることに、決定権なんていうのは存在しなかった。
「そ……そうよ……ね。なるは、大変なのに…ごめんね!忘れて」
「あ、優ちょっと!」
俺と目を合わさず、そう言い去ってリビングから出て行ってしまった。俺は手を伸ばしたが、何も出来ずに彼女が消えていった廊下を眺めていた。
「俺は、何か選択肢を間違ってしまったのか」
「正しいけど、ハズレを引いたのよ」
皐月を見てみると、俺の少し引きつった顔を見て朗らかに笑っている。
「優ちゃんはなるちゃんのことが好きなのよ」
「え?今更そんなこと。あいつは結構……いや、普通に分かりやすいからな」
「恋愛的に好きなことも?」
「……まあ、そうだね。知ってる」
俺は優から恋愛感情を抱かれていることを知っている。もう何年も前の話だけど。それは顕著に分かった。あいつにとって俺は落としたい相手なのかもしれないが、それでも俺のことを家族の一人として認識しているみたいで良かった。だから、優は俺のことを優先したのだ。
「だが、俺は恋愛なんて全く興味はないな。他人の惚気話を聞くのは嫌いではないが、自分がしたいかどうかで言われると、する気がないな」
「なるちゃんは美形過ぎるんだから、その辺は自重しておいた方がいいわよ。やろうと思えば、簡単にハーレム作れるでしょ?」
「ないな。俺はモテたことなんかないんだぞ?告白された回数だって一回もないし」
「でもさっき逆ナンされてたじゃない。あれはモテてる人じゃないとありえないわよ」
この家に来る前に、皐月と同い年くらいの女性二人組から、連絡先を尋ねられた。しかし、俺は携帯電話を持っていないので、丁重に断ったのだが懲りもせずに今度は、お茶でも行かないかと誘われたのだ。その時、たまたま皐月はお手洗に行っていたので、帰ってくるまで二人の相手をする羽目になったのだ。
「ナンパの回数が多くても告白されたことないんだから、モテないって言っても良いだろ」
「なるちゃんなら、女なんていくらでも替えが効くとでも思ってるんでしょう?」
「そうそう、お金渡してホテルにゴー………って全く思ってねーよ!」
「それで?高校に行こうって誘いを断るの?」
俺のノリツッコミはどうやらフル無視できるのは恐らくコイツだけだろう。
話を戻した途端、皐月の目の冷たさが空気を切り裂いた。おふざけは終わりという合図だ。
だが、その目はまたすぐに優しさを取り戻した。
「即決するようなことじゃないでしょう?どうせ今は動くことが難しいんだから」
「そうかもだが、仮に俺が学校に行っている間はどうするんだ?誰が折り紙の役目をするんだ?俺一人でもつらいのに」
「警察や特殊部隊なんかがいるじゃない」
「出来んのか?あいつらの出来ない仕事がこっちに流れてくるっていうのに」
「死ぬ気でやらせればいいのよ。変わりなんていくらでもいるんだから」
俺よりも危険な思考を持っている皐月だが、言っている事はあながち間違ってはいない。俺が折り紙を一人でやるよりも、人数が多い警察などに危険な仕事を行ってもらう方が効率的だ。
「あくまでそれは、国からの依頼の話だろ?個人的な依頼はどうするんだ?」
「それはなるちゃんが引き受ければいいわ。報酬の最低値を上げればいいのよ。今、折り紙への依頼は最低一千万からだけど、一億に引き上げれば依頼を受けたいって人は必然的に減っていく。それが狙いよ」
「金かぁ~。でも俺は金儲けのために折り紙にいるわけじゃないんだ。皐月もそれは理解してるはずだろ?それに折り紙に個人で依頼するやつの大半は、金に糸目を付けない富豪だらけ。十億くれって言ったらすぐに出してくる奴らばっかり」
年末に行った依頼ですら、最低一千万の報酬と感謝料という名の五千万の贈与。
「じゃあ、お金の代わりに、一つだけ命令を聞いてもらえるということにしたら?」
「命令か。いや、そういうことではないだろ」
「でも………結局は」
そう言って、ワインボトルを渡してきた。開けて、という意味だ。ワインオープナーは手元に無かったので、仕方なく腕力を駆使して開ける。
ボンッ。と、良い音を鳴らすと、グラスに注ぐ。皐月は、俺の太ももに手を添えて煩うように言った。
「不幸なあなたに死んでほしくないのよ……」
「………っ」
注がれたワインをじっと見つめた皐月が、ぽつりと漏らすように呟いた。それが全てなのだろう。
俺もその気持ちが今日分かってしまった。確かに、大切な人が亡くなったら悲しいよな。
優も分かっているのだろう。俺の最期は、間違いなく折り紙の任務で死ぬ。俺はいつの間にか自分のことを全部捨てて、折り紙で死ぬことを美徳として生きてきた。俺だって昔は、将来何をやろうかと、考えていた時期もあったはずなのに。
だけど、もう昔のことだ。俺がやりたいことなんてのはどうでもいい。俺の命なんかより、この二人の命の方が大事だ。
俺はミルクすら入れずに、ストレートティーを飲み干して、それをキッチンに運ぶ。
「そんなことより、今はもっと重要なことがある。今が平気なだけで、いつここが狙われるかわからない。すぐに決着をつけよう」
「………なるちゃん」
「大丈夫だ。ちゃんと話す。それにまだ死ぬつもりは更々ない。俺たちには、やらなくてはいけないことがある。その後は……まあ、自由に生きるのを考えてもいい。相当先になるけどな」
「………それって⁈」
声だけで、皐月が有頂天になったのが分かった。まあ、このくらいならいいだろうか。俺は調子に乗って声高に笑い、場を盛り上げようとした。
「まずは、情報を集めるしかない。俺たちが今出来る最善手を打って最低限の安全を取り戻すぞ。そして光原を総理大臣の座から降ろしてやろうぜ!」
「アポなら任せてちょうだい!明日にでもジュルスケを開けさせるわ。いつまでも相手の思惑通りさせないから!私たちに負けなんて存在しないことを証明しましょ!」
彼女が言っている人物は、政府関係者の一人である。折り紙に最も関わりがある人物と言っても過言でもない。
気分が乗ってきたのか、皐月がラッパ飲みを始めた。立ってソファーに片足を乗せ、左手は腰に添えて、ワインボトルに入っていたものを一気に飲み干した。ぷはぁ、と飲み切った皐月はまだまだ余裕そうだ。
「ああそうだ。俺たちは犯罪者だ!その程度でダークな雰囲気になってるようじゃ、犯罪者失格じゃオラァァァ!」
俺も何だか面白くなってきてしまった。もう止まらなくなった皐月は、冷蔵庫から缶ビールを出してきた。ここまで来ると限度なんてものはない。だが、急性アルコール中毒が軽く心配なので、ちょっとだけ皐月を観察しながら楽しむ。
その横で、俺は先ほど買っておいた缶コーヒーを喉に流し込む。気分がいいからなのだろうか、めっちゃ美味しい。さっき飲んだ紅茶には劣るけど。
「まあ、平気そうだな………じゃ。とりあえず優と話してくるよ。晩酌楽しんで」
リビングを出たのは良いものの、優の部屋なんか分からない。仮に全部屋開ける事も出来るが、思春期の女子の部屋に勝手に入るのはまずいし、勉強しているのならばそれを邪魔してはいけない。つまり俺がとる方法は、廊下で瞑想して待つことだ。
「………」
胡坐をかいて目を瞑る。瞑想は素晴らしい。何も考えずに呼吸に集中して、時が過ぎるのをゆっくり待つ。これだけで気分がいい。
しかしだ。優になんて言ってやればいい?彼女を安心させる言葉は、たった一つとして存在しない。それに、高校に行こうなんて言われても、俺が行っていい場所ではない。
優たちは何を考えているのだろうか。……というか、どうしてそんなことを言い始めた?優はともかく、なぜ皐月までもが俺が学校に行くことを否定しない?なぜ、優の意見に反対しない?
もしかすると、皐月が俺を高校に行かせるために、仲間を殺した……なんてことはあり得ないか。論外だ。
瞑想そっちのけで考えていると、部屋の扉が開く音がした。
「え⁈………なる?何しているのよ」
「ん、ああ優か。瞑想に決まっているさ。女の子の部屋に入るのを躊躇った野郎っていうのは、みんな廊下で瞑想するんだよ」
「え、そうなの?そういえば、数か月前に行った修学旅行で、廊下に正座していた男子たちがいたけど、そういうことだったんだ」
「絶対にそうだし、是非その男子と友達になりたいな」
目を開けて、優を見上げる。すると優の手の中には、一枚の紙の切れ端が大事そうに、握り潰さない程度の力がこもった手の中にあった。しかもそれには見覚えがある。
「なる……これ……」
そしてそれが、俺の手のひらに置かれた。「何でもする券 期限なし(折り紙を辞めろはダメ)」と書かれた一枚の紙。俺にとっては価値のないモノでも、優にとっては、夢への片道切符なのだろう。
これは優たちが東京に越す際、泣いていた優に俺があげたものだ。
「懐かしい………よくこんなの持ってたな。てっきり捨てられてたと思ったよ」
「もう、そんなことしないわよ。……これは、人生で初めてのプレゼントだもん」
「人生で初めてのプレゼント……か。お前の中で、これがそこまで大きな役割を担っていたって考えると、この紙も喜ぶだろうな」
優の額から一滴の汗が零れる。これを探すために奮起していたと考えると、さっきの俺の行動は、ただの甲斐性無しだったのかもしれない。
だが俺は立ち上がって、突き放すかのように紙切れを先ほどの居場所に返そうとした。しかし、それを拒むように首を横に振った。さっきの話はかなり本気のようだ。
「返すよ。俺には儚すぎる願いだ。他のことじゃだめか?」
「……だめ。これがいい」
まるで欲しいおもちゃが手に入るまでねだる子供のような態度をとってくる。俺を見上げる黒い瞳は、揺れることを恐れない。
「なあ。どうして俺に学校なんて行ってほしいんだ?」
優の目的は何だろう。なぜ、そこに執着するのか。
「……一番の理由は、生きてほしいから。なるが、死ぬつもりなんてないのは知ってる。でも、それでも今日のことを聞いて確信したの。なるには悪いかもしれないけど…いくら強くても、不測の事態では対応できない可能性もある。」
「痛いとこを突かれたな」
「なるも、一応人間だから数で押されたらどうなるか分かんない。あの人たちが負けるなんて考えたことが無かった。だから……怖い。なるがいなくなることだけは……絶対にいや」
「一応じゃなくてちゃんと人間だからな」
かける言葉がない。どう説得するか、なんて考えるだけ無駄だ。もしかしたら、今日ここに来たことを後悔するかもしれない。判断ミスだ。少なくとも、この家周辺には不審な者はいなかった。皐月だけ帰らせて俺一人で野宿でもすれば、優に直接会うことは無かったし、外の詮索もこなせたはず。
……いや、こんなこと考えても意味はない。俺がここで優にきちんと言えばいい話だ。
「まあ、優の言いたいこともわかる。俺もあいつらが死んだって聞いた時は、悲しみよりも先に、驚きがあったしさ。というか、他の理由があるのか?一番の理由って言ったからさ」
「まあ、ある……かなぁ」
「かな?」
「なるは覚えてないかもしれないけど。わたしはあの瞬間を今でも鮮明に覚えてる。だから、今日が本当に運命なのかもしれないって、さっき本気で思ったの。神様はあなたを見捨ててないって、確信できた」
「……いきなりどうした?神ってなんのことだ?」
「忘れているなら、また思い出せば……いいから」
俺の顔に手を伸ばし、頬に触れてくる。その黒の目は達観していた。いつもの彼女とは、何かが違う気がする。面倒見が良くて、真面目で誰にでも優しい子だ。今日のような、我儘で、子供っぽい言動なんていうものは、一緒に暮らしていた幼き頃に見たことがある。
だが、それとも違う。今の優はなんて言うか、どこかに行ってしまいそうな感覚。でも、既視感がある。それにすべてを懸けて、考えて、情熱があったけれども、最後には抗うことを止めて、ただ願うだけ。選択を俺に託して、自分はその瞬間を心待ちにするだけなのだろう。
まるで神頼みだ。
「お、思い出す?昔のことはわかんないかなぁ」
俺は彼女に対して違和感を持った。
「……わかった。教えてあげるからちゃんと心に刻んで」
少し不満げな所は、いつもと変わらない。
「なるを学校に行かせたい理由の二つ目はね…」
そうだ……思い出した。既視感の正体。あいつに似ている。天性の慈愛があって、聖母と言われてもおかしくない。普段は笑顔を絶やさないけど、つらい経験を人一倍してきている。誰よりも優しかったあいつの生き写しのようだった。
「なるが……それを望んでいたから。わたしは今日を望んだの」
「望んでいたって……。俺が、学校に行くことを?」
「うん。言っていたよ。絶対に言ってたもん」
「それホントか?」
俺は今までの優との会話を思い出そうとする。だが、いつどこで言ったのかが分からなければ、思い出すのも難しい。ぽつりと言った感じなのか、結構がっつり言っていたのか。どちらにせよ、優がここまで言っているのだ。間違いなく言っているのだろう。
でもなぜだ。俺は何でそんなことを漏らしたのだろう。何年も前のことだ。
ただ、きっとその時の俺は、何かに対して未練があったのだと思う。それも思い出せない。
「なあ、俺はどうしてそんなこと言ったんだと思う?」
「わたしが学校の話をしている時に、わたしがああ言ったから、気になっちゃったから……とか」
「学校の話を……してた時。──────あぁ、あの時か」
思い出した、というよりもそれを様々な記憶の中から探すのが困難だった。彼女が言わなかったらもう二度と思い出すことはなかっただろう。
単なる憧れ。子供の時の当たり前のソレ。誰も言ったことがあるだろう。あれが欲しい。あれをやってみたい。ねだった所で手に入らないモノに憧れていただけ。俺は、すべて放棄して勝手に大人になっただけ。自分には無理だ、と頭と心で確信した日から俺は死んでいた。
学校に行ってみたいとは、俺の願いだった。優の願いではなかった。
いつかの会話。俺たちがまだ子供だった時のこと。自分が憧れだったものを彼女に押し付けて、俺はそれを勝手に捨てて、諦めなかった彼女を、俺は諦めさせようとした。
同じ逆境だったのに、まるで違う。考え方も違う。生き方も違う。憧れ方も違う。全く違う。
これが前を向いている者と前を見なくなった者の違いか。
自分が情けない。今更どの面下げて彼女に向き合えばいい。何を返してやればいいのだ。
……ダメだ。全然分からない。目の前の女の子を俺は家族だと思っている。理解をしてやれていない。それの何が家族だ。家族を大事だと思っていても、優と会話するのだって三年振りだった。
不平等なんて都合のいい才能を貰っておいて、こんな結末を引き起こしているのだったら、俺は何だ?才能に甘えているだけだろ?それがなかったら、何が出来る。
「…………」
「……なる?ご、ごめんね。わたし……さ。何も理解できてあげられなかった。あっちで生きている、なるに……。覚悟を背負って戦っているのに………それなのにっ────⁈」
沈黙を続けていると、頬から温かい感覚が離れていこうとする。下を俯くその声が、嗚咽に変わるその前に、俺は彼女の腰に腕を回して引き寄せていた。ふんわりと香るシャンプーの匂いを感じられるだけで嬉しかった。
抱きしめたとき、無意識だった。この二人だけは、自分のようになってほしくない。大切なものをしっかりと追い求めてくれればいい。
「……どうしたの?怖い夢でもみたの?」
無理して冗談を飛ばして俺の背中に腕が回される。俺より細くて、か弱くて、温かい。俺にあやかってくれているのだろうか。本当は誰よりも怖いくせして無理をする。
「いや、素敵な夢を見させてもらったよ。とても気分が良い」
「素敵な夢……かぁ。ねえ、なるに夢はあるの?」
「ん?夢かぁ~。そうだな………ある人たちを倒すことだよ」
「どうして?」
「俺の夢は折り紙の夢で、折り紙の夢は俺の夢になったんだ」
俺がその夢を志すようになったのは、五歳の頃だっけ。その日に初めて、世界の理不尽さに絶望したのがもう懐かしい。
その日から、俺は全て捨てた。その日から、憧れることすらやめた。夢とか希望とか。買って貰っていたおもちゃも全て。何もかも俺の中ではゴミ同然と化した。その感情を犯罪にぶつけていたおかげで、忘れることが出来ていたし、俺には家族だった仲間たちがいた。十五年苦楽を共にした家族たち。だが、いなくなってしまった。
「俺にとっては大事な夢なんだ。もしそれを叶えることが出来たのなら………この生活も終わるのかもしれない」
「それって、折り紙が終わるってこと……?」
「ああ、そうなるな」
俺を包む力が少し強くなった気がした。だから俺もそれに倣う。
「じゃあ、もし全部が終わったら、折り紙を解散して裏社会から足を洗って、三人で一緒に住もうよ。わたしは働くけど、皐月さんとなるはもう自由に暮らしていけばいいから。誰にも文句は言わせないし、今まで出来なかったことたくさんしようよ。三人とだったら、どこにでも行ける気がするの」
「それも、いいのかもしれないな。目的を完遂することが出来れば、俺らの存在は、この国にとっては邪魔なものだろうし。捨てられたら考えるよ」
だが、引退の日が今日の出来事で遠のいた。それは言わなくてもいいだろう。
………しかし、学校か。
昔、俺が諦めていたことが出来るのかもしれないと考えると、魅力的に聞こえてくる。
全部捨てたはずなのに、全部諦めていたはずだったのに、ここでその選択を俺に寄越してくるなんて、正直、少し卑怯だ。
勘弁してほしいなぁ。せっかく俺には必要なかったから捨てた感情だったのに。わざわざ思い出させてくるなんて。シビアな人だ。全然優しくない。
でも────────────いいのか?
望んでもいいのか?憧れていいのか?血で汚れ過ぎた手で掴もうとすれば、それは汚れずに綺麗なままでいられるじゃないか?遠くから眺めた方が綺麗なままであるのなら、俺は触れたくない。知らないことが幸せに繋がることもある。学校に行ったら、その現実を知ったら?俺は不幸になる?学校を辞めたくなる?
……何馬鹿なこと考えている。俺が学校に行って、彼女たちが迷惑を被ったらどうする。
責任を今更取れるか。今一番大事なのは、あの二人だろ?俺の憧れなんてものは、それと比べたらどうでもいい。かけがえのない二人が最優先。そこは俺の私情だが、確定事項だ。
俺は優を身体から離し、端的に伝える。
「ごめん優。今は俺にとって学校なんて必要ない。お前がいるだけで、それだけで十分だ」
「………っ。そっか。それは……しょうがないわよね。あ、きっ、気にしてないからね⁈なるも忙しいのはわかっているから!」
「………ごめん。なにもしてあげられなくて」
慌てたように声を出して、髪の毛を指でくるくる弄る。動揺を隠そうにも隠せていないのは、これほど拒絶をされたことは無いからだろう。
「今日は寝なよ。もう十二時を回ってる」
「…うん。おやすみ」
瞳にあったそれが落ちる前に寝るように促す。優が部屋に入ったのを確認して、俺も今は少しだけ休もうとリビングに戻ろうとしたとき、何かを踏んでしまった感覚があった。
「これって、何でもする券じゃないか」
落としてしまったのだろう。昔お絵描きするときに使っていた画用紙の切れ端に書かれた俺の字は、拙くて可愛く見える。昔の俺は、きっとこうなるなんて思っていなかっただろうな。
何でもする券をポケットに入れて、俺は夜の散歩に行くために皐月に一言伝えに向かう。休む時間なんて無いことを忘れそうになっていた。浮かれているな。
もちろん偵察のためだ。この家周辺を全力で駆け抜ければ、怪しい人影や車の一つでも見つけられるはずだ。もし無ければ、偵察されていないかこの家は多分知られていないと考えても良いだろう。
「おーい。皐月……って。おいおい」
テーブルの上には空のワインボトルが三本。缶ビールが二本。肝臓を酷使し過ぎでは?
床には、皐月が直で寝ているではないか。酷い有様だ。皐月は家事を一切やらない。ではなく、出来ないのでこれをいつも優が片付けているとなると、非常に可愛そうである。
そんなことは微塵も気にしていないであろう皐月は、気持ちよさそうに寝ている。大理石の寝心地はどんなものなんだ?気になって俺もその横にお邪魔してみる。
………しんどい。ただただしんどい。よくこれで幸せな顔をして眠れるな。
だが、放置しておくのもあれなので、ソファーに運ぶ。顔を覗き見た時に微かに見えた朱色の痛みを見て見ぬふりをしてゆっくり降ろした後に、部屋の片づけをする。静かになったこの部屋を見渡せば、あの二人の幸せな風景が浮かび上がってきそうだ。
まあ、楽しくやっているのなら、それでいい。
皐月のカギと一応のために現金を勝手に拝借して、一応置手紙を書いていく。最悪戻ってこられないかもしれないからな。外は少し冷えるが、全く問題はない。そもそも、この身体は無駄に丈夫なので、寒くても暑くても特に支障はない。俺からしたら、ラッキーだ。
しかし、俺ですらこの身体を完璧に理解できていない。確率的に言えば、数憶分の一で発生する奇跡と運命の産物。それが『不平等』だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます