しー

『すまない。急な用事ができてしまった。祭りはまたの機会にしよう』

 夏祭りに対する断りの連絡に、勘太郎は予想以上に落胆している自らに気付いた。

 そもそも、夏期補習の手伝いに入ってからというもの、柚宮と会えていなかった。忙しいんだろうなとわかってはいたものの、夏休み中もそれなりに顔を合わせていたのもあって、かの女の先輩の不在は、心の穴を意識させた。

 いつの間にか、当たり前になっていたのか。クラスの友人や地元の友人、親との旅行などの時も、なんとはなしに柚宮先輩のことを考えていた。


 程なくして、自分から誘ってみるか、という発想にいたった。今までは、先輩に巻きこまれるかたちだったが、勘太郎も楽しくなっているのだから、こちらから申し出てもいいのではないのかと。

 それこそ、普段の柚宮程の独創的な遊びは思いつけなかったが、とりあえずは誘ってみるところからはじめてみよう、と空いてる日はありませんか、と連絡を入れてみた。しかし、

『ごめんね。少し前に夏休みの予定は全て埋ってしまったんだ。また、新学期に時間ができたら遊ぼう。』

 返ってきた素気ない返事にしょんぼりした。

 よくよく考えてみれば、優等生の先輩は交友関係もそれ相応に広いだろう。ならば、一後輩に割いていられる時間も限られているに違いない。今までは、柚宮自身が頑張って予定の空きを作ってくれていたのかもしれない、と思いいたった。

 ならば、新学期を待とうと多少不本意ながら自らを納得させようとする。

 ……わずかに吹き上がった疑念に首を捻った。


 訪れた新学期は随分と長く感じられた。気持ち早めに登校してから、柚宮の教室へと向かおうとする。

「よぉ、久々だな」

 途中、特徴的な逆モヒカンが目に入る。おおよそ一月半ぶりの蒲郡はなんだかやけにつやつやとしている気がした。

「お久しぶりっす。柚宮先輩に聞きましたけど、けっこう長めの夏期補習だったんですよね」

「ああ、まあな」

 なぜだか、ニヤニヤするジャガイモ顔の先輩の態度を、おやっ、と思う。

「大変だったんじゃないっすか。もしかして、サボったとか」

「馬鹿にすんな。ちゃんと毎日通ったさ」

「だったら、なんで楽しそうなんすか?」

「そう見えるか。だったら、そうなんだろうな」

 喉の奥からクツクツ笑い声を漏らす蒲郡を見て、この人も柚宮とはまた別ベクトルで頭がおかしくなってしまったのではないのか、と疑いはじめたところで、予鈴が鳴る。いらんところで時間を食ってしまった、と内心後悔しつつ、それじゃあこの辺で、と別れの挨拶を交わす。

「そうだな、ククク……また、後でな」

 いつにもまして意地が悪い笑いが聞こえた。


 始業式とホームルームを終えたあと、早足で柚宮のクラスへと向かう。あの眼鏡の先輩のクラスメートには冷やかされるかもしれないという気がしなくもなかったが、とりあえずは顔を合わせてから考えようと訪れた。

 いざクラスを訪ねれば、向こうもホームルームが終わったばかりらしく、どこかざわざわとした空気が場に留まっていた。上級生の教室にやってきたのに、多少、緊張しつつも、近場にいた年上の女子の、柚宮先輩いますか、と尋ねる。

「ああ、君が勘太郎君ね。巴から話はよく聞いてるよ」

 どんな話だろう。変なやつじゃないといいけど。そんな勘太郎の心配を知ってか知らずか、眼前の先輩は、

「目に入れても痛くないくらい可愛い後輩だってよく自慢してる。ただ付き合わされる方からすると、お腹いっぱいでいっぱいで」

 やや呆れ気味にため息を吐く。これはこれで恥ずかしいなと思いつつ、その柚宮先輩は、と教室内を見回したが、どこにもいない。

「てっきり、君のところに行ったと思ったんだけどな」

「と言いますと」

「だって、柄にもなくスカートとリボンだったし、なんかずっとそわそわしてたし、始業式中にいつの間にかいなくなっていたから。てっきり、お気に入りの君と逢引きしてるんだと思ったんだけど」

 どこに行ったんだろうね。不思議そうにする先輩の言葉に、背筋からぞわりと這いあがってくる感触。

 なにかとんでもないことが起きている。そんな気がした。

 

 柚宮のクラスメートの女子にお礼を口にしたあと、連絡を入れるが応答は返ってこないため、心当たりを手あたり次第に巡回しようと決める。とはいえ、一学期と夏休みの前半だけとはいえ、けっこう色々なところを遊び回っただけに、どこにいるかは見当もつかず、さしあたっては旧校舎へと向かった。

 よくよく考えれば、柚宮はけっこうマメに連絡をしてくれるだけに、けっこうな間が空いている時点でおかしい。とにかく、無事であればいいと、足を急がせた。

 そして、いつもいる最上階の空き教室に入るが、人っ子一人おらず、閑散としたところにセミの鳴き声が響くばかりだった。

 外れか、と落胆しつつ、再び廊下に出て、新たな心当たりに向かおうとする。その矢先、視線の端に、上り階段とその突き当りにある屋上への出入り口が開いているのが映った。普段はいくつもの錠で厳重に閉じられていたはずの扉が、無防備な姿を晒している。

 誰か、いるのか。肝試しシーズンだというのを考慮すれば、開けっ放しにしたままにするやつがいる確率はゼロではないだろうが、それよりも、使。考えを進めつつ、一歩一歩、足元のきしむ音を鳴らし、階段を上っていく。程なくして、開け放たれた扉の前にたどり着き、初めて屋上の中を窺う。

 まず、最初に聞えたのは獣のようなうめき声だった。目に入ったのは、鉄のフェンスに手をかけたスカートを履いた女子に後ろからのしかかる男子生徒の姿。そのどちらも遠目でもわかるくらい、勘太郎にはなじみ深い人間であり……

「俺に感謝しろよ、巴」

「はひぃ」

「お前みたいな冴えない豚を使ってやってるんだからな」

「ありがとぉ、ございますぅ」

「なにに対する感謝だ。ちゃんと伝えろや」

をぉ、卑しいカチクをぉ、体のすみずみまでぇ、あまさずぅ、つかってくださりぃ、かんしゃぁ、してもぉ、しきれませぇん」

「まだまだあるよな。この場でちゃんと謝れや」

「わたくしはぁ、豚の分際でありながらぁ……ご主人さまぁに、さかしらぶったぁたいどでぇ、上から目線でぇ、べんがくなどというぅ、価値のないものを教えてぇ、悦にひたろぉうとしていましたぁ。そのいやしいいやしぃ心根をぉ、ご主人さまぁに、夏休みじゅうしつけていただきぃ、あるべきすがたを、おもいださせていただきましたぁ。十七年間の思いあがったぁままぁ、去年から夏期講習までぇの間、ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでしたぁ」

「おお。そうやってお前は一生部を弁えてればいいんだよ、豚ぁ」

「ぶひぃぃぃ」

 眼前で行われている光景が信じられなかった。否、勘太郎は信じたくなかった。

 気が付けば、女の背後にのしかかっている男に向かって走り出している。この後のことなど、欠片もわからない。ただただ、排除しなくてはならないと確信だけがあったのだ。


「よぉ、勘太郎。相変わらずひ弱な生き物だな、お前」

 天を仰いだ勘太郎の目には、肌色の玉に挟まれた棒が映っている。

 結論から言えば、殴りかかったところで、返り討ちにあった。話にならないくらい一瞬の出来事だった。顔だけでなく体ごとジャガイモみたいな年上の男の顔は伺えないが、声だけで下卑た笑みを浮かべているのは容易に想像できる。

「俺は優しい先輩だからな。お前にもちょびっとだけおすそ分けしてやろうと待ってたんだが……いきなり、殴りかかってくるとか、先輩に対して敬意が足りないんじゃないのか」

 その点だけは、豚の方がましだなぁ。などと告げたあと、なぁ豚、とフェンスで息を整えている年上の女に話しかける。

「ぶひぃぃ。なんでしょう?」

「飼い主の話くらい聞けよ。だから、お前は豚なんだよ、豚」

「申し訳ございません。ぶひぃ」

「まあ、いいけどよ。これからもずっと素直でいろよ」

「はひぃ、ぶひぃぃ」

 転がったまま女の方へと視線を向ける。脱ぎ散らか足てあるカッターシャツとリボン、スカートを着ているとおぼしき部分だけが白い裸体を曝すのは最後に会った時よりも幾分か髪が伸びた女。その目線はジャガイモ男への媚で溢れていて、勘太郎の知っている彼女ではないように思えた。なによりも、トレードマークであるはずの四角い眼鏡がなくなっている。行為の最中だからじゃないかと頭の中の冷静な部分が囁いたが、脱ぎ散らかされたものの中には見当たらない。

「柚宮、先輩」

 呼びかけると、女は一瞬だけ勘太郎に視線を向け表情を消したあと、すぐさま元の媚びを取り戻し、また男の方を見た。

「ご主人様ぁ。もっとぉ、もっとぉ、わたくしをしつけてくださぃぃ」

 まるで勘太郎などいなかったかのような振舞いに、酷く傷つけられる。

「おい、豚ぁ。こいつは仮にも俺の後輩だぞ」

「ですけどぉ、ご主人様に危害を加えようとしたんですよね。そんなの許せません」

 ひどく冷えた声音。今までの付き合いで聞いたことのない色合いだった。

 直後に、ジャガイモ男は女の尻を思いきり蹴り上げる。

「ぶひいぃぃぃぃ」

 床にうつ伏せに倒れこむ女の臀部を、男は追い打ちをかけるようにぐりぐりと踏みつけた。

「お前、豚の分際でなに、勝手に決めてやがるんだ」

「すみませんすみません、わたくしが愚かでしたぁ」

「わたくしなんて上品ぶってるんじゃねぇぞ。お前の一人称は今日から豚だ、豚ぁ」

「申し訳ございませんぅ。豚が愚かでしたぁ。ぶひぃぃぃ」

 その後、十数度の踏みつけが繰り返され、赤くなった尻を晒す女の痛ましい姿に心を痛める勘太郎の前で、一息を吐いたジャガイモ男は、

「話くらいは聞いてやれ、豚」

 酷く不機嫌そうに告げた。

「わかりました。豚は話を聞きますぅ」

 そう告げたあと、女は気だるそうに立ちあがり、勘太郎の傍までやってくる。

「で、瀬山せやま君。なにが聞きたいの」

 豚は忙しいから手短にね。最大限の愛想笑いに怯えを感じつつも、

「眼鏡はどうしたの」

 尋ねる。そうしてから、よりにもよって今聞くことだったかと後悔した。それは聞かれた方も同じだったらしく、ぷぷぷ、と笑いはじめた。

「君、面白いね。地下芸人の付き人くらいにはなれるんじゃない」

 嘲るように腹を抱えたあと、潤んだ目で、

「ご主人様に割っていただいたの」

 とろけるような笑みを浮かべた。

 意味がわからず、呆然とする勘太郎に、傍にいたジャガイモ男が棒をぶらぶら揺らしながら、

「豚に豚の自覚を与える第一歩としてな。目の前で割ってやったんだよ」

 得意げに口にしてみせた。

 そんなくだらない理由で。憤りを深める勘太郎の傍で、女は胸を押さえた。

「今でも鮮明に思い出せます。縛り上げられた豚からとった眼鏡を、ご主人様は嬉々として踏み砕いたの。あの時は愚かにも怒りで悲しみでいっぱいになりましたが、ご主人様にしつけていただいているうちに、段々とあの思い出、とてもとても甘いものに変わっていった」

「そうだろう。お前と同じように糞犬を蹴り上げた時も、嬉しそうだったもんな」

 ジャガイモ男の声で、以前、自分と似た犬を飼っているという話を思い出す。

「ええ。ええ。豚と長年を時をともにして大切だと思いこんでいたペットでしたが、愚かにもご主人様に逆らうものだから……散々に蹴り上げられて、最後はぼろぼろになって動かなくなってしまって」

 痛ましい出来事に吐きそうになった勘太郎の前で、しかし、女は懐かし気に目を細める。

「けれど、失ってしまった瞬間、とてもとても、すっきりしました。大切だったものは重荷で、豚は豚としてご主人様に飼っていただけるだけで、満足だったんだって」

 快さげに語る女の言葉。そのどれもこれも、勘太郎には理解できない。

 夏期補習から今日までの間、ジャガイモ男から女に対する過度のしつけがあった。それはたしかだろう。だからといって、これでは原型がなさ過ぎるのではないのか。

「犬畜生をヤったあとは、躊躇いなく母豚も俺に差しだしたもんな。自覚がなかっただけで生まれた時から豚だったんだな、豚は」

「うふふふ。豚は親子ともども飼ってしつけていただけて、とてもとてもしあわせですぅ。ぶひぃぃ」

 男の下卑た笑いと女の媚びた笑いを転がり見上げた勘太郎は、

「今までの柚宮先輩はどこに行ってしまったんですか」

 悔しさとともに吐きだした。途端にニヤニヤする男と、うんざりするような女を見て、かぎりなく口が重くなっていくのを感じたが、勇気を振り絞って開く。

「帰ってきてくださいよ。あのふてぶてしいくらい格好良くて眼鏡が似合う先輩に戻ってくださいよ」

 涙ながらに訴える。

 女は再び表情を消してから、

「勘太郎君」

 柔らかく微笑む。戻ってきてくれた。そんな期待が灯った瞬間、

「あの卑しい女は死んだんだよ」

 言い聞かせるように告げた。直後に現れたのは蔑みの眼差しと口からよだれを垂らすだらしない顔。

「あの卑しい女の顔を、豚はご主人様に剝いでもらって、豚は豚になったの。さっきも言ったでしょう。豚の喜びはご主人様に飼って躾けて叱っていただくこと。それ以外はなにもいらないの」

 もちろん、お気に入りだった男の子もね。冷徹に告げたあと、女はジャガイモ男の方を振り返る。

「ご主人様ぁ。これで良かったですかぁ」

「こっちが言うまで止めるな、と言いたいところだが、俺もそろそろ、欲を満たしたいところだったしな。勘太郎、もういいか」

 尋ねられても、なにも答えられない。

 重ねられる説得できる術はまだまだあるはずだ思う一方、死んだといらないの二つの言葉が大きな楔として気力を奪っていた。

「返事しろよな。まあ、俺は優しい先輩だから許してやるが」

「ご主人様ぁ」

「焦るな、豚。お前はただ、俺の言う通りにしてればいいんだよ」

「申し訳ございません、ぶひぃぃぃ」

 

 その後、燦燦と照る日の下で繰り広げられる肉と肉の交わりを、勘太郎はただただ見ていた。頭の中では、少し前まで思い描いていたはずのちょっと変な先輩とのドタバタとした楽しみの妄想が浮かぶ。そこに時折、つい先ほど女が勘太郎を切り捨てた時の、お気に入りの男の子、という言葉が再生されたりもする。お気に入りの男の子と言った時、こころなしかほのかに寂し気な顔をしていたように見えた女の顔。きっとそうだったはず。そんな希望に縋りながら、目の前で乗ったり乗られたりする男と女を見つめ続けて……



 

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先輩の眼鏡はよく似合う ムラサキハルカ @harukamurasaki

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