オレは確かにお兄ちゃんだが、ご主人様ではない。

「さぁ着きましたよ奏斗くん! いいえご主人様! 私たちのマイハウス! 夢と希望に満ち溢れた新居! 夫婦別姓の私たちが合法的にいられる理想郷へ! 絶対に逃がしませんからね! 安心して私の所有物になってくださいねご主人様!」


 違うんだが?

 いや、ここは確かにオレの住まいであるマンションで、この声だけがめちゃくちゃ良い催眠音声クソ女が所有するマンションではあるけれども。


 それでも、私たちのマイハウスという訳ではないんだが?

 それから俺はご主人様じゃなくて、お兄ちゃんなんだが?


「……ちくしょう……! 安くて高性能すぎた事に疑問を持つべきだった……! 防音機能だとか水回りが余りにも良すぎて、所有者の頭がおかしい事に疑問視できなかった……!」


 因みに言っておくが、彼女はオレに対して催眠音声で命令した挙句の果てに、自身が所有するスマホでタクシーを呼び、そのタクシーにオレを担ぎ上げては乗り込んで、財布から出したブラックカードで会計を済ませて、オレをこの場所にまで拉致してきたのである。


 傍目から見れば、オレは彼女と自分の住まいに仲良く戻ってきたように感じ取れるのだろうけれど、断じて否だ。


 オレは、めちゃくちゃに美声で『しのぶ』そっくりな声を有するだけの金持ちの超絶美少女に拉致されたのだ。


「こんなところに居られるか! オレは実家の宮崎県に帰る!」


「……逃げちゃ駄目だよお兄ちゃん?」


「――く、ぁ……! あ、ぁ……! そうだ、オレはお兄ちゃん……! しのぶをたった1人に出来る訳なんて……絶対に出来ない……!」

 

「物分かりが悪いご主人様ですね、まぁ、私は貴方のそういうところが大好きなんですけどね」


 すごく意地の悪い笑顔を浮かべながら、強制的にお兄ちゃんにへとさせられて硬直してしまったオレの身体をつんつんと指でつついてくる彼女はまるで小悪魔……否、大悪魔だとか魔人だとか魔王だとか魔神の類のヤベーヤツだった。


「……オレは、オレは……! ご主人様なんか、じゃ、ない……! オレは、お兄ちゃんだ……!」


「……ふふ、どう足搔いても無駄ですのに。まだ足搔けると思っているんですか……? ご主人様は本当にかわいいですね……ふふっ……」


 やめろぉ……!

 しのぶのような声で、メスガキしのぶじゃない台詞を出すなぁ……!

 解釈違いだけど……耳が蕩けちゃう……!


「しのぶの生声を聞いて……オレの耳が……妊娠しちゃう……! オレ、お母さんになっちゃう……! やめろ……! オレはお兄ちゃんなんだ……! 母親なんかじゃないんだ……!」


「ふむ。ご主人様を母親にするプレイも……うへへ……。いえ、まずは夫婦っぽい事を致しましょう。赤ちゃんプレイよりも先にまず新婚ホヤホヤの新妻プレイからしましょうね?」


 すごく嬉しそうな笑顔を浮かべて、小さくガッツポーズをする彼女は良くも悪くも新入生代表挨拶をした彼女とは余りにもかけ離れ過ぎていた。


 今、目の前にいる彼女。

 今朝、始めて会った彼女。

 学校での彼女。


 ――そして、オレのマイラブリーマイエンジェルマイシスターにして、血の繋がった実在しない妹にして、エロASMRで活動している『しのぶ』。


 余りにも彼女が俺に見せてくる姿が多すぎて、一体どれが本当の彼女なのかが分からなくなりつつなっているのが現状である。


「さぁさぁ、私たちの家に帰りましょうご主人様?」


 彼女はそう言うと、俺の腕に自分の腕を絡ませては胸やら身体やらを俺に無理矢理に押しつけて、女性の感触という感触を無理矢理に体験させてくる。


「……へぇ? これでもまだ陥落しませんか。流石はご主人様ですね……!」


「違う……! オレはお兄ちゃんだ……!」


「確かに。せめて噂されるなら恋人の噂の方がいいですもんね……! 流石はご主人様……!」


「怖い事を言うのはやめろ……! オレは何があってもしのぶのお兄ちゃんだ……! しのぶのご主人様なんかじゃない……! オレは、どんな事があってもオレは! しのぶのお兄ちゃんだ!」


「本当に存在しない事実であろうと、それを人に信じさせることが出来ればそれは真実になるんですよね。……さぁ、一緒にエレベーターに入ろっか、お兄ちゃん?」


「入るー!」


「ふふっ……ご主人様はちょろいですね……」


「……っ⁉ そうだ……オレはお兄ちゃんだ! ご主人様なんかじゃない! やめろ! 勝手に動くなオレの足! 勝手にエレベーターのボタンを押すなオレの手! 勝手に閉まるなエレベーター! オレを誰だと思っている⁉ オレはしのぶのお兄ちゃんだぞ⁉」 


 そして、オレたちはエレベーターの中に入り込み、彼女は自分たちの部屋がある階数のボタンを――


 代わりに押されたのは最上階のボタン。

 彼女の真白な指が7Fのボタンを押したという事実に、オレは彼女が何を考えているのか一瞬分からなくなってしまった。


 稼働したエレベーターがゆっくりと動きだし、その際に生じる浮遊感がオレを一瞬だけ、本の一瞬だけ、ご主人様でも、お兄ちゃんでもなく、常陸奏斗という常識人に正気を取り戻させてくれたので、オレは彼女に思った事を素直に口にする。


「……オレと音無さんの部屋は3階のはずだが」


「おや、催眠が解けちゃいましたか。ですが、3階は私たちの部屋ではないでしょう?」


「は?」


「奏斗くんは知りませんか? ここの最上階は所有者専用のペントハウスになっているって」


「……いや、知ろうとすら思わなかった」


「という訳で、そこに参りましょう。そこが私の生活用の部屋ですので、着替え一式は全てそこに置いてあるのです。もちろん、奏斗くんの着替えも全てありますのでご安心くださいね」


 よくよく考えてみれば。

 彼女は音無株式会社の社長令嬢であり、ここのアパートを管理していると体育館倉庫で申告したばかりであった。


 であるのならば、彼女が最上階の1番に良い部屋にいるのは何らおかしい問題ではない……のだが。


「じゃあ、何でオレの隣の部屋に音無さんいたの?」


「偶々です。えぇ、偶々」


「へぇ、偶々」


 今まですらりすらりと進んでいた会話から一転して、急に会話が上手く運ばなくなったオレたちをよそに、エレベーターは至って順調に上へ上へと進んでいく。


 やはり、1階から最上階に向かうおかげか時間がかかる。

 もちろん、彼女という美少女が、この密室の中でオレのすぐ隣に控えているというのも理由の1つだろう。


 やけに、時間の流れが遅く感じた。


「えっと、正直に言いますとですね? 私、奏斗くんの隣の空き部屋を使ってASMRを作っていたんです」


「……なるほど。あそこの部屋はいわば音無さんのASMR専用の部屋という訳か」


「えぇ。空き部屋だったので有効活用させて頂きました」


「――ちょっと待て。じゃあ、俺のお隣さんは『しのぶ』って事なのか!?」


「え。えぇ、そうなる……のでしょうか?」


「待て……! そんなのって……! まるで! 本当の兄妹のようじゃないか! ありがとう音無さん! 俺の隣の部屋で『しのぶ』に命を吹き込んでくれて!」


 俺が勢い余って、彼女に思い切り近づく。

 彼女の身体が一瞬びくっ、と動いて。


「ち、近い……。近いですよ奏斗くん……」


「近い!? あぁ俺は余りにも近すぎた! だって、俺は『しのぶ』のファンであることを自覚していたが、当の本人がまさか俺の隣の部屋だっただなんてこれは運命か!? でも、俺はただのファンだから……! ファンが『しのぶ』に直に会ってしまったら尊みで蒸発するに決まっているだろうが!」


「えっと、もう直に会ってますよ……? 中の人ですよ、私……?」


「黙れ! しのぶに中の人なんていない! しのぶは実在する!」


「……うわぁ……自分から催眠にかかってるこの人……器用ですね……」


 そうこうしているうちに、ガタンとエレベーター内が止まる音が響き渡る。

 どうやら、なんだかんだで最上階についたらしい。

 目的地に辿り着いた事を教える音が軽快に響き、エレベーターの扉が勝手に開く。


「さ、着きましたよ。ほら奏斗くんも勝手に催眠にかかって暴走しないで早く早く。早く入って私の所有物になる最終調教を生で受けましょうね?」


 エレベーターのボタンを押して逃げ帰ろうとしたオレを、彼女は嬉しそうにオレのシャツの袖をくいくいと引いては物理的に抵抗できなくさせ、それでも必死になって逃げようとすれば『しのぶ』の声でオレに命令させられて、心身ともにお兄ちゃんにさせられてしまったオレは彼女が住処にしている領域に足を踏み入れてしまった。

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