第18話 硫黄島

 ところどころ白い雲が浮かぶ青空の下、岩のちらばる草原に藪が散在している。その向こうには滑走路が見えている。妙に静まり返った戦場に、おだやかな潮風が吹き抜けた。役目を終えたスパイクだけが戦闘の名残りを留めている。二等陸士も、案山子の曹長も、どこかに消えてしまった。

 ここでは、誰もなんにも知らないんだな。なんだか妙にもの悲しくて、泣きだしたいような気分と、そんなことさえ面倒に思える気だるさ。

(いつだって、人生とはそういうものだ。誰にも本当のことなど、わからないものだ)

 二等陸士の言葉が、ふと思い出された。その言葉はまるで、この世の真理を言い表しているようだ。ふと気づけば自分がベッドの中で夢を見ていたとわかれば、どれだけ安心できるだろう。しかしもしそうなったとしても、やはりそこにも同じ不安がないだろうか。

 そんなことを考えながらため息とともにうつむいた視界のすみ、胸ポケットの中でなにかが動いている。

 ポケットをのぞき込むと、そこには一匹のリスがいた。

 その瞬間、頭の中に、ポッとかすかな明かりが灯った。その小さな明かりが、見る見る周囲を照らし始める。

 ――リス コウスケ サクマコウスケ CVRS 研究所 アキラ わたしはウエスギアキラ――

 記憶が次から次へとよみがえる。なんとも言えない懐かしい気持ち。遠い戦場から、自分の世界へ戻ってきた安心感。 

「アキラ、わかるかい?」リスがささやく。

「うん、わかる。わかるよ、コウスケ」

 胸元のリスを見ていると、なにもわからずに独り戦場に放り込まれていた不安が消えていく。ようやく自分自身を取り戻すことができた感覚に、不意に涙がにじむ。

「なんだよ、アキラ。泣いてるの?」

「違うよ」急いで涙を拭うと、すぐにいつもの気の強いアキラに戻る。「コウスケ、どこに行ってたんだよ。遅いじゃないか」

「ごめん、ごめん。急にマップが変わったもんだから、こっちのパソコンが読み込みに手間取っちゃってね。でもしばらくして安定してからは、アキラのことはずっと見ていたんだよ」

「だったら」戦場での不安を思い出して、腹が立ってくる。「すぐに助けに来てよ。だいたいコウスケ、なんでそんなポリゴンなんだよ」

「実は正式な手順を踏んでないんだよ。だからぼくはこの世界で実体ではない。映像と音声だけなんだ」

「大して役に立ちそうにないな。コウスケだって名乗った、マッチョなソルジャーの方が使えそうだ」

「あれは研究所のタカハラさんだよ」

「そうだろうな。コウスケにしてはおかしいなって思っていたんだけれど、あの嘘っぽい笑い方で気づいたよ」

「でも本当は、彼はワンっていう名前の中国人だ」

「なんだよ、それは。一体なにが真実なんだ?」

「アキラは、だまされているんだよ。いや、アキラだけじゃなくて、キジマ所長も、研究所の人すべてがだまされている。CVRSを使ったゲームを開発しているインテグレート・エクスペリエンス社の実体は、中国のテロ組織だ」

「テロって、具体的には?」

「CVRSを使った、ホワイトハウスへの襲撃計画だ」

「シリコンバレーの新興ゲーム会社が、まったく新しいゲームを出すって話自体が嘘だったの? それになんでコウスケが、そんなこと知っているんだ?」

「実はタカハラさんからは、連絡があったらパスワードを入力してCVRSにログインするように言われてたんだけど……」

「言われていないのに入ったのか」

「まあ……そうです。でもね、すごく、なんて言うか、胸騒ぎのようなものを感じたんだ。本当だよ。なんだか晶がとっても困っているって、そんな気がしたんだ。だからまだ言われてなかったけどログインして、以前ぼくがパソコンの勉強のために試作したリスをアバターとしてアップロードさせたんだ。VRゴーグルをつけてアキラを見たりタカハラさんを見たりしていたら、上海との打ち合わせの会話から、その計画の内容が耳に入ってきた。だからぼくは途中でVRゴーグルをつけたまま、貴島さんに携帯電話でそのことを報せたんだ」

 確かにここでわたしは、なにもわからなくなってすごく不安だった。でもその気持ちが、どうしてコウスケに伝わったんだろう。そう思いながらアキラは、この状況が予知夢の続きであることにも気づいていた。その不思議な状況に首をひねっていると、リスがその先を続けた。

「この計画、裏でロシアも糸を引いているのかもしれない。少なくともロシアからも資金が出ていて、彼らにもその見返りがあるようなんだけど、いまはっきり見えているのは上海にある組織だけだ。でも最終的にやつらの計画では、このテロを実行するのは、日本と言うことになる」

 そこまで聞いて、アキラには話の全貌が見えた。日本の会社が出資した研究所の技術を使ってのアメリカに対するテロ攻撃。そしてその実行犯は日本人。つまりこの自分だ。記憶を抑制され、VRの中での戦闘命令を実行する。現実世界とリンクしたマップの中で行われる攻撃は、現実への攻撃そのものとなる。

 胸元のリスを見ながら考え込んでいたアキラがその目を上げると、妙に静かな島の風景が見える。それは本物の現実と同じように、目の前に存在しているように思える。

 どうすれば、現実に戻れるのだろう。また不安が、胸いっぱいに広がっていく。記憶は戻ったが、この戦場からはまだ抜け出せていない。悪夢から覚めたと思ったら、そこはまだ夢の中なのだ。

「アキラ、アキラ」

 胸元に目を落とすと、クリクリとした黒目のリスが見上げていた。

 この夢の世界で、わたし自身を取り戻させてくれたかわいいリス。この子はわたしの切り札だ。わたしにはコウスケがいる。

 そう思うとアキラの心の中に、どこからか力が湧いてきた。

「アキラ、よく聞いて。十分後にやつらが戻って来る。ここは硫黄島で、後ろに見える山は島で一番高い場所の摺鉢山(すりばちやま)だ。そこにこのシステムを内部から操作することのできるコンソールが存在する。それを操作してバックドアを開くことで、アキラはここから出ることができるはずだ」

「わかった。どうしたらいい?」

「いますぐ摺鉢山に登れ。そしてそこの建物に入るんだ。コンソールはそこにある。ぼくはいまから貴島さんに連絡する。山の上の建物の中で、コンソールを操作できるようにして待機しろ。キジマさんとは話がついているから、指示がきたらその通りに動いてくれ」

「ウィルコ」

 そう答えてアキラは全力で山を登った。現実ほどではないけれど、この仮想の世界でも、走って坂を登ると息が切れた。そこまでリアルにしなくてもいいのに。文句を言いながらも、アキラはなんとか山を登り切った。そしてそこに建物を見つけ、側面の入り口から中に入った。

「アキラ、予定では残り時間はあと五分だ」

「わかった」

 アキラが駆け込むと、そこはコンクリート打ちっぱなしのガランとした部屋だった。その一角にここには不似合いな、金属製の箱が見える。そこに走ったアキラが上部の蓋を持ち上げると、やはりそこにはモニターとキーボードがあった。

「あったよ」

 アキラが胸ポケットのリスに伝える。リスはサッと飛び出してコンソールの上へちょこんと座った。すぐにリスを通して、声が届く。

「こちら、キジマ。わかりますか」

「はい、聞こえています」

「コウスケから聞いていると思うが、まずそこのバックドアを開かなくてはいけない。すぐにそのためのコマンドを打ち込んでもらいたい」

「はい、お願いします」

 キジマの指示通りに動いたアキラは、伝えられる文字を次々と打ち込んでいった。あと少しというところまできた時、リスが叫んだ。

「戻って来た!」

「えっ、まだ五分経ってないだろ」

 目を上げたアキラにも、前方から近づいてくる四人の人影が見えた。

「頭を下げろ、アキラ。やつら予定より二分ほど早く戻ったようだ」

「まだ最後までいってないよ」

 窓から見えないように頭を下げて、アキラは泣きそうな声を出した。懸命に伝えられたコマンドを打ち込むが、焦ってキーを打ち間違えては何度も戻る。

「おい、もう入ってくるぞ。コマンドは全部聞いたね」

「あと単語ふたつなんだけど……」焦るほど、打ち間違えが多くなる。

「ダメだ、間に合わない」

 そう言うより早くコンソールの上から飛び降りたリスは、矢のように出口から飛び出した。

「おおっ、なんだこれはっ」

 出口のすぐ向こう側で声がする。コウスケが時間をかせいでくれている。そのことを理解して、ようやくアキラの腹が据わった。

 大きく息を吸って、頭の中から周囲を締め出す。この程度のミッションは、ゲームではいやと言うほどこなしてきたじゃないか。そう考えると、絶対できそうな気がした。

 画面の中だけに集中し、残りの文字を打ち込む。今度は間違うことなく入力したアキラは、最後にエンターキーを押した。画面を元に戻し、コンソールの箱の蓋を閉める。

 急いで出口に走ったアキラは、入って来ようとした大男と鉢合わせしてひっくり返りそうになった。大男はアキラよりも、さっきのリスが気になっているようで、後ろから続いてきた兵士に話しかけている。

「あれはなんだったんだ。あんなものは見たことがないぞ」

 これがタカハラか。アキラはそう思いながら、後ろへ下がって大男を通した。そのいかつい体は、さらにアップグレードしたように膨れ上がっている。その後ろから戦闘服を着た三人の兵士が続いて入ってきた。大男がアキラの方を向いた。

「こんなところで、なにをしているんだ?」

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