第10話 早朝のVRL

 早朝の仮想現実研究所の一室。入り口のドアにはVRルームと書かれている。薄暗い室内には大型のマッサージチェアのようなシートが三台並び、それぞれのシートの横には何本ものケーブルが繋がったヘルメットのようなものが置かれている。その後ろで計器を操作していた高原が振り向いた。

「準備完了です、朝永さん」そう言いながら腕時計を見ると、かすかに首をひねった。「あと三十分で約束の時間だけど、あの子は寝坊せずに来るかな」

「先ほどモーニングコールをしましたが、もう起きてましたよ」

 眠そうな目を擦りながら、朝永はそう答えた。

「悪いね、こんなに朝早くから手伝ってもらって」

「いえ、それは構わないんですが、所長のお休みの時に、本当にわたしたちだけで大丈夫なんでしょうか」

 その目に不安と疑問の色を浮かべた朝永にそう聞かれた高原は、また取ってつけたような笑顔を浮かべた。

「このテスト内容は何度も所長とも話し合って決めたことだし、早急にPMSの出来を確認するように言われているから、なにも心配はいらないんだよ」

 そう言われても、朝永の表情は晴れなかった。

「パーソナル・メモリー・サプレッションって、個人記憶抑制プログラムですよね。まだPMSは完成していないって、吉沢さんはそうおっしゃっていましたが」

「ああ、そうだよ。でも個人記憶を抑制した状態でテストを完了することが、IEの引き渡し条件なんだ。事務職の朝永さんは知らなくて当然だけど、実際もう何度もテストは行われてきたんだ。でもそれは所内の人間によるものばかりだったから、ここで外部の人間を使って正式なテストをする必要があるんだよ」

 さえない表情のまま、朝永はうなずいた。

「確かにこの間からIEのブラウンさんから何度も電話があって、完成を急かされていることは感じていました。でもCVRSの開発者である貴島所長のいない時に部外者を使ってテストを敢行して、万が一の時が心配なんです。しかも高原さんの助手がこのわたしだけだなんて……。あと二時間もすれば吉沢さんも他の人たちも出勤して来るし、もう少し遅い時間ではいけなかったのでしょうか」

「テスターはまったくの素人だけど、ボクがずっと監視しているし、さらにそのサブに朝永さんがいてくれるんだから、万が一があったところでプログラムを止めることくらいなんの問題もなく行えるよ。それにもしテストが予定通りに進まなかった時のために、少しでも早めに始めなくてはいけないんだよ。それは昨日も説明して、きみも納得してくれたじゃないか」

 諦めたように朝永は小さく頷くと、目の前の仕事に取り組むことにした。

「わかりました。ではもう一度、これからの予定を確認させてください。入ったらまずドライブシミュレーター。そこでリンクが九十五以上あることを確認して、戦場に移るんですね」

「そう。移行と同時に、PMSを作動させる」

「そう言えば、CVRSの中には、一体だけ特別なAIがいるそうですね。吉沢さんが言ってました」

「ああ、ボクは反対したんだけどね。吉沢さんにどうしてもって言われて、所長が反対してくれるかと思ったら、逆にすっかり乗り気になってしまって」

「なにか問題でもあるんでしょうか」

 抑え込んだ不安をまた思い出したような顔の朝永に、高原は思わず舌打ちしそうになる。真面目なのはいいが、少しは要領よくやってもらわないと時間がかかって仕方ない。しかしなんとか平静な顔を保たせると、その説明を続けた。

「吉沢さんがずっと研究してきたテーマである強いAI、そのプログラムを同時にテストすることになっているんだ。それ以外のAIは与えられた目的に向かうだけで、簡単な会話はできるものの、それ以上の動作はできない。でもこの特別なAIは違うんだ。それはプレイヤーと日常レベルのコミュニケーションをとることができるから、ゲームの世界により自然な深みを与えることができる。彼女のプログラムは非常に面白いけど、同時にとても複雑で、すべてのAIをそのプログラムで動かすことは不可能だ。しかもまだ完成を見ていない上に、これが本当の意味で強いAIとして動くかどうかも未知数なんだ。さらにここがボトルネックとなって、システム全体の足を引っ張ってしまいかねないんだよ」

「それではそのAIの導入は、見送った方がよかったのではないでしょうか」

 チンパンジー程度の知能があれば、誰もがそう言うだろう。しかしこの研究所のトップのふたりがそう考えないのだから仕方ない。白井室長がもう少し自分に融和的であってくれればよかったのだが、ふたりの天才と違い現実的な室長はどこか冷めた目を持っているから距離を詰められなかった。そんなかすかな悔恨の念を振り切ると、高原は続けた。

「そうなんだけどね。それでも所長がそれを推し進めようとしたのは、いわゆるヒューマン・インターフェイスとして、今後開発されるあらゆる製品に活かすことができるだけじゃなくて、それ以上の可能性を秘めているからなんだ。もしかしたら、プログラムが人間を超える日がくるかもしれない。それはこんな研究をしていれば、誰もが持つ夢だよ。オンラインゲームにおいて多くのユーザーと直接やり取りをさせて、そのプログラムに学習させたいんだろう。なにもいま、それをしなくてもいいだろうと思うんだけどね」

「そのAIの存在が問題なわけですか」

「実際、AIが障害になっていることは事実だ。それによってシステム全体の足を引っ張り、もしかしたらPMSも不完全となるおそれがある。しかもこのAIのプログラムがあまりに複雑過ぎて、ボクには手が出せないんだ。でも大丈夫。実はこのテストには、もうひとりテスターを準備してあるんだ」

「えっ、初耳ですね。それは予定のスケジュールなんでしょうか」

 その点についてあまり突っ込まれたくない高原は、舌打ちしたい気分を作り笑いでごまかすと大きく手を振った。

「事前のスケジュールには入ってなかったけど、まったく問題ないよ。朝永さんなら知ってるよね、先日面接してくれた佐久間航佑くん。彼をサブとしてオンラインで待機させてるんだ。そしてもし上杉さんに体調不良とかなんらかのトラブルが出た場合、すぐにスタンバイさせてある佐久間くんに切り替えれば、そのままテストが続けられるようにしてあるんだ」

 首を傾げて考え込む朝永のその思考を遮るように、高原は勢いよく手を叩いた。

「さあ、もうすぐ上杉さんの来る時間だよ。まだ正面玄関は開いていないから、表まで迎えに行ってくれ。ボクは佐久間くんの方の準備をしておくからね」

 朝永が素直に従ってくれたので、高原はホッと胸を撫で下ろした。佐久間航佑をサブにあてがおうと考えたのはつい昨夜のことだった。連絡を取ってみると、彼は二つ返事でOKしてくれた。都合のいいことに彼のパソコンはかなり高性能なものであり、さらに市販のVRゴーグルも持っていた。当然彼の環境にCVRSの端末はないが、試しにこちらのプログラムと彼のパソコンをオンラインにしてみると、ゲームパッドを使って一人称視点で動き回ることができた。今回の計画は最悪、CVRSがなくても実行可能なはずだ。ただVR内で予定の行動が取れればそれでいい。つまりオンラインゲームができる環境があれば、なんとかなるだろう。

 そこまで動作確認して、高原は佐久間を予備として準備することを決めていた。万が一にも失敗することの許されない計画だ。念には念を入れて、代打を用意しておけば安心できる。それに友人がそばにいると思わせれば、上杉も不安や疑念を抱かずに、素直に動いてくれるだろう。

 もう一度段取りを頭の中で繰り返した高原は、佐久間航佑に連絡を取り、スタンバイさせた。すべての準備が整った時、ドアがノックされ朝永が戻って来た。

「上杉さんがいらっしゃいました」

「やあ、おはよう」

「おはようございます」

 朝永の後ろから入って来た晶が、少し緊張した顔で丁寧に頭を下げた。彼女をCVRS用シートに座らせると、端末を手にした高原がほほ笑んだ。

「それでは上杉さん。早速ですが、これからドライブシミュレーターソフトを使ったサーキット走行をしてもらいます。でもその前に、そこでのあなたの分身であるアバターを選択してください。そう、この間の体験版の時と同じだよ。仮想の世界なんだから、現実とはまったく違う姿かたちを選んでもらって大丈夫なんだよ。じゃあ朝永さん、アバターを決めたら上杉さんに入っていただこうと思いますので、システム室に行ってモニターをお願いします」

「はい、わかりました」

 朝永がVRルームを出ると、高原はその笑みをさらに深めながら続けた。

「実は今回の実験は、きみの友達の佐久間くんにも手伝ってもらうことになっているんだ」

「えっ、航佑も来ているんですか? なにも言ってなかったけれど……」

「いや、佐久間くんは別の場所からの参加となります。彼には事前にこのテストを受けてもらっているから、詳しくはCVRSの中で彼から説明をしてもらってください」

 それだけ言うと高原は多くは語らず、端末を晶の頭にかぶせた。


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