第13話 怪しいミスターブラウン

 昨夜は早く自宅に戻りぐっすり睡眠を取った貴島は、いつもよりも早く目が覚めた。ベッドの中で今後のことを考えていると、すっかり頭が冴えてしまった。そうなるともうじっとしてはいられない。起き出して着替えを済ませると、手早く朝食を作る。作ると言ってもコーヒーを入れ、コーンフレークに牛乳をかけるだけだ。パンを焼くことも面倒で、このところ朝食はそんな感じに済ませている。

 食べ終わってもまだいつもの起床時間よりも早かった。しかもこの日は出社する必要もなく、ゆっくりと朝刊に目を通す。定期的に有給休暇を消化しなくてはいけないとの本社からのお達しで、不本意ながら貴島も従わざるを得なかった。例のIEとの契約を早く済ませるために、やらなくてはならないことは山ほどある。だから出勤はしないけれど、できる仕事を持って帰って自宅でするつもりだった。

 のんびりした朝のひと時を終え、仕事にかかろうとしていると携帯電話がなった。腹心の部下である吉沢からだった。科学者らしく常に論理的な彼女を、貴島は誰よりも信頼していた。

「朝早く、申し訳ございません。実は大至急所長に報告すべきことがあるんです」

「もう起きていたから大丈夫だ。大至急の報告ってなんだね」

 いつもとは違うその雰囲気に、貴島は不安になる。

「IEのミスターブラウンのことなんですが……」

 そう切り出した吉沢は、いつになく歯切れが悪かった。

「ブラウンさんが、どうしたんだ」

 待ちきれずに貴島がそう尋ねると、その重い口から信じられない言葉が聞こえてきた。

「ジェンソン・ブラウンというのは偽名だと思われます」

「えっ」

 その一言しか出てこない貴島の耳に、吉沢の冷たい声が続いた。

「実は興信所に彼の調査を依頼していたのですが、その結果が昨夜届きました。以前お会いした時の話しでは、出身はカンタベリーとのことでしたが、彼はイングランドとはなんの関係もありません。本名はニコライ・セルゲイ・プルシェンコ。ロシア人です」

「どうして偽名なんかを使う必要があるんだね。それにロシア人だなんて」

 にわかには信じがたい話だが、もし本当ならこれはなにか相当面倒なことになるのではないか。急速に膨れ上がる嫌な予感に、貴島は胸が苦しくなってきた。

「どうして偽名を使っているのか、詳細はまだ調査中ですが、もしかしたら今回の話は、根本から見直す必要があるのではないでしょうか」

「契約を解除しろと言うのか?」

「最悪の場合、そうすることが最善の選択となるかもしれません。IEのホームページを見てもまったく新しいFPSという大雑把な説明があるだけで、このところは一カ月ほども更新されていないのです。まだ詳しい確認は取れておりませんが、もしかするとインテグレート・エクスペリエンスなどという会社自体が実在しないのかもしれません」

 大手コングロマリットの一事業として発足したこの研究所は、もう六年経つがまだはっきりした結果を残せていない。しかし社長はその投資の意味を十分理解してくれており、すでにこの研究によるパテントはいくつも取得している。ようやくここにきて、その研究成果を実用段階にまで持っていくことができた。そしてそれが巨額の収益をもたらそうとしている。今回のIEとの契約は、なんとしても成功させたかった。もしこの話がつぶれるようなことがあれば、この研究所への投資に賛同していない一部本社の人間がこの事業からの撤退を言い出しかねない。

「システムはもう完成間近なんだぞ。予定より少し遅れてはいるが、もう引き渡してもいいくらいなんだ」

 吉沢は毅然として断言した。

「だめです。まだ引き渡してはいけません。予定が遅れていることが、わたしたちにとっては幸いでしょう。引き続きIEの調査を依頼していますので、そのことがはっきりするまで引き伸ばさなくてはいけません」

「しかしIEが実在しないって、どういうことなんだ」

「ミスターブラウンに頼まれて、先月カリフォルニアのIE社にCVRSのインターフェイス端末を三台航空便で送りました」

「ああ、こちらとしては完成品でなければ動作の保証はできないと断り続けていたものの、テスト用にどうしても必要だからと言われたんだ。契約金の前払いも受け取ったし、使用時は必ずこちらと連携するという条件付きで許可したな」

「しかし追跡すると、その荷物は転送されたようなのです」

「じゃあ端末はロシアに行ったのか」

「いいえ、行き先は上海です。とにかくそこまでの詳しい調査報告書が手元にあります。もしよろしければ、それを持っていまから所長のお宅にお伺いしてもいいでしょうか」

「ああ、そうしてくれ」

「白井室長には少し遅れると連絡してありますので、出勤前にお伺いさせていただきます。三十分以内に着くと思いますので、宜しくお願いします」

 そう言って吉沢からの電話は切れた。いまさらすべてを見直すと言われても、なにをどうすればいいのかわからずにただ呆然としながらも、貴島は吉沢を助手にしたことを本当によかったと思った。優柔不断で、すぐに全体のバランスを見失う貴島を、吉沢はいつも支えてくれた。彼女は貴島の最も信頼する部下であり、また実際に最も有能であった。VRLにその居場所を得て整った環境で研究に集中した彼女は、その才能をメキメキと発揮していた。学会が注目する論文をいくつも発表し、いまやAI研究の分野で彼女の名を知らない者はいなかった。

 ぼんやりそんなことを考えていると、また携帯電話が鳴った。

「おはようございます。インテグレート・エクスペリエンスのブラウンです。貴島さん、こんなに朝早くから申し訳ございません」

 たったいま噂をしていたその本人からの電話に、貴島は内心どうしたらいいのかわからなくなるが、なんとか平静を装うことはできた。

「おはようございます。どうかされましたか」

 毎日のように完成を急かされている貴島は、早朝の電話に少し気分を害しながらも愛想よく答えた。なにしろ納期に遅れているのは自分の責任なのだ。

「例のプログラムですが、一体いつになったら完成するのですか。こちらとしては、いますぐにでも引き渡していただきたいのです」

 いきなり本題に入ったブラウンにそう詰め詰め寄られてさらに焦る貴島だったが、その彼の態度はいつもの紳士的なブラウンとはまったく違う。彼の方が自分よりも焦っているのではないだろうか。

 百九十近くあるだろう大柄な体は、アスリートのように引き締まっている。軽くウエーブした薄い金色の髪にブルーの瞳。そう言われてみればロシア人のように見える気もするが、なにも聞いていなければ外見で判断できるものではない。カリフォルニアに実在しないIEのことを問(と)い質(ただ)したかったが、それは吉沢の詳しい調査報告を待ってからの方がいいだろう。いま中途半端に動くと、こちらの手の内をさらすことになりかねない。

「もう少しです。実際に人を入れてPMSを実行させ、AIとの動作確認を予定しています」

 貴島はそう答えたが、ブラウンは満足しなかった。

「あなたも科学者なら、もっと正確な表現をしてください。もう少しって、どのくらいの時間なんですか? あと六時間なのか、十二時間なのか、それとも二十四時間なのか、現状から計算して、具体的な数字を出してください」

「まあ、落ち着いてください」鷹揚にそう応えようとした貴島だったが、それはまる命令するかのような響きを持っていた。「どうしてそんなに、急ぐんですか。あなた方にしても、不完全な状態で引き渡されることは望んでいないはずです。システムそのものが完全でなければPMSの動作保証はできませんし、非常時の安全性に関しても問題が残ることになるでしょう」

「非常時のことなんて、どうでもいいんだ」大声と共に、テーブルでも叩くような音が響いた。「貴島さん、確かに最終納期を三ヶ月も短縮したのは、我々の方です。しかしあなたはその依頼を了承したではありませんか。その期日は昨日だったんですよ。試作段階でもかまわないのです。いますぐにでも引き渡していただかなくては、こちらの準備が整わなくなります」

「準備って、なんです?」ひきつった貴島の声は、まるで怒気を帯びているかのようだった。「これは新型VRを使ったゲームソフトの販売と聞いていますが、IEのホームページにはまだ正式な発売日のアナウンスもありません。その辺りはどういう計画になっているのでしょうか?」

 明らかに不満な空気が電話の向こうに感じられる。

「それはこちらの仕事であり、そこまであなたに説明する義務はありません。あなたは契約通り、早急にこの装置とプログラムを引き渡してくれればいいのです」

 もう貴島も穏やかに会話をしようとはしなかった。交渉の場において、両者の不満がぶつかり合うことは避けなければならなかったが、天才的科学者ではあっても優れた交渉人ではない貴島に、それは無理なことであった。

「ご存知のように、このシステムは脳神経と電気的に直接つながるものです。万が一にも不具合が出れば、単なるリコールではすみません。大げさな話ではなく、人の命にかかわることなのです。最悪の事態が起これば、おそろしく高額な賠償が発生するでしょう」

 ブラウンは舌打ちをして貴島をさえぎった。

「そんなことはわかっています。ただこちらとしてもスケジュールがあるのです。それに間に合わせてもらわなければ、意味がないのです」

 納期を越えてしまっているのは、確かにこちらの手落ちだろう。しかしあと少し、確認してからでないと、完成とは言えない。それにそれ以上の理由も、こちらにはあるんだからな。貴島は頭の中でそう考え、なんとか引き伸ばしに応じてもらうべく努力を続ける。

「CVRSのインターフェイス端末は、もう三台も送ってあるじゃないですか。こちらと連携しながらそれを使えばテストくらいは十分にできるわけだし、それで準備を整えてもらうことはできないでしょうか」

 今度は急にトーンを落としたブラウンは、ため息をついてなにか言おうとしたが、その時、どこかで電話の呼び出し音が響いた。ちょっと失礼と言って、会話を中断したブラウンはその電話に出たようだ。部屋の固定電話が鳴ったのか、それとも携帯を複数所持しているのだろうか。かすかなその会話が、貴島の耳にも届いた。

「ああ、それは聞いている。だからいまその交渉のために、VRLの所長と話しているところだ。すぐにでも引き渡して欲しいと頼んでいる。なんとしてもこちらの要求を飲んでもらおうと……」

 遠くで響くブラウンの声が途切れる。そしてさらに切迫感を増して聞こえてきた。

「ちょっと待ってくれ。いまその責任者の貴島さんと話をしているんだ。わかっている。だから、すぐに引き渡してほしいと要求しているところだ。いや、待ってくれ。おい、デン、デンイーシャ……」

 いよいよ具合の悪いことにでもなったのだろうか。その声を聞きながら、貴島の不安はどんどん膨らんだ。電話を切ったブラウンが、慌てた様子で貴島の電話に戻った。

「貴島さん、申し訳ないが、すぐに出かけなくてはならない。今後のことはまた改めて連絡させていただきますが、ひとまず失礼します」

そしてその電話は切れた。なにがどうなったのか、聞くこともできずに、貴島はただそのまま、また独り呆然とした。そういえば、電話の最後にブラウンはなんと言ったんだ。あれは中国語ではなかったか。電話の相手は、上海なのだろうか。不安はますます大きくなっていくばかりだ。


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