第5話 痴漢

きょうは珍しく寝坊した。

出社日はよほどのことがない限り、7時前後には目が覚める。

アラームはセットするが、アラームを鳴らしたことがない。

けたたましい音で飛び起きた今日は例外中の例外。

7:15、いつもよりは遅いが寝坊というほどのこともない。

たまに面倒なので、スッピンで出社することも珍しくない。

たぶん会社の連中も気が付いているが、それをイジられることもない。

ないない尽くしは快適だ。

人に関心がないが、それは興味を持たれることが不得手だからだ。

子供の時から人付き合いを避けてきた。

3つ違いの妹と比較され、いつしか自分を、存在自体を消したかった。

妹は「サキちゃん」と呼ばれ、私は「おねえちゃん」

おねえちゃんって誰の?サキちゃんのおねえちゃん?

妹は容姿端麗、性格も良くて、非の打ち所がないので攻撃できない。

欠点がないっていうのが欠点。

母の口癖は「サキちゃんはね・・・」

会話の主語が、すでに”サキちゃん”


ぼんやり考えてたら8時を過ぎてしまった。

前日に着ていく服は用意してあるので、身支度は10分で済む。

冷凍のパンをチンして、朝食完了。

相変わらずの満員電車。

最近、無関心の人ごみの中に身を委ねるのも悪くないと思い始めている。

ひとりって寂しいよね、アラフォーの主人公が呟いてるドラマを思い出した。

ところが無関心じゃないヤツがいた。

後ろから手を回し、股間のあたりを弄っている。

なぜ、私を選ぶ、もっと若い女がいくらでもいるだろ。

不謹慎なことを考えながら、ここは的確な判断が必要だ。

二度と同じ過ちを繰り返してはいけない。

すると大胆にもスカートの中に手が手が、、、ヤバイ貞操の危機。

「次の駅で降りろ」

ドスの聞いた声の持ち主は、痴漢の腕を高く持ち上げている。

人々の頭上で腕だけが際立って浮いて見えた。

痴漢は痛い、痛いと呻いた。

なにか言わなければと、声の持ち主を探す。

見たことのある顔、腕を持ちあげている、この男を知っている。

貞操の危機を救った正義のヒーロー=名前も知らない隣人。

いや、正しくは名前すら憶えていなかった隣人。

痴漢、私、隣人の3人は次の駅で降りることとなった。

このまま、私は会社がありますのでと、二人を置いて退散するわけにはいかない。

痴漢の腕を強引に引っ張り、駅の事務所まで連れて行くつもりの隣人。

痴漢は20代、若くも見えるがオロオロした様子と身なりはおっさん。

顔をくしゃくしゃっにして、泣いてる、えっ、泣いてるじゃん。

「ちょっと待って、えーーと、さ?・・・」

「三枝です。三枝介サエグサ カイ

「三枝さん、彼、泣いてます」

「泣いて済みますか?泣いたら許されるんですか」

「そうじゃないけど・・・」

私は見てしまった。首から下げた身分証明書。

乱暴に引っ張られ、チェックのシャツから覗いたパスケース。

納得のいかない隣人を説得して、ベンチに3人で腰掛ける。

「こんなこと、してはいけないってわかってるよね」

子供に話しかけるように、優しく問いかける。

「うん」

「もうしないって約束できる?」

「だって、えみちゃんに似てたから・・・」

たぶん駅の事務所に連れて行き、警察に引き渡しても、彼は罪には問われない。

なんで?とか、ダメなんだよとか言われたって、答えなんか見つかりっこない。

暗い闇の中を答えを探して彷徨うだけだ。

「えみちゃん、きっと悲しむよ、そんなことしちゃダメって怒るよ」

「わかった」

みんな、居場所を見つけるのに必死なんだよ。

君を理解して、言葉をかけてくれる人がそばにいるといいね。

「すごいな、おねえさん、なんか慈悲深いマリア様みたいだった。俺なんかベンチに座って、やっと気が付いたし。それでも許せなかったし」

そう言って、隣人は痴漢を無罪放免したことを理解したようだった。

知らないホームにポンと放り出され、痴漢の彼は戸惑っている。

きょろきょろとあたりを見回して、どの電車に乗るのかさえ分かっていない。

迷える子羊くん、もっともっと知らないことを吸収して強くなりなさい。

「あいつ、どの電車に乗るかわかんないんだな」

駆け寄った隣人の案内で、律儀に白線に並んでお辞儀をしてる。

大丈夫、優しい狼だっているんだよ。


なぜかその一件から、隣人の根拠のない崇拝志向が始まった。

痴漢撃退に恩義を感じて<レベル80>

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