第11話 ノルドシュライフェ

 ピットの周囲には、どこまでも続く深い緑の森。その上に広がる青空に、アキラは心が浮き立った。VRでこんな体験ができるなら、旅行代理店はつぶれるだろうな。しかしこのサーキットは、もしかして……。

 そんなことを考えていたアキラは、背後から声をかけられて振り向いた。そして跳び上がるほど驚いた。

 すぐ後ろに、身長が2メートルはある筋骨隆々としたソルジャーが立っていた。とっさに身を屈めるようにして一歩下がったアキラに、その戦闘服姿のマッチョは笑いながら両手をあげた。

「おいおい、落ち着いてくれよ」体つきこそいかついが、やさしいその表情にアキラの警戒心が緩む。

「だれだ?」アキラが誰何すると、その巨体に似合わないおどけた仕草で敬礼した。

「第三歩兵師団上等兵、サクマコウスケであります」

「サクマコウスケって……」

そのソルジャーの名前が、頭の中に存在する名前と一致するのに、しばしの時間を要した。そう言えばコウスケが参加するって、タカハラさんが言っていたな。

「あなた、コウスケなの?」

「そう、迎えに来たんだ。ボクの方が先に試験を受けてね。ここはクリアしたんで、この先は力を合わせてステージをクリアするようにって話だ」そう言いながらコウスケは、左耳にはめたイヤホンを指した。「ほら、これでタカハラさんから指示がくるんだ」

「いつの間に、そんな話になっていたんだ?」

「いいんだよ。合格したら、チームで動くこともあるそうだから、ここからは協力していけってことだ」

「そうなの? でもなんでそんなアバター被ってるんだよ」

 ようやく事態がのみ込めてはきたものの、目の前のシュワルツェネッガーのような兵士が実際にコウスケの姿のわけがない。

「これはまぁ、趣味の問題だな」

「コウスケって、意外と悪趣味だな」

 どこか釈然としないまま、アキラはそう言った。

「アキラこそ、それじゃあまったくリアル・アキラじゃないか」

「その方がいいだろう?」

 そう応えながら、小さな疑問が頭を掠める。アバターは選択せず、そのままの姿で入っている。コウスケはどこでわたしの姿を見たのだろうか。

「こっちだ」

 スタスタと歩き出す兵士の後を、小首を傾げながらアキラはついて行った。


 おだやかな日差しを浴びて、ピットの前に一台のスポーツカーが佇んでいる。アキラは目を輝かせてそのクルマに近づいた。

 日産GT―R。

 フロントからリアまでなめるように眺めたアキラは、伝統の丸型四灯テールランプを撫でながら聞いた。

「何年モデルかな」

「二〇〇七年、初期型だよ」

「じゃあ四八〇馬力か」

 いまからこのクルマをドライブするのかと思うと、期待で胸がいっぱいになり、その十倍もの不安に圧しつぶされそうになる。

 3.8リッターV型六気筒エンジンの四輪駆動。エンジンはフロントにあるが、クラッチ、トランスミッション、トランスファーまでを車両後方に配置するトランスアクスルにより重量配分は最適化され、1.7トンもある車重がデメリットだけではなく、四輪を路面に圧しつけ高いトラクションをもたらすように作用している。

「試験はこのニュルのタイムアタックだ」

 コウスケの言葉に、アキラは一気に緊張する。

「ニュルって、やっぱりあのニュルブルクなの?」

「もちろんオールドコース、北コース(ノルドシュライフェ)だ」

オイルと融けたタイヤの匂いを、ルーフの向こうに広がるアイフェルの空気ごと吸い込むように、アキラは深呼吸した。せめて南側のグランプリコースならよかったのに。一周五キロちょっと、F1も開催できるから安全面も十分配慮されている。しかしノルドシュライフェはまったく違う。全長が二十キロを超え、高低差は三百メートル。コース幅は狭く、路面のうねりや、車体が完全に浮いてしまうジャンピング・スポットまである。ここを昔はF1も走っていたが、あまりに危険なのでやらなくなった。いまでは世界中の自動車メーカーが、車両開発に使っている。

 ここを走るのか。そう思ったアキラは、全身が緊張にこわばっていくのがわかった。不安そうな目のアキラを、コウスケは面白がっているようだ。

「ここでアキラの動きを見るのと同時に、システムとのシンクロが図られるそうだ。ミッション内容は、アウトラップも含めて3周以内に八分を切ることだ。ピットスタートの1周目はタイム計測されないから、実質2周目と3周目の2ラップしかない。でもこのクルマなら八分は不可能じゃない。慣れた人なら余裕のタイムだよ」

「わたしは慣れてないよ」

 GT―Rのテストドライバーを務めた鈴木利男さんは、このコースで七分二十九秒台を記録し、その後もタイムを縮めている。しかし彼は超一流のレーシングドライバーだ。アキラは不安と不満の入り混じった表情でコウスケを見た。

「大丈夫だよ。このコースは走ったことあるんだろ?」

 からかうような表情をコウスケがそう返す。

「VRじゃなくて、普通のゲームではね。でもいまは現実と区別がつかないくらいリアルなんだから、実際にサーキットなんて走ったことのないわたしには荷が重過ぎるよ」

 アキラの泣き言を、コウスケはずっとほほ笑みながら受け止めた。

「アキラだったら絶対大丈夫だって。現実でもパブリックの日には、一般の人が自分の車やレンタカーで走っているんだから。それにボクが隣りでコースのナビをしてやるんだからね。さぁ乗った乗った」

 ここで止めるわけにもいかないことは、アキラにもわかっていた。だからドアを開けると、ドライバーズシートに腰を下ろす。そしてため息をひとつついて、ステアリングを握ると前をにらんだ。

 そうだ、コウスケはわたしの先生だ。そのコウスケが横にいれば、大丈夫かもしれない。アキラはそう思うことにした。いままで何度も、オンラインで一緒に走った。一緒に走る時、多くはボイスチャットで話しながら、そこそこのペースで走るとことが多かったけれど、時には真剣に全開で勝負することもあった。

 射撃の腕は互角だったが、ドライブに関してコウスケは、アキラより上だった。アキラも昔からレースゲームをこなしてきたが、ゲームをクリアすることはできても、それ以上のものではなかった。アキラが実際にクルマに興味を持ち始めたのは高校を卒業して免許を取ってからのことだが、コウスケは子供の頃からのクルマ好きだそうで、その知識は相当深かった。それ以上になれないのはね、チャットを通して話したそのコウスケの声を、アキラは思い出していた。クルマのドライブはゲームと言えども、はっきりと理論を反映するものなんだ。反射神経だけじゃ、それ以上になるのはむずかしいよ。そしてコウスケは教えてくれた。

 ハンドルを切ったほど車が曲がらないアンダーステア。切った以上に曲がってしまうオーバーステア。そんなクルマの動きは摩擦円の理論で説明できる。クルマはタイヤのグリップを無視して走れない。加速も減速もコーナリングも、すべてタイヤと路面の摩擦がなければ行えない。常にその物理を、フリクション・サークルにあてはめて意識することで、クルマの動きを理解できる。そしてその結果、より確実に、より速く走ることができる。

 そのコウスケが隣りにいれば、きっと大丈夫だ。アキラはそう自分に言い聞かせて、心を落ち着かせようとした。しかしそれが化け物のような体格のソルジャーだから、アキラは一向に落ち着かない。ポジションを合わせると、シートベルトを締める。サイドシートにはコウスケが同じようにベルトを締め終え、ゆったりとくつろいだ表情で座っている。アキラの視線を受けて、コウスケがうなずいた。

 ブレーキを踏んで、シフトレバーをMレンジにいれる。右パドルを引きギアを一速に。サイドブレーキをリリースして、ブレーキにのせていた右足をゆっくりと離す。足元にはアクセルとブレーキしかなく、クラッチペダルはない。ツーペダルのGT―Rなら左足ブレーキの方が速いのかもしれなかったが、現実世界ではオートマチック車に乗る時も、右足でブレーキ操作をした。一度だけ何気なく試したことがあったが、いつも乗っているマニュアル車のクラッチ操作に慣れた左足が、無意識のうちに一気にブレーキを踏み込んでしまい冷や汗をかいたことがあった。後続車がなかったからよかったが、それ以来アキラは左足でブレーキを踏んだことがない。それをいま試すにはリスクが大き過ぎる。

 狭いピットロードを抜けると、1コーナーの右手からコースに合流する。ギアは2速、軽く開けていたアクセルを何気なく踏み込む。フルスロットルにはしていないつもりだったが、それでも次のコーナーへ向かう下りを、GT―Rは恐ろしい加速でぶっ飛んだ、ようにアキラには感じられた。

 猛烈な加速に、とっさにアクセルから足を離す。今度は急激なエンジンブレーキに前のめりになる。心臓の鼓動はレッドゾーンに飛び込み、アドレナリンが一気に放出される。パドルを引いてギアを3速に送り込み、アクセルをコントロールして姿勢を落ち着かせたアキラは、大きく息を吐いた。

「OK、ゆっくりいこう。どうせ1周目はタイム計測されない。コースとクルマの様子を見るんだ。いいね」

 コウスケにそう言われて、アキラの緊張が少しだけ解ける。

 次の左は少しきついよ。そこの縁石にはのらないで。この先ジャンピング・スポットがあるからね。コウスケは静かな声で、次々迫るコースを説明していく。もちろん走り込んだこのコースは、すっかり頭に入っているけれど、信頼できるその声を聞きながら走ることで、アキラの心は落ち着きを取り戻し、自分のペースをつかむことができた。

 しかしすぐに、その信頼が小さな疑問となる事態が起きた。ひとつ目のジャンピング・スポットから高速右コーナーをきれいにこなし、フルークプラッツを全開で左側の縁石を掠めながら速度を上げていく。ここまであまりにうまく走れたために、ゆっくりペースを上げるつもりが少し調子に乗ったか。5km看板の先ブラインドの左コーナー、シュヴェーデンクロイツに突っ込み過ぎる。慌てて踏んだブレーキに左ステアが重なりリアがブレイク。無意識にカウンターを当てたはいいが、ステアの戻し遅れにお釣りをもらい、すぐ右側のガードレールが迫る。狭いエスケープゾーンに飛び出しながらも渾身のコントロールでなんとかクラッシュは免れる。芝の上を滑りながらコースに復帰。アーレムベルクの右コーナーまでにギリギリで車速を落とした。

さすがに二〇〇キロオーバーでこの挙動は、コウスケも肝を冷やしたようだ。隣りを見ると、口をパクパクさせているが言葉が出てこない。本心を言えば、アキラもここでクルマを降りたくなったが、そうもいかずにドライブを続ける。そのまま谷底に落ちていくようなフックスレーレを、ハーフスロットルの四輪駆動車は教官を横に乗せた教習車のようにおとなしく進む。

「摩擦円の理論が、なかなか体得できなくてね」

 ボトムから上りに転じたコースをアーデナウの森に向かって穏やかに加速しながら、アキラが弁解した。するとコウスケが妙な返答をした。

「なんの理論か知らないけど、まだ1周目なんだからな。無暗に飛ばしすぎないでくれよ」

 その反応に、アキラの右足の力がさらに緩む。森を抜け開けた直線になっても加速は控えめなまま、チラッとコウスケの顔を見るが冗談ではないようだ。

「フリクション・サークルだよ」

 不意に胸騒ぎのようなものを感じて、もう一度繰り返してみる。しかし先ほどのショックを静めるように深呼吸しているコウスケの目は、その言葉を理解しているようには見えなかった。

 タイヤは常に路面と接し、そこに発生する摩擦によって車は走り、曲がり、止まることができる。その摩擦をひとつの円の中に考えると、その円を越えた摩擦力は路面に伝えることができない。走っている車が減速する時、円の下方に摩擦のベクトルが発生する。そのベクトルが円から出たとすると、タイヤは摩擦の限界を超え、スリップしてしまう。最高の減速Gを発生させるには、そのベクトルの先端が摩擦円の円周を指さなくてはいけない。そして減速に100パーセント摩擦を使ったとすると、ハンドルを切っても車は曲がらない。曲がりたければ減速側に使った摩擦を減らし、たとえば70パーセントにすれば残る30パーセント分の摩擦力は、旋回のために使うことができる。そしてこの摩擦円は、車の荷重移動によって常に変化している。上り坂やアクセルを踏んだ時は後輪の円が大きくなり、下り勾配もしくはブレーキを踏めば前輪の円が大きくなる。車のドライブの基本は、タイヤの発生する摩擦力をフリクション・サークルに当てはめて、その中でいかにうまく使ってやるかだ。そうコウスケは説明した。

 ますますアクセルを踏み込む力が抜けるのが自分でもわかった。運転に集中できない。摩擦円の理論は、もっとも理解すべきドライビングの基本だ。そう言ったのはコウスケなのだ。その彼がその言葉を知らないとはどういうことだ?

 すっかり落ちたペースのまま、若葉マークがドライブしているようなGT―Rが、世界一の難コースを安全に走っていく。ニキ・ラウダが死にかけた高速左コーナー先のベルクヴェルクを過ぎても戻らないペースに、コ・ドラがしびれを切らせた。

「もう少し飛ばしたっていいんだぜ。ここにはクルクルパーはいないんだからな」

「なんだよ、クルクルパーって?」

「赤色灯をクルクル回すパトカーのことだよ」

 フッと鼻で笑ったアキラだったが、小さな疑問はさらに大きくなっていった。コウスケの口からこんなくだらない冗談は聞いたことがない。

 こいつ、本当にコウスケなのか?

 そんな疑問を抱いていたアキラだったが、長く険しいニュルのコースはいつしかその疑念を忘れさせてくれた。この仮想の世界の中で、アキラは確実にGT―Rの挙動を感じ取っていた。ゆっくりと少しずつペースを上げる。いくら本物のように感じられても、ここは仮想現実の世界だ。もしクラッシュしてしまっても、怪我ひとつするわけではない。そう思って緊張の解けたアキラは、やがてデッティンガーの丘を越えて二キロもある直線に入るともう考えることも忘れていた。ただクルマから伝わるその挙動を、全身で受け止めていた。

 最終コーナーを抜けて、コントロール・ラインを超える。アタック・ラップだ。アキラは集中していた。コウスケはずっとコ・ドラの役目を果たしていたが、それは不要だった。コースはすっかり、その頭の中にあった。大柄なはずのGT―Rのボディが、身体にまとうように感じられる。ドライビング・シミュレーターと言われるゲームソフトで走り込んだ経験は、このリアルなVRの世界でも通用した。と言うか、その経験がなければ、手も足も出なかっただろう。

「七分五十六秒二!」コウスケの声が響いた。タイヤを軋ませて1コーナーを抜けたアキラは、さらなるタイムアップを目指して、アクセルを踏み込んだ。

「もういい、もういい」コウスケが下に向けた右の掌を、アキラの前で上から下に振った。ペースを落とせと言っているのだ。理解したアキラがアクセルを緩めてサイドシートを見ると、コウスケが満足した顔でうなずいた。

「合格だ。もう飛ばさなくていい」

 頬を伝う汗を感じて、アキラはパワーウインドウのスイッチを押して窓を下げた。集中を解いたその額に、涼しい風が心地よく流れ、前髪が揺れる。緑(グリーン)の(・)地獄(ヘル)と言われる森の中をゆっくり流しながら、サーキットを走るのにヘルメットもかぶっていなかったことに気づく。しかしすぐにここがVRの中であることを思い出して、アキラは一人苦笑した。その笑みの中には、あきれるほど完璧に感じられる、この仮想現実に対する感想も含まれていた。


 ゆっくりとピットロードに乗り入れ、もとあった場所にGT―Rを停めた。

「お疲れ。上出来だよ」

コウスケがシートベルトを外しながら笑いかける。

「お疲れさま。ありがとう」

 アキラも同じようにベルトを外しながら、小さく首をひねった。もしかして、これがコウスケって人なのかしら。いらく以前からの友達だと思っても、実際には直接会ったこともない、その程度の仲なのだ。

 思い過ごしだったのだろうか。しかしどう考えても、あのフリクション・サークルだけは腑に落ちない。そう思いながら車から外に出た直後、その疑念が確信に変わった。

「ところでアキラは、現実世界でなにかクルマには乗ってるの?」

 すぐには答えず、その目の奥をのぞき込んだアキラは、ややあってこう答えた。

「ペーパードライバーだよ。ゲームでは毎日のように乗っているけれど」

「じゃあ、あんなに運転がうまかったのは、ゲームのおかげだな」

 こいつはコウスケじゃない。

 中古で買ったNAを下取りに出して、この間NDを買ったことは伝えてあったし、時々は峠に走りにいくことも話していた。だからアキラはゲームの中でもその車を選んで乗ることが多かったし、クルマの好きなコウスケとも何度もその話をしている。

 こいつは一体、誰だ?

 そう考えながらドアを閉め、その目の前のジャパニーズ・スーパーカーを眺めていると、いつの間にかその後輪の辺りにちょこちょこと、リスが走ってきた。

 なんとこのVRは、ここまで芸が細かいものか。アキラが感心していると、そのリスはアキラを見上げて、ピョンピョンとジャンプを続けている。まるでなにか伝えることでもあるかのように。

 不思議に思ったアキラが、そのリスをじっと見ていると、かすかになにか聞こえた気がした。身をかがめたアキラの耳に、その声は聞こえてきた。

「アキラ、ぼくだよ」


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