眼鏡の春に寄せて

一河 吉人

眼鏡の春

 


 眼鏡の歴史は古い。



 その起源は紀元前三世紀、太陽光を集めて火を起こすための集光具だったと言われている。水槽やレンズに拡大機能があることも古来より知られており、かのローマ皇帝ネロはエメラルドを通して剣奴たちの戦いを鑑賞していたという。


 やがて十三世紀のイタリアにおいて一対のレンズを持った眼鏡が発明されたが、これは手で保持するか落とさないよう鼻の頭に掛ける形式だった。我々が現在知る眼鏡は、一八世紀のイギリスで開発されたものだ。以降も乱視用レンズや球面レンズの発明など進化を続けながら、しかし眼鏡は変わらず我々の生活を支え続けてきた。



 そして、二〇二八年――眼鏡は禁止された



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 きっかけは一人の勇気ある女性が上げた声だった。電車に乗り合わせた男の不審な態度に疑問を抱き問い詰めたところ、男は盗撮を白状した。このとき、犯行に用いられたのが眼鏡型の録画機である。ヒンジ部分に巧妙に仕組まれたカメラが、装着者の目線で映像を記録する。小型化、微細化の進んだテクノロージの闇であった。恐ろしいことに犯人の利用していたデバイスは安物の粗悪品であり、高価な製品には専門家ですら両手を上げて降参するほど普通の眼鏡と見分けがつかないものもあったという。

 

 多くの人々が懸念を示し社会問題としてメディアも大々的に取り上げられたが、この時点では小型カメラや録画機能の規制が話題の中心であった。話が急加速するのは、ネット上で秘密裏に運営されていた「眼鏡盗撮機専門サイト」の存在が明るみに出てからである。


 女性の人権を踏みにじるようなサイトの内容に、世の怒りは爆発した。眼鏡メーカーはもちろん、カメラや小型デバイスの会社も相次いでステートメントを発表し、サイトのアクセス履歴やメーカーの顧客リストから芋づる式に逮捕者が出た。これを機にコンタクトに移行するユーザーが続出し、統計上で実に六割もの人が眼鏡を置いたという。


 正義の炎は巨大なうねりとなり、そして――二〇二八年の春、一つの成果となって結実する。


 「特定機器による電磁的記録に係る法律」――通称「眼鏡禁止法」の成立である。


 人々を守り、社会を守る――時の首相肝入りで提出された法案は、激論を経て強行採決された。素晴らしい決断力だ、いやただの人気取りだ、と毀誉褒貶の激しかった法案だが、実のところ決定打になったのは盗撮サイトと世間の話題を二分していた与党の収賄容疑において大臣の決定的な関与を示す証拠が眼鏡型録画デバイスによって撮影されたから、というのは世の誰もが知るところであった。


 以降、眼鏡は許可制となり、コンタクトが使用できないという医者の診断書がなければ購入すら不可能な、事実上の医療用具となった。


 法案成立による社会的影響は、多くの人がすでにコンタクトへと移行していたこともあり、当初の見積もりよりも穏やかものだった。もちろん眼鏡業界には大打撃であり大手すら倒産が相次ぎ、海外に販路を求めて成功したり医療機関と結びついたごく一部が生き残るのみと、完全な焼け野原となった。


 これにより、十六世紀にフランシスコ・ザビエルによってもたらされて以降連綿と続いてきた我が国の眼鏡文化は、終焉を迎えたのである。



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 これに激怒したのが、眼鏡をこよなく愛する人々である。特に「眼鏡愛好家同盟」を名乗る集団の、中でもメガネを掛けた美少女を愛する「眼鏡っ娘」マニアの一派の反発は壮絶を極めた。公平を期すならば、彼らの主張には頷けるものも多かった。表現の自由、思想の自由、他の服飾やデバイスとの扱いの整合性などは、国会の議題にも上がるものだった。

 

 だが、当時の会長が眼鏡型録画デバイスの購入リストと盗撮サイトのアクセスリスト双方から警察に引っ張られ、あまつさえ「私は全ての眼鏡を愛している。だからこの眼鏡を手に入れるのは当然だし、その昨日を余す所なく堪能するのも道理である」と声明を出したものだから、世間からの猛反発を受けたのは当然だろう。同盟はすぐさま会長の罷免と追放を発表したが、一度失った信頼を取り戻すことは叶わなかった。元会長には執行猶予付きの有罪判決が下った。


 さらに、いわゆる眼鏡っ娘が絶滅寸前となった結果、世紀の一戦を記録せんと一斉にレンズを向けるスポーツ記者のように、見事なコスプレを世に残さんと群がるカメラ小僧たちのように、珍しい車両を一目見んと集う電車愛好者たちのように、ごく少数の眼鏡ユーザーの元へ愛好者が殺到するのも社会問題となった。ストーカー規制法による接近禁止令が乱発され、「オタクだからこそ、眼鏡っ娘を守ります」という理解の限度を超えたスローガンを掲げる一派まで現れる始末であった。


 ある種の被害者でもあり、同情すらされていた眼鏡愛好者はここへきて完全に加害者となり、「眼鏡冬の時代」と呼ばれる時期がしばらくは続くこととなった。



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 極寒の中において、しかし眼鏡愛好家はくじけなかった。彼らは寒々とした地上に別れを告げ、いつか再び来る春を夢見ながら地下へ潜った――VRという地下に。


 折しも世間ではVRが爆発的な流行を見せており、仮想空間では人々がきらびやかな、フォーマルな、パンキッシュな、ありとあらゆるファッションを思い思いに楽しんでいた。現実社会からはじき出された眼鏡愛好者たちが、これに飛びつくのは必定であった。


 彼らの活動は精力的だった。「ここに来れば、全ての眼鏡が揃う」――そんなコンセプトを合言葉に、ありとあらゆる眼鏡の3Dモデルを自作しては公開した。中世の鼻掛け眼鏡から映画館特典の3D眼鏡まで、やや著作権的に怪しい部分はあったもの、目もくらむようなラインナップを揃え、要望があればオーダーメイドにも快く対応した。


 その驚異的な働きは海外のニュースに取り上げられたり、有名な俳優が映画に出てきた小道具を見つけて喜んだりとしばし話題になり、地まで落ちていた彼らの評判を取り戻す一助となったが、注目を浴びたおかげで発見さた「今日の眼鏡っ娘」というVR盗撮コーナーが当然炎上し、会長は罷免された。


 紆余曲折を経ながらも、彼らの活動は地道に、しかし力強く続いた。なんだかんだでVR地中の居心地も悪くはなかった、と当時を語るものは少なくはない。だが、彼らの求めるものはやはり、リアルの眼鏡、リアルの眼鏡っ娘であった。虎視眈々と牙を磨き、レンズも磨いて、いつか来る開放の時を待っていた。



 それは、一つの訴訟から始まった。



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「記憶の自由」訴訟――そう呼ばれる一連の裁判が起こされたのは、くしくも眼鏡禁止法が成立してから十年目のことだった。


 申し立ての概要をかいつまめば、「外部のデバイスで録画するのは違法だが、自分の目が見たたもの、網膜に写ったものを電子データとして記録するのは個人の自由であり、これの禁止は思想の検閲である」というものだ。


 人間の感覚器の電子化は、古来より試みられてきた。ある意味では、眼鏡もその一種と言えるだろう。そして、AIによる解釈能力の劇的な進化と、それを実現するデバイスの性能向上により、いよいよ人間の目を、耳を、鼻を機械に置き換えるところまで科学は進歩した。


 さらには、それらの開発経験を元に実際の人間の感覚器が受け取り、脳に送る信号を電子化し記録、そして再生するところまで手が届くようになったのだ。


 感覚器の電子化を経ない、生の記憶の電子化。


 当然、こんなものは既存の法律には想定されていない。「『記憶の自由』訴訟」が問題にしたのはまさにその新領域であり、誰もがただの法律論に留まらない論戦に参入し、意見を表明した。


 裁判を契機に、ありとあらゆる議論が交わされた。多くの専門書や論文が提出され、規制や法律が生まれ――



 そして、眼鏡禁止法は廃止された。



 根本的には、VRの普及による影響が大きいと言われている。電子空間では、そもそも記録されていないものは存在しない。個人の録画はもちろん、監視カメラなどへの拒否感はそれまでに比べ激減し、もはや「録られる」ことは当たり前となった。当然プライベートは別として、むしろ記録の残らない場所は危険であるという意識が若い世代を中心に広がりを見せていたのだ。そこへ来て件の裁判である。もう、いいのでは? そもそもが議論の多い法律だったのだ、歴史的使命を終えた今、速やかに退場してもらうべきでは?



 かくして、眼鏡は長い、長い冬を越えてついに再び、太陽の元へと舞い戻ったのである。



 眼鏡は火や車輪と並び人類の社会を変えたテクノロジーである、と唱える学者も居るという。その眼鏡がテクノロジーによって消され、そしてまたテクノロジーによって蘇ったのは、なんという皮肉だろうか。


 眼鏡は開放された。我々は勝ったのだ。集光レンズに由来する眼鏡は、やはり日の当たる場所がよく似合う。長き冬を耐え忍び、再び目にした太陽。この瞬間、この胸に湧き上がる思いを言葉にするのは難しいが、今はただ春の日差しと、それを反射するレンズの輝きを楽しんでいたいと思う。




眼鏡愛好者同盟 第七代 代表  横尾 珪杞

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(編集部注:横尾氏は眼鏡の着用を強要したとして暴行罪で執行猶予付きの有罪判決を受け眼鏡愛好者同盟から永久追放されておりますが、当時の歴史的な資料として、また文章に罪は無いとの考えの元に原文をそのまま公開しております)



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