「……フレイヤ、触れてもいいか?」

「はい」


 丁寧に断りを入れてから、ローガンはフレイヤをそっと抱き寄せた。


「改めて、謝らせてほしい」

「……何をですか?」

「俺は、フレイヤに酷いことを言った。君につけていた護衛から、屋敷を抜け出してユーリと街に出ていたと報告を受けて……君が思う“薄青”の相手はユーリかもしれないと思い込んだ。そして、いつか二人でどこかに逃げてしまうのではと恐れたんだ。それよりは、ユーリを利用してでも、フレイヤが離れないように繋ぎ止めたい一心だったが……」


 重苦しい溜息が、彼の口から漏れる。


「……フレイヤの思いを知った今、あの言葉がどれほど君を傷つけたかはっきりわかる。もし、君に愛人を囲えなんて言われたら、俺は……」

「……あの時は悲しかったし、頭に来ましたが……もういいんです」

「だが、この間のことも……」


 ローガンは抱きしめる力を強め、フレイヤの髪に頬を寄せた。


「フレイヤがメイナード商会の一人息子に結婚話を持ちかけれらたと聞いて、その上ジョシュアの夜会に行くというから……俺への意趣返しかと思いこんで、ろくに話も聞かずに暴走してしまった。無理強いはしないと誓いを立てておきながら、あのような蛮行に及んだこと……なんと詫びていいのか」


 至極真剣にローガンが言うので、フレイヤはきゅんとしつつ、抱擁されている状態から少し距離を作って彼の目をまっすぐに見つめた。


「あのですね、ローガン様。私はあなたのことが好きなのですから、口付けを蛮行だなんて思うはずないではありませんか。……ローガン様は、私がちょっと強引に口づけたら、蛮行だと思いますか?」


 ローガンは無言で首を横に振る。


「……してほしいくらいだ」


 目を逸らしながらぼそっと零された言葉は、フレイヤの耳にしっかりと届いた。

 きゅんどころではなく心臓のあたりがぎゅんっとなり、鼓動が速くなっていく。


(いずれ、私からも口づけをしてみたいわ)


 夢物語ではなく、現実のそう遠くない未来にそれが可能なのだと思うと、頬がみっともなく緩んでしまいそうだ。

 フレイヤは慌てて口元にきゅっと力を入れ、ローガンもこんな感じで険しい表情になっていたのだろうなと実感する。


「ところで……メイナード商会とは? まさか、パトリックが……?」

「知らなかったのか? あの男はメイナード商会の跡取り息子だ」


 メイナードというと、王都でも指折りの大商家だ。パトリックは家名を名乗らなかったので、割と名の知れた商家の子息だろうとは思っていたが、予想以上の大物だ。

 下手な貴族よりよほど裕福で狙われていそうな彼がふらふら出歩くのは危ないのでは……?と、フレイヤは自分のことは完全に棚に上げて心配してしまった。


「彼は全く本気ではなかったので……それに、コネリー侯爵家の夜会への参加が意趣返しというのは?」


 ローガンが言っていた“ジョシュア”というのは、コネリー侯爵の名前だ。

 やはり彼とはそれなりに親しそうなので、その辺りの話も聞いてみたいが、それは後回しにする。


「…………。あの夜会の主眼は、ジョシュアが結婚相手を見繕うことだ。それはフレイヤもわかるだろうに参加するのは、それほど俺との結婚は不本意だったと示すためかと思ってしまった。あいつは王子然とした見目をしているしな……」


 訂正しなければならないことが多すぎて何から言うべきか迷うが、フレイヤは一つ一つ認識を合わせていく。


「経緯についてはざっくり省きますが、私が今日の夜会に参加しようとしたのは、フローレンス様が毒をもられた件について探るためでした。コネリー侯爵ほどの方の夜会でしたら、有力貴族たちが男女問わずひしめくはずですから……」

「……君が何をしようとしていたのかについては、明日以降でしっかり聞かせてもらおう」

「お、お手柔らかにお願いします……」


 円満離縁を画策していたと明かしたら、ローガンはひどく落ち込んでしまいそうだ。

 しかし隠し事はしたくないので、複雑なところである。


「とにかく、コネリー侯爵家の催しを選んだのはそういった打算のみが理由で、他意はありません」

「……すまない」

「そもそも、ローガン様は何か誤解されているようなのですが……私は“ローガン様が”好きなんです。昔の、絵本に出てくる王子様みたいだった優しいあなたも、今の逞しくて格好よくてちょっと不器用なあなたも、どちらも大好きなんです。それ以外の方がどんな見目であろうが、興味はありません」


 ローガンは、片手で目元を覆った。

 しかし、さっぱりとした短い髪から覗く耳が少し赤くなっていて、彼の心境を伝えてくる。


「…………寝よう」


 たっぷり沈黙したあとおもむろに立ち上がったローガンは、フレイヤを抱え上げ、寝台へと大股で足を進めた。

 途端に、今度はフレイヤの方がドキドキして、頬が熱くなってくるのを感じる。


(私とローガン様は好き合っていて、夫婦としてなんの問題もないわけで……ええと、今日こそ真の意味で“夫婦”になるということよね……?)


 そっと慎重に、寝台に降ろされる。


 目が合うと、ローガンの精悍に整った顔が近づいてきて、優しく唇が重なった。

 角度を変えながら、何度も何度も熱が触れる。


 やがて柔く唇を食まれ、より一層鼓動が速まった時──ローガンはすっと離れていった。


「…………寝よう」


 提案というよりは宣言だった。


 明かりを消して寝台に入ったローガンは、フレイヤを抱き寄せる。

 間近に触れ合って横になるのは初めてで、とても眠れそうにないほど心臓がうるさかった。


 フレイヤを抱きしめたまま、寝る態勢に入ったのか動かなくなるローガン。

 フレイヤはドキドキしながらも、一抹の不安を抱いて声をあげる。


「……あの、ローガン様」

「なんだ?」

「いえ……なんでもないです」


 思いが通じ合ってもなお、何もしないというのは……もしや、自分には女性としての魅力が足りないのだろうか。

 しかし、尋ねるのも恥ずかしい気がして沈黙すると、ローガンは少し腕を緩め、フレイヤを真っ直ぐに見つめた。


「言いたいことがあれば、なんでも言ってほしい」

「ええと……その……」


 さんざん目を泳がせたあと、フレイヤは思い切って、蚊が鳴くような声ではあるが切り出す。


「……しない、のですか?」


 言い終えた途端、意味を正確に把握したローガンが、ゴホッとむせた。


「……しない!」

「私……そんなに貧相でしょうか……」

「ち、違う! これは俺が俺に課したけじめだ! せめて傷が治るまでは何もしない……!」


 もう寝ろ、と頭を胸元に抱え込まれて、彼の胸にぴったりくっついた耳から、速い鼓動を刻む心音が聞こえてくる。

 ローガンもドキドキしているのだと思うと、フレイヤはそれだけでなんだか幸せだった。


「ローガン様」

「……今度はなんだ?」

「明日は、いろいろお話しましょうね」

「ああ。これまでのフレイヤのことを、まだまだ聞きたい」

「私も、私が知らないローガン様のことをたくさん聞きたいです」

「そんなに面白い話はないと思うが……なんでも話そう」

「楽しみにしています」

「俺もだ」


 しばらくの沈黙のあと、額に優しくキスが落とされる。


「……おやすみ、フレイヤ」

「おやすみなさい、ローガン様」


 フレイヤが仮初妻を、ローガンが仮初夫を卒業した最初の夜は、こうして穏やかに更けていったのだった。


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