「…………」

「…………」


 馬の蹄がカポカポと石畳を踏みしめる、軽快な音だけが響く客室内。

 目も合わせず、どこか拒絶するようなローガンを前にして話しかける勇気はなかなか湧いてこないが、フレイヤは思い切って声を上げた。


「ローガン様」


 ようやくフレイヤの方を見たローガンだったが、眉根を寄せ、それ以上の言葉を制止するような仕草をする。不愉快というよりは、悲壮に近い表情に見えて、その心境がわからずフレイヤは首を傾げた。


「頼む……帰ってからにしてほしい」


 どうやら、今は話をする気分ではないらしい。

 しかし、フレイヤとしては、このなんとも言えない空気のまま夜会に臨むのは不安がある。会場についてしまうと込み入った話はできなくなるし、今のうちに最低限の擦り合わせはしておきたいところだ。


「ですが……」

「この間、無体を働いたことについては謝罪する。無理強いしないと誓っておいて、あんな真似をしてすまなかった。殿下の御身を守る騎士である以上利き腕を潰すようなことはできないが、フレイヤの気が済むように罰を与えてくれ」


(き、利き腕を潰す!? 私から罰……!?)


 なんだか物騒で悲痛な決意が滲むローガンの言葉にフレイヤはぎょっとして、慌てて首を横に振った。


「罰だなんて、そんな。私はただ、きちんとお話がしたいだけなのです」

「それは……今は許してくれ。せめて夜会が終わるまでは、聞きたくない」


 よくわからないが、罰を受けるとまで言いつつ対話は断固拒否したいらしいローガンに、フレイヤはむっとしてきた。


「……では、勝手に話します」

「……この間のようにして、口を塞ぐと言ってもか?」


 揺れる馬車の中でも危なげなくこちら側へ移ってきたローガンは、白手袋を外すと、フレイヤの頬に触れる。

 それによって、どうやって口を塞ぐつもりなのかを察し、フレイヤは目を見開いた。


(塞ぐって……もしかしなくても、その……? 確かに物理的には塞がれるけれど、口づけされること自体は嫌ではないし、話を止める理由にはならないのだけれど……?)


 意図を推し量りかねてローガンをじっと見つめているうちに、彼の顔が徐々に近づいてくる。


「嫌だろう? ならば、黙っていることだ。帰宅するまででいいから……」


 切ない表情で言われて、胸の奥がざわつく。


 あの夜から度々よぎっていた、『ローガンに実はそこまで嫌われていなかった可能性』を再び強く感じてしまい、フレイヤはますます、今のうちに話して認識の擦り合わせを行いたくなる。


「大事なことなのです。夜会の前に──っ!」


 話しておきたいのですが、という言葉は、宣言通り口を塞がれたことによって音にならなかった。

 あまりに近すぎてぼやけるローガンの顔を、フレイヤは目を閉じることも忘れてぼーっと見てしまう。


 しかし、なんの脅しにもならないキスに惚けている場合ではなく、今日という今日こそは話をするのだという決意が蘇り、ローガンの両肩を押した。


(全っ然動かないのだけれど……!?)


 渾身の力も虚しく、ローガンの身体はぴくりとも動かない。

 それどころか抵抗を封じるように抱きしめられ、フレイヤの身体から力が抜けていった。


「わかっただろう。俺は本気だ。だから……今は、何も言わないでくれ。頼む……」


 唇を離し、懇願するような声音で言うローガン。

 ここまでくると流石に、フレイヤも『自惚れではないのでは?』と確信に近い思いを抱き始める。


 とりあえず、キスは嫌ではないことを伝えようと口を開きかけたところ、今度は大きな手のひらで口を塞がれてしまった。


「……俺だって、フレイヤの嫌がることをしたいわけじゃない。ただ……今夜だけ、仮初でも……夫婦として並び立っていたい」


(ローガン様が望んでくださるなら、今夜だけでも仮初でなくても私は大歓迎なのですけれど……!?)


 フレイヤが思わず、彼の手のひらの下でモゴモゴと喋ろうとすると、ローガンはますます憂いを帯びた表情になってしまった。


「すまない、本当に……」


 謝りながらも、額、瞼、そして目尻へと次々にキスが落とされ、フレイヤの鼓動はうるさいほどに高鳴ってゆく。


「わかっているんだ。フレイヤが俺との結婚なんて望んでいなかったと。こうしているのも不愉快なんだろうと。なのに俺は、フレイヤを自由にできない……。おまけにこの顔も、筋肉も、身長も声も、どうしようもない」


(ローガン様……!? 何もわかっていないし私も何もわからないのですけれど……!?)


 唐突に出てきた、『顔』『筋肉』『身長』『声』という単語と、完全に誤解されている自分の感情。

 わけがわからないが、フレイヤはとりあえず「誤解です!」と叫びたくなった。


 口を塞いでいるローガンの手をなんとか剥がそうと試みるが、痛くはないのにガッチリと押さえられていて、それも叶わない。


 静かな攻防を繰り広げているうちに、馬車は目的地であるコネリー侯爵邸へ近づいたのか、減速を始めた。


(会場についてしまえば人目もあるし、話す機会はあるはずよ)


 そう読んだフレイヤは、一旦抵抗を諦めることにする。


「旦那様、奥様。到着いたしました」

「ああ」


 ここでようやく手が離され、二人はコネリー侯爵邸の正門前へと降り立った。

 門の前には、招待状を確認している侯爵家の使用人らしき人物がいて、馬車を降りた招待客たちの姿もちらほらあった。


 これならば流石に口は塞がれないだろうと、フレイヤは懲りずに口を開く。


「ローガン様、私はローガン様との結こ、……んんっ!?」


(結婚が嫌だなんて思っていませんでした──って言わせてよ!)


 ローガンの胸元を押し返し、身をよじろうとするフレイヤの抵抗は、抱擁でまるごと押さえられた。

 時折唇を優しくむようにしつつ、角度を変えながら何度も唇が重ねられる。どこからか口笛が聞こえて、フレイヤは羞恥心で顔が真っ赤になるのを感じた。


 唇が離れた瞬間、自分の手で口元を押さえたフレイヤは、ローガンを涙目で恨みがましく睨みつける。


「……ひどいです」

「ああ、俺は酷い男だ。あとで罰も受けよう。だからどうか今夜だけは、何も言わずに俺の妻として振る舞ってくれ。でないと、俺はどこで誰が見ていようが、今みたいに君の唇を塞ぐからな」


 周囲には聞こえないように囁かれて、フレイヤは無言で何度も頷いた。


 話はしたいが、ローガンが半ば自棄やけを起こして、公衆の面前でもキスすることを躊躇ためらわない状態であることは嫌というほどわかった。

 あわよくば情報収集ができればと思って来たはずが、社交界の有力者が多く集まる中で、脳みそが砂糖で侵されているような振る舞いを見せつける羽目になるのは避けたい。


 彼の希望通り、話し合いは帰宅まで持ち越しだ。


「ローガン・アデルブライト卿、フレイヤ夫人、ようこそいらっしゃいました」


 招待状を回収され、中へと通される。


 ──波乱の夜会が、幕を開けようとしていた。

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