終幕《表》2
「仕掛けたとは……」
「順を追って話そう。仮に、私とフローレンス嬢の婚約が宰相の画策によるものだった場合……彼女は、宰相が侯爵家に強く働きかける何かしらの手札を用意するか、既に持っていることを警戒していた。アーデン侯爵家は国政に直接深く関与しているわけではないが、貴族のみならず知識階級への影響力が非常に強い。宰相であろうと、操ることは困難だからな」
それは、以前フレイヤも考えたことだった。
アーデン侯爵家は操りづらいので、それよりはいくらか難易度が下がるレイヴァーン伯爵家のソフィアを王太子妃に据えた方が都合のいい人物がいるのではないかと。
しかし、宰相がアーデン侯爵家にも働きかけられたなら、フローレンスを排除する理由がなくなる。
彼女が王太子の婚約者のままで、宰相としては問題なかったはずだ。
それがどうして毒殺未遂に繋がっていったのだろうか。
「婚約者を変えたところで、宰相に弱みを作ったり握ったりされては同じことの繰り返しだ。そもそも奴が黒幕かもわからなかったから、警戒と確認を兼ねて、大掛かりな罠を仕掛けつつ、調査をすることにした。その一環に、ソフィアとローガンの婚約話がある」
これまでの流れとは無関係に思える話が出てきて、フレイヤは目をまたたいた。
「夫から、姉との婚約は解消前提のものだったとは聞いておりますが……」
「ああ。その通りだ。三年前──私はレイヴァーン伯爵家へソフィアとの婚約を打診すると同時に、他の男と仮の婚約をするように頼んだ。フローレンス嬢との婚約を解消したり、結婚を先延ばしにしたりして宰相が私に他の令嬢を充てがおうと考えた際、ソフィアが除外されるようにな。そこで、仮初の婚約相手として名前が挙がったのが、ローガンというわけだ」
ソフィアとローガンが婚約から何年も結婚しないことは少なからず不思議に思っていたが、その裏にこんな事実が隠されていたとは。
そして、三年前からちょっと仲間外れにされていた感があって複雑さもあるけれど、十五歳のフレイヤが知るにはあまりに事が大きく危険を孕む。当然の判断だ。
「そういうわけで、フローレンス嬢に婚約者を演じてもらいつつ、私は宰相について調べを進めていった。調べれば調べるほど怪しい点が出てくる。真っ黒だ。だが、奴は巧妙で証拠を残しておらず、あと一歩で証人や証拠を得られるという時には──ことごとく消された」
“消された”の中に人も入っていることを察して、フレイヤは背筋がぞっとするのを感じた。
自分が一時でもそんな人物に捕まっていたのだと思うと、今になって恐ろしさが増してくる。
「過去数十年にわたるさまざまな件で奴が黒であることは疑いようもないが、結局、証拠は見つからず……。フローレンス嬢をいつまでも縛り付けておくわけにもいかない。宰相に目をつけられないよう仮で結んでもらったソフィアとローガンの婚約も、これ以上婚約期間が長引くと怪しまれる。そこで、こちらから攻めることにした」
王太子はそう言って綺麗に微笑むが、凄みがある。
絵本の中の王子様はただキラキラしているだけだけれど、実際の王子様は、未来の為政者。こういう人物こそが真に王子様らしいのだろうなと思い、フレイヤは『私も大人になったわね』とちょっぴり遠い目になった。
「先ほどの君の質問に戻ろう。仕掛けたとはどういうことか──私が王にアーデン侯爵家の
アーデン侯爵が陞爵したら公爵となる。そうすると宰相であるフォンティーヌ公爵とは階級的に対等で、仮に多少の弱みを握られたとしても太刀打ちしやすくなる。
宰相の権力が削がれるならなおさらだ。
(それでフローレンス様が毒に倒れることになったのね……。でも、王太子殿下の方から仕掛けられたのなら、当然ある程度防御も固めていたはずじゃないかしら)
フレイヤが疑問を抱いたことを読み取ったのだろうか。
王太子は、不敵な笑みを浮かべる。
「なぜみすみすフローレンス嬢に手を出されることになったのか気になるか?」
「ええ……。ですが、毒を盛られることは、その時は想定外だったのでしょうか」
「……いや。私は賭け事を好まなくてな。攻めに出る前に、当然保険は用意しておいた。それがギデオンだ」
ギデオンといえば、フォンティーヌ元公爵の嫡男だが──フレイヤが盗み聞きした話の中では、公爵からも弟からも随分ぞんざいな扱いを受けていた。
「ギデオンは奴の最初の妻の子なのだが、どうも奴は実子ではないと疑っていたようでな。冷遇し、後妻が産んだ次男のサムエルに家督を継がせる気らしかった。ギデオンをこちらへ引き込めないかと接触してみたところで……彼の方から助けを求められてな。このままでは遠からず消される、公爵家の悪事を暴く手伝いをするから、平民としてでも穏やかに生きられるよう情けをかけてもらえないかと」
息子を息子とも、兄を兄とも思わぬようなあのやり取りの理由がわかり、そういうことだったのかとフレイヤは納得する。
公爵家嫡男なのに、適齢期を過ぎても婚約すらしていなかったのは、始末した際に婚約者の家から探られると面倒だからだろう。
“遠からず消される”という彼の懸念は、ほぼ間違いなく正解だと思われる。
「ギデオンからの情報で、奴がフローレンス嬢に毒を盛ろうとしていることがわかった。事前にわかっているからには当然彼女は毒など口にしていないが、毒に倒れたふりをしてもらった」
そういうことならば辻褄が合う。ようやく謎が解け、すっきりした気分でフレイヤは頷いた。
となるとやはり、メイマイヤー子爵令嬢が書店で目撃したフローレンスに似た令嬢は、彼女本人だったのだろう。
「フローレンス嬢には、身の安全のため面会謝絶としてアーデン侯爵家の屋敷にこもってもらい、おおよその証拠集めが済んだところでソフィアを王城に呼び寄せた。そこで、ソフィアとローガンの仮の婚約は役目を終えたというわけだ」
一通り話し終えて、王太子はふぅ、と息をつき、紅茶を飲み始める。
あとを引き継いだのはソフィアだった。
「それで、仮の婚約を解消したあとすぐ、フレイヤを捕まえに動いたのよね。ふふ……あなたがあんなに結婚を急ぐとは思わなかったわ」
くすくすとソフィアが笑い、ローガンが憮然とした表情で「とても長く感じた三年だったものですから」と呟いた。
「フレイヤ夫人。どうかローガンを許してやってくれ。君には事情が伏せられていたし、姉の婚約者から好意を示されても不誠実だと思われ嫌われるだけだろうと、ローガンが身動きできなかったのは無理もない。すべては私の命令に由来する。……ローガンも、悪かったな」
「いえ。ベリシアン王国の膿を出すために少しでも役立てたことは幸いでした。それに、ソフィア様との婚約解消以前はともかく、その後フレイヤと婚約を結び直してから心を通わせることもできたはずでした。こじれたのは、私が弛んだ顔を見られまいと無意識に気を張っていたことに起因しますので」
「それはそうだな」
「ええ」
「…………」
王太子とソフィアから次々に頷かれ、ローガンは渋い顔をして沈黙する。
すでに息が合っている二人と、彼らにはどうにも弱いらしいローガンがなんだか面白くて、フレイヤは小さく笑ってしまった。
ややこしい裏事情の話は終わり、それからはしばらく雑談の時間になる。
実のところソフィアは三年前から王太子妃になることがほぼ決まっていて、教育もおおよそ終わっているため、今は割とのんびり過ごせているらしい。
二ヶ月後には婚約式を開いて婚約を正式なものとし、来年には国内外から来賓を招いて盛大に挙式するそうで、フレイヤも今から楽しみだ。
──帰りの馬車の中。
軽快に走る馬の蹄の音を聞きながら、ローガンとフレイヤは並んで静かに座っていた。
フレイヤがちらりとローガンの横顔を見上げると、視線に気づいたのか、彼の薄青の瞳が向けられる。
「どうした?」
「あの……ローガン様。私の傷もすっかり良くなりましたので──」
「そうか!? ……いや、無理はしなくていい。俺は焦らない。フレイヤを大事にすると決めているからな」
「……?」
なんだか話がずれている気がして首を傾げたフレイヤは、やがて、ローガンが何を考えたのか察し、赤面しつつ慌てて訂正する。
「そ、そうではなくて……以前誘っていただいたように、一緒に遠乗りに行けたらと思ったのです……」
「……! すまない……」
二人して少し頬を赤くして、馬車に揺られることしばらく。
ローガンが「行こう」と頷き、フレイヤは微笑んだ。
「……フレイヤ。一つ提案があるのだが」
「なんでしょうか?」
「小規模なものになるが……婚礼の儀をやり直すのはどうだろか。……俺は、できることならあの日からやり直したいと、夜会の夜からずっと考えていた」
「……!」
思いがけない提案を受け、フレイヤの胸に驚きと嬉しさが広がっていく。
何も言えずにいるフレイヤの両手をそっと取ったローガンは、真剣な面持ちで言葉を続けた。
「あの日のフレイヤは、本当に美しかった。だが……浮かない顔をしていて、俺は後悔したんだ。父同士の強い望みを利用する形で結婚を急ぎ、俺のすべてをもって幸せにする覚悟だったが、肝心のフレイヤの気持ちを
「ローガン様、そんなことは……。私の方こそすみません。思い違いをして、辛気臭い顔で式に臨んでしまいました。私が笑顔ならローガン様も──」
「いや、浮かない表情のフレイヤですらあまりに美しく愛しくて、あの日の俺も険しい顔をしていただろう。笑顔だったなら余計に酷かったはずだ」
「ああ……それもそうでした……」
ローガンの表情が険しくなる理由については、既にフレイヤも把握している。
あの日、馬車から降りたフレイヤを見てローガンが渋い顔になり目を逸したのは、『美しい……! 直視すると表情がみっともなく緩んでしまう……!』の意だったというわけだ。
ちなみに、この問題は今も継続している。
ローガンは『騎士としてだらしのない顔を晒すわけにはいかない』『フレイヤにみっともない顔を晒したくない』という意識が強く働いているようで、本人もなかなか変えられないらしい。
しかしもう誤解することはないし、そこも含めて愛しく感じるので、フレイヤとしても治らなくてもいいかなと思い始めていた。
「それで……どうだろうか」
「……とても嬉しいです。やりましょう、ぜひ」
「ああ」
少しぎこちなくも微笑んだローガンは、優しくフレイヤを抱き寄せる。
「帰ったらさっそく、侍女たちに準備を頼んでおきます」
「ああ。俺は主教に連絡を取っておく」
「ありがとうございます。……そういえば私、あの時はローガン様をきちんと見られなかったのでした。改めて見ることができるのも嬉しいです」
「……俺もだ。今思うともったいないことをしたな。今度はよく見せてくれ」
「もちろんです」
遠乗りや式のやり直しから、なんてことのない穏やかな日常まで。
これからの日々が楽しみで仕方なくて、フレイヤは頬を緩めながら、愛しい人の腕の温もりに包まれるのだった。
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