第8話 神社で神を否定

 バイト先のガソリンスタンドで、晶は古い軽自動車にワックスをかけていた。一意専心、一心不乱、本当に心を込めて丁寧に最高級のカルナバロウ・ワックスを塗り込む。その姿はガソリンを入れに立ち寄った客が、一様に目に止めるほどだった。その晶をガラス越しに見つめる、一人の年老いた男がいた。

 洗車からずっとその動きを眺めていたが、塗ったワックスの拭き上げが終わるころ、ゆっくりした動作で椅子から腰を上げると、少し左足を引きずるようにしててんとう虫と言われるその小さな軽自動車に近づいた。それに気づいた晶は顔を上げてほほ笑んだ。

「中島さん、もう少しで終わりますから」

 男は小さな丸っこいボディを撫でながら、満足そうにうなずいた。

「いつも、すまんな。できれば自分でしてやりたいんだが、なにしろこの身体だ。こんな老いぼれグルマをいつも丁寧に扱ってくれて、本当にありがとう」

 老人に頭を下げられて、晶は姿勢を正した。

「このクルマは日本のモータリゼーションに大きく貢献した名車です。こうやってさわらせてもらえるだけでも、幸せだと思っています」

 晶がそう言うと、中島はうれしそうな顔をしてまたうなずいた。

「なあ、晶ちゃん。今度こいつに乗ってみないかい?」

 そう言われて、あわてて首を振る晶。

「とんでもありません。わたしなんて単なるクルマ好きなだけで、知識も経験も全然ですから」

 中島は急にしんみりした顔になった。

「わしももういつお迎えが来てもいい歳だ。クルマは手を掛ければいくらでも長生きできるから、できれば晶ちゃんのような人がこいつをもらってくれたら、思い残すこともないんだがなぁ」

 同じ自動車マニアとして、それはなによりの言葉だった。

「本当にありがたいお言葉ですが、わたしにはすでにかわいい子がいるものですから……」

「ああ、そうだったな。あの子は晶ちゃんにお似合いだ」

「でももしよければ、一度ゆっくり見せていただけないですか。なにしろこのクルマは、機械遺産に認定された日本の宝ですからね」

 そう言われてまた中島の顔に明るさが戻った。

「ああ、いいとも。コンピュータ制御のいまのクルマと違って、わかりやすい仕掛けがいっぱいあるから、晶ちゃんなら楽しめるだろう」

 かわいらしい2サイクルのエンジン音を残して白煙とともに走り去る中島を見送った晶は、入れ替わりに入ってきたレクサスに給油ノズルを差し込むと、ダスターで窓を拭きながらふと思った。

 航佑の面接は、もう終わったかな。

 航佑が採用されて、もし一緒にゲームの開発ができるようになったとしたら、わたしたちはきっといい友達になれるだろう。直接会ったことはないけれど、航佑はすごくいい人のように感じる。以前、彼から一度会ってみないかと言われたことがあった。でもその時はその誘いを断ってしまった。またそのうちにね。そう答えると航佑は、残念そうな素振りもみせなかったし、それ以来その話を持ち出すこともなかった。人に対して相当気をつかっているようだ。航佑に会ってみたい気持ちもあるんだけれど、その先のことを考えるとつい尻込みしてしまう。だって期待よりも不安の方がずっと大きいのだから。いままでわたしの周りには、いい人なんていた例(ためし)がなかった。中島さんや、ここのスタンドのスタッフはいい人だろう。でも心から信頼できるかと言われれば、やはりそこには越えられない大きな溝がある。

 でも……、でも航佑は違う。そんな気がした。直接の付き合いもないのに不思議だけれど、彼だけはただの他人だと切り捨てられないなにかを感じる。

 晶はどうして自分がそう感じるのか、考えてみようとした。その時、自動停止ノズルがガソリンを感知し、カチリと音を立てて給油が止まった。

「ありがとうございましたぁ」スタンドから出て行くレクサスを見送ると、時計の針は五時を回っていた。晶は事務所に入ってタイムカードを押した。


 アルバイトを終えた晶は、少し遠回りをして時々行く神社へと、愛車のマツダ・ロードスターを走らせた。神社の駐車場に車を止め、ひと気ない夕暮れの境内を見回す。信心なんて言葉とは無縁の晶だったが、高校生のころに偶然ここに来て、なにか魅かれるものを感じて以来、時々この神社を訪れていた。広い静かな境内を歩いているだけで、雑念が整理されて心が落ち着いてくるのだった。

 石畳をゆっくりと歩きながら、晶はまた昨夜の夢を思い出していた。

 それにしても、続き物の夢なんて初めて見たな。

 それは何日か前に見た戦場の夢の続きたった。激しい戦闘はひとまず終わり、夕暮れとともに束の間の落ち着きが漂う戦場。そこでひとりの戦士と交わした不思議な会話。そのひと言ひと言が、深い意味のある箴言のように、いまも心に残っていた。そしてその会話の中でその戦士は、この世界を神が創ったと言った。

 神など信じていない自分が、どうしてそんな夢を見たのか。

 解けない疑問にまた首をひねりながら本殿の方に歩みを進めると、ガラガラッと鈴の音が響き、それに続いて柏手が聞こえた。若い母親に連れられた幼稚園くらいの男の子が、賽銭箱の前で手を合わせている。晶は少し離れたところから、その後ろ姿を眺めた。

 あの子はなにを願っているのだろう。

 殊勝に手を合わせている小さな子供。その姿はほほ笑ましくも思えたが、しかしその健気さは、晶にはどこかもの悲しく映った。

 神様などというなんの実体もない創られた幻想に、人はただ疑うこともなく、盲信することしかできない。本当に神様の存在を信じることができていれば、もっと気楽に生きられただろうか。ふとそう考えた晶の心の中に、また苦いものがこみあげてきた。

 応えてくれなかったのは、神様の方だ。

 小学一年の冬、晶の母親は風邪をこじらせ、三日と持たずにあっけなく他界した。泣いて神様にお祈りした日を、晶はいまも昨日のことのように思い出すことができた。その数日間、晶はろくに食べるものも食べずに祈り続けた。でも病気が治ることはなく、死んだ人間が生き返ることもなかった。

 いつの間にか、お参りを終えた親子はいなくなっていた。晶もお賽銭を入れて形だけ手を合わせたが、なにも願いはしなかった。そして考えごとをしながら、ブラブラと境内を歩いた。

 世の中の人間は誰も、自分のことで手一杯なんだ。自分以外の他人は、利用するための存在でしかない。どれだけ親しい付き合いも、それは自分にとってメリットがあるからに過ぎない。そのメリットがなくなれば、人はすぐに離れていく。結局、人間なんてそんなものだ。

 人間は狡猾で単純な、白痴に過ぎない。無邪気に神を信じ、その名の下に人を殺し、それこそが正義だと思い込むことができるパラノイアだ。

 いつもそんなふうに考えている晶だから、これまで誰とも親しく付き合ったことはなかったし、そうしたいと思ったこともなかった。

 晶の父親は常に厳しい人だった。一流会社のエリートで、いずれは取締役を目指す勢いで頑張り、実際その昇進も早かった。重役への階段をとんとん拍子に上り、晶が生まれた時には家のことはほとんど母親に任せきりだった。

 だからそれほど多く父親の思い出はなかったが、幼い頃から時々、剣道の有段者である父親に指導してもらっていた。頼んだわけでも望んだわけでもなく、ほとんど無理矢理だったが、それだけが父と娘のつながりであった。いつかは父を見返してやると、はっきりそう思っていたわけではない。それでも無意識に晶は、そうすることで父に近づくことができる気がしていた。道場には通わず、ただ独り黙々と父の教えを繰り返した。元々運動神経が抜群の晶は、いまや有段者並みの腕前に成長していた。

 一方、実の母親はやさしかった。死別は早くても、その短い時間に晶は母からたっぷり愛情を注がれて過ごすことができた。しかし後妻は継母の悪いイメージそのままの冷たい人間で、独立心の強い女だった。家庭的な性格ではなかったし、先を読む目も持っていたので、若いころから株でかなり稼いでいた。

 この継母の元に育った晶は、経済的にはなにひとつ不自由はしなかったが、彼女から本当の愛情を与えられることはなかった。学校から帰るといつも彼女の姿はなく、机の上にはあまるほどの小遣いがあった。毎日近所のコンビニで食べ物を買い、時々本屋で本を買って来ると、夜遅く継母が帰って来るまで晶は独りで過ごした。

 隣りに幼稚園のころからの幼なじみがいて、面倒見のいいその母親が時々晶を家に呼んでくれた。晶よりひとつ歳上の女の子とひとつ歳下の男の子のいるその隣家は、いつ行っても家庭的な温かさにあふれていた。

 しょっちゅうデパートで買って来た贈り物を届けているから、お隣りはあなたの世話をしてくれるのよ。仕事のために育児を放棄した継母はそう説明した。晶にはそれが本当かどうかわからなかったが、確かに以前はそんなに親しい付き合いがあったわけではなかったから、そうなのかもしれなかった。

 しかしいかにやさしく接してもらっても、そこで晶が感じるのは違和感だった。どれだけ楽しく過ごしても、自分だけは本当の家族ではないという疎外感だった。そしてその感覚は、成長してからもいつまでも晶につきまとい続けた。学校でも、バイト先でも、誰もが結局は他人でしかなかった。

 だからと言って、そこに不満があるわけではなかった。幼いころから晶は、なにか足りないと感じながら、いつしかその環境に慣れてしまった。そして人生とはそんなものだ、と考えるようになった。

 晶が小学五年の時に、継母は父親と離婚することになった。詳しい事情は知らされなかったが、知りたいとも思わなかった。そしてそのころから隣家との付き合いも減っていった。継母の贈り物がなくなったからかどうかはわからなかったが、それから一年ほどして隣家は転勤のために引っ越していった。

 また独りぼっちになった晶は、しかしさびしくはなかった。どうせ他人なんてそんなものだ。人間なんて、いずれは独りで死んでいくんだ。結局、誰もが別の人格であり、別の人生なんだから。

 なぜかそのころのことを思い出しながら晶は、いつものように何十も並び立つ鳥居をくぐり、その奥の社の前でまた手を合わせた。それからゆっくりと、神社の西のはずれまで歩いた。

 そこからは高台にある神社の下に広がる、夕日に染まる街並みが見えた。

 いつもこの夕日を見ると、どこかやさしい気持ちになることができた。そしてこれから自分の人生にも、なにかがあるように思えた。なぜそう思うのか、またそれがなんなのかはわからなかったが、この自分にも探し求めるべきなにかが、きっとあるような気がするのだった。

 多くを期待しても、その分落胆も大きくなることはわかっていた。だから人生になにかを求めることは、ほとんど無意識に避ける習慣がついていたけれど、この日はなぜかそのなにかが近くにあるように思えた。そして同時に、独りきりの侘しさが身に沁みるようにも感じられた。

 どうしてわたしはあの時、航佑にフレンド登録を許可したのだろう。宝石箱のようにキラキラと輝く街を見下ろしながら、晶はまた考えていた。確かにそれは、人間嫌いの自分にしては思い切った決断だった。ゲームも現実も、極力他人とはかかわらないようにしていた。だからいつもならほとんど考えることもなく通り過ぎてしまうはずなのに、あの時はどういうわけか、それが目に留まった。そしてそのまま無視してはいけないように感じられた。

 それはあの日以来、繰り返し思い浮かべる疑問であったが、その答えはいま感じているこの侘しさと、そしてあの探し求めるべきなにかと、どこかでつながっているのかもしれなかった。

 顔を上げた晶は、きれいな夕日に目を細めた。その夕焼け空を眺めながら、一度航佑に会ってみてはどうだろう、と思った。


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