聞け! オレはお兄ちゃんだぞ!
入学式での音無静香の新入生代表挨拶が終わり、オレたち新入生はようやく教室に戻り、これから教室内で行われる説明会の為のちょっとした休み時間を利用して、クラスメイトたちは近くの人間と親睦を深めるべく雑談に励んでいた。
新しいクラスというものは、いいものだ。
オレは一番前の席なので堂々と周囲を見渡す事は出来ないが、それでも背中越しに浮かれに浮かれまくっているクラスメイトたちの楽しそうな気配を感じ取る事は出来る。
……それはそれとして。
「……」
「……」
音無静香の視線が背中越しに刺さってくるのだが。
いや、なんで?
彼女は俺と真反対の位置……すなわち、一番後ろの席に座っているのである。
だというのに、彼女の凄い圧というか……視線が俺の背にびんびんと伝わってくるのである。
オレは一体何かしでかしてしまっただろうか?
やったとしても彼女のフェラ音を賞賛したぐらいで……うん、それだ。
オレは現実逃避をするべく、持ち込み可能なヘッドホンを鞄から引っ張り出して耳に装着し、スマホに録音されているデータを再生し、音を楽しむ。
そうした矢先に、隣の席に座っている女子生徒がヘッドホンをしているオレに気づいて貰う為なのか眼の前で手を振っていた。
「何か?」
オレがヘッドホンを耳から外しながらそう言うと、名前も知らない女子生徒が興味深そうにヘッドホンを眺めていた。
「凄いヘッドホンだね。キミどこ中?」
「宮崎県の中学校。上京してきたばっかなんだ」
「へぇ、宮崎県! チキン南蛮とかが有名なところだよね? ところでそのイヤホンで何聞いてたの?」
「何って……自然音?」
「へー。それ、私も聞いてもいい? 実は私もASMRとか興味あるんだ!」
「あぁ」
女子生徒の要望に対して、オレは断る理由もなかったので彼女にヘッドホンを手渡す。
……後ろから突き刺さってくる音無静香の視線が更に冷たい刀身のようなモノに変化したのは偶然だと信じたい。
オレがそうこうしている間に、俺の聞いていた音を鑑賞していたのであろう彼女がとんでもない量の冷や汗をかいて、捨てるような手付きでヘッドホンを取り外している事に気が付いた。
「……気持ち悪……こんなの聞いてるの……?」
と言いながら、侮蔑のような視線を俺に向けてきたではないか。
まぁ、うん。俺の聞いている内容はそこまで一般向けのモノではないのだ。
ASMRは基本的に人間の咀嚼音だとか、焚き火の音だとか、さざ波の音だとか、風が吹き抜ける音を楽しむのだが、当然ながら、それが気に食わない人間もいるのだ。
彼女がそちら側の人間でなかったことに内心でため息を吐きつつ、彼女の視線をなるべく無視しながら、俺は彼女からヘッドホンを受け取っては彼女との交友関係を断絶するかのようにヘッドホンで耳に蓋をし、更に音声情報を楽しむべく目を塞いで視界すらも根絶する。
お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん──。
「……幸せ……」
オレが作成した『しのぶがお兄ちゃんと言い続けるだけの環境音』。
彼女の声でお兄ちゃんと呼ばれるだけで、オレは幸せになれるのだ。
そんなこんなでオレは隣の人間が投げかける負の視線を思い切り無視して、『しのぶ』の声を楽しんでいた。
そんな最中に誰かが俺の肩を叩くような感覚がしたので、オレは反射的に背後を振り返り──頬に指が刺さるような触感を覚えた。
一体誰がこんな子供じみた悪戯をしたのかを確かめるべく、顔を向けてみると……そこには音無静香が立っていた。
まるで悪戯をしでかしたかのような子供を思わせるような笑みを浮かべながら、彼はオレの真後ろに立っていたのであった。
「……何か?」
オレは先ほどの女子生徒にやってみせたようにヘッドホンを外し、何もなかったかのような表情のまま、彼女に問いかけてみせる。
「それ、
「えぇ、おかげ様で」
「宜しければ、何を聞いているのか耳にしても?」
彼女がそう朗らかな笑顔を浮かべているのに対し、隣の席に座っている女子生徒の顔が青ざめているのが目に見て取れた。
「ちょ、ちょっと音無さん……!? やめておいた方がいいってば……! そいつ、ろくでもないの聞いているって! 気持ち悪いからやめなって! 頭おかしくなるよ⁉」
しかし、音無静香は女子生徒の静止を無視し、両手を花の形にしてオレの前に差し出してヘッドホンを渡してくれというアピールをしてみせたので、断る理由もなかったオレは彼女の両手にヘッドホンを渡した。
……普通に考えれば、これは一種の自殺行為だ。
だが、これなら間違いなく彼女が『しのぶ』であるか否かが自ずと判明する。
想像して欲しい。
ヘッドホンを装着したかと思えば、すぐに自分が収録した声が耳の中にいきなり入ってくるのである。
そんな事を突然されて無反応でいられる人間など果たしているだろうか。
「……ふむ。このヘッドホン、随分と年季が入っていますね。これがリリースされたのは確か去年の4月だった筈ですが……」
「1年間もの間、オレの耳になってくれた相棒だ」
「最高の讃辞ですね、とても嬉しいです。どうぞこれからも御贔屓下さいね?」
心からの賞賛からなのか、それともただの社交辞令なのか分からないが、彼女はそう言って目を閉じながらオレのヘッドホンを装着する。
「……ふぅん?」
彼女はそんな一言を口にしてみせたが、これといって無反応であった。
彼女は数分もの間、何も言わずに只々お兄ちゃんという一単語しか流れない『しのぶがお兄ちゃんと言い続けるだけの環境音』を静かに聞き続けていた。
隣の女子生徒はおっかなびっくりと言った表情を浮かべたまま、目を閉じている音無静香を凝視しており、オレもまた彼女が『しのぶ』であるのかどうかを見極めるべく彼女の表情筋という表情筋を見定めていた。
不思議な緊張感が周囲を覆う中、彼女はついに表情筋を一つも動かさないまま、ヘッドホンを外してみせた。
「……実に素晴らしい音声作品でした」
「いやいや、音無さん。気持ち悪いって思ったなら素直に気持ち悪いって言えばいいじゃん……!」
「まさか。先ほどの音声作品。お兄ちゃんという一単語の繰り返しではありましたが、よくよく聞けばあの全てのお兄ちゃんという発音は全て異なっていました。よほどの思い入れが無ければあれを作る事は出来ません」
彼女は無表情からいきなり笑顔を浮かべてみせると、件の女子生徒に対して有無を言わせないような独特な圧を出してみせた。
はっきり言うと、責め立てられている当の本人でないと言うのに凄く怖かった。
「あ、いや、その、でも……! 気持ち悪いことには変わりは──」
「──へぇ。気持ち悪い、ですか」
「……ひっ……⁉」
「私、頭と耳が悪い人が嫌いなんですよね」
彼女はそう言いながら、この作品の素晴らしさが分からない人間は黙れと言わんばかりの敵意……いや、殺気を放った。
言われている本人でないというのに、まるで喉元に刃物が押し当てられるような感覚。
怒らせてはいけない存在の逆鱗に触れてしまった、という独特の恐怖感が一瞬にして教室内を包み込んだ。
オレがこれなのに、この殺気を直に浴びている人間が真面でいられるだろうか。
答えは火を見るよりも明らかであった。
「……す、すみませ……っ! こ、殺さないで……!?」
女子生徒は心底怯えたような表情を浮かべて、恐怖で腰を抜かしたのかその場に座り込んでしまっていた。
そんな彼女を音無静香はまるで射殺すような視線を向けてから、オレの方にへと視線を向き直していた。
オレの方に向き直した彼女の表情はまるで、人一人も殺していない人間がするような優しい微笑みであった。
彼女の、余りにも極端すぎる二面性を前にして、オレは言葉を失いつつあった。
「奏斗くん。このヘッドホン、お返ししますね?」
そんな彼女は俺に近づき、ヘッドホンを返す際にオレの耳元に唇を近づけてきた。
──先ほどの事も関係しているとはいえ、彼女の清潔感あふれる匂いと甘ったるいような女性としての特有の匂いが鼻腔の中でいっぱいになって、オレの心臓はまるで全力疾走の後のようにうるさくなっていた。
「……いい趣味してるね、お兄ちゃん? まぁ、私がそういう趣味にさせたんだけどね? この変態クソザコお兄ちゃん……?」
まるで本物の『しのぶ』が言ったかのような発音で、彼女は笑顔を浮かべたまま率直な感想をオレの耳元で言ってみせたのであった。
冗談抜きで。
オレは心臓が止まりそうになっていた。
「お、お前は……誰だ……?」
「はい、音無静香ですよ」
「……誰、なんだよ……⁉」
「……さぁ? 誰なんでしょうね」
「だ、だから――」
「――分かっているクセに」
オレの唇に指を押しつけて、反射的に黙らせにかかってきた彼女は、笑っていた。
くすくすと穏やかに笑ってみせる彼女は余りにも魔的で。
人の人生をいとも簡単に狂わせる傾国の美女を思わせて。
近づいたらいけないと本能が警鐘を鳴らしているのに。
「どうぞこれからも、朝も昼も夜も、ずっとずっと……宜しくお願い致しますね」
ぺろり、と俺の唇に触れた自分の指を一瞬だけ舐めてみせたそんな彼女に、オレは心を奪われずにはいられなかった。
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