翌朝。目覚めたフレイヤは、ゆっくりと起き上がり、寝室のソファに誰かがいることに気づく。

 誰なのかは間違えようがない。一応まだ夫のローガンである。


(……幻? 私、きっとまだ夢の中なのね)


 小さい頃、家庭教師が来る日の朝に、授業を受ける夢を見て寝過ごしたことが幾度かある。


 侍女たちに「起きてください」「授業に遅れてしまいます」と声をかけられても、夢うつつで『授業ならもう受けてるじゃない……』と思ってしまい、なかなか起きられないのだった。


 これもきっとそれに似たような夢だろうと思ったフレイヤだったが、「起きたか」というローガンの低い声は、夢にしては実にはっきりとしている。


 ぱちぱちと何度もまばたきを繰り返し、手の甲を少しつねってみて、痛みで眉間に皺が寄った。


「……起きてる……?」


 フレイヤの独り言に、ローガンの不思議そうな声が「起きているだろう?」と応えた。

 どうやら本当に現実らしい。


 頭が少しずつしゃきっとしてきて、フレイヤは昨夜のやり取りを鮮明に思い出しはじめた。


(そうだわ……昨夜ゆうべ、一緒に出かけようと誘われたのだったわ……。特に予定はなかったし、「わかりました」と答えたのよね。あとは何も言われなくて、あれこれと考えながらそのまま眠ってしまったのだけれど……)


 聞き間違いや超解釈でなければ、休む前に仕事を片付けていた、という主旨のことを言っていたローガン。彼はここ数日夜遅く帰宅しては早朝に登城していた。

 そして、一緒に出かけようという誘いである。


(私と出かけるために……?)


 一瞬だけ浮かれそうになったフレイヤだが、出かける先がどこなのかは不明だ。


 一番ありえそうなのは、仕事上の付き合いでやむを得ず、一応は妻であるフレイヤを伴って行く必要がある催しなどだろうとすぐ思い直した。


 余計な期待はするまい、そもそも円満離縁計画を進めている最中なのに、何を呑気に浮かれようとしていたんだかと、自分を戒めながら眠ったのであった。


「……おはよう」

「あ……おはようございます。今日は……」


 一日お休みなのですかと続けようとしたフレイヤだったが、それだと遠回しに「城へ行け」と言っている風にも捉えられかねない。なので代わりに、昨夜から気になっていたことを尋ねた。


「お出かけ、なのでしたよね。どちらへ行くのでしょう」

「一番街だ。一応、いくつか店を予約している。それ以外でフレイヤの気になるところがあれば、そこにも寄りたい」


 告げられたのはまったく予想していなかった内容で、フレイヤは驚き、固まった。


(参加必須の催しとかではなくて、ただ、買い物や食事をするということ……? それではまるで、普通の恋人や夫婦のようだわ……)


 一番街といえば、王侯貴族御用達の超高級店がずらりと並ぶ商業地域だ。


 訪れるのは、国内外の貴族や裕福な商人たち。見回りの衛兵も充実しているため、貴族が友人や連れ合いと出かける場所といえば、たいていはこの一番街の店だ。


 ちなみに、先日パトリックが教えてくれた“白百合の茶館”がある二番街は、超高級ではないけれど、高級志向の店が多い地域である。王都の市民が奮発して何かを買う時や、下級貴族の普段の買い物の時は、二番街の出番だ。


 なお、フレイヤがお忍びでよく行っていたのは三番街。市民の家々と、小さいけれど多種多様な店が軒を連ねており、活気と多様性は一番街にも二番街にも負けていない。


 とはいえ、意中の人との心躍るお出かけといえば一番街というのは、フレイヤも認めるところである。



(私とローガン様が、一番街に、二人でお出かけ……? あれ、二人よね……?)


 なぜ突然こんな流れに……と内心首を傾げたフレイヤは、もしかするとこれも先日のお詫びなのかもしれないと思い至った。

 

(ララはよく訓練された馬で、あの子だけでもかなりの価値がありそうなのに……。私、まだ怒っていそうな態度だったかしら。それとも、女性に激怒されるのが初めてで、謝罪の程度がわからないとか……?)


 ローガンは以前、結婚自体は不本意でも、傷つける気はないと言っていた。


 騎士としてなのか、元来の彼の気質的になのかは不明だが、結婚から今日こんにちに至るまでの度々の放置や愛人のすすめについて、埋め合わせを図ろうとしている線が濃厚だろうとフレイヤは当たりをつける。


「……昨日は了承の返事をもらったが、気が変わっただろうか」


 フレイヤがあれこれと考えて沈黙していたために、ローガンは眉間にわずかな皺を刻み、窺うように視線を向けてくる。フレイヤは慌てて首を横に振った。


「いえ……! 行き先が少し意外だったものですから」

「……三番街の方がよかったか?」

「いえ!」


 三番街に伯爵家の人間として赴けば、今後『レイ』や『レイヤ』としてお忍びで出かけるのが難しくなる。フレイヤは再び、一層慌てて首を横に振った。




 結婚してからわずか二回目となる夫婦揃っての朝食を終え、身支度を整えたあと、アデルブライト家のちゃんとした馬車でのお出かけとなる。

 

 最初に到着したのは、王都最大の書店、ハーピーパピリアだった。

 埋め合わせのつもりであれば、宝飾店などを巡るのだろうかと考えていたが、これは意外だ。

 

「マーサが、フレイヤはよく本を読んでいると」

「はい……」


 フレイヤがおずおずと頷くと、ローガンはなぜかハッとした様子で、気まずそうに視線を揺らす。


「これは、行動を報告させているわけではなくてだな……!」

「……? ええ。マーサが話の一つに伝えた……などでしょうか」

「ああ、その通りだ」


 フレイヤは別に、マーサから監視されており、ローガンに逐一報告されているなどとは思っていない。


 ただ──ユーリと忍び出たことを、どうやってローガンが知ったのかは少し気になる。彼はあの時まだ王都に戻っていなかったはずだから、彼自身が目撃したのではなく、見張りか誰かがいて報告されたと考えるのが自然だ。


(ユーリと外出した件で揉めたばかりだから、私が『監視されている』と勘違いして怒ると思われたのね、きっと)


 フレイヤが落ち着いた様子だったからか、ローガンは安堵した様子で短く息をつき、腕を差し出した。その腕に手を添えて、書店の中へと入る。


 ハーピーパピリアは、大衆本から専門的な学術書、希少な模写本まで幅広く揃っている書店だ。王都最大なので、実質的にベリシアン王国内最大規模だろう。

 経営者は、学問の名家と名高いアーデン侯爵家の遠縁にあたる子爵家だそうだから、その関係もあって品揃えが充実しているのかもしれない。

 フレイヤが暇つぶしによく読んでいる娯楽小説も、ほとんどがこの店で購入したものだ。


 衛兵が巧みな推理で殺人事件を解決する謎解き物語の最新作が出ていたので、フレイヤはその本を手に取った。

 ちなみにこの小説、フレイヤが『お花事件』で、薄紫の花をローガンが摘んできたものだと判断した手法の参考文献である。


 作中では、縄で壁に固定されていた斧が落下して犠牲者が出た際、縄が自然摩耗ではなく人為的に切られたもの──つまり事件だと、その断面から判断する場面がある。

 それ以外にもドレスへの武器の隠し方や焚き火での暖の取り方など、試す場面はなさそうだが興味深い描写が多く、主人公の衛兵をはじめとして登場人物も魅力的なので、フレイヤお気に入りの連作小説だ。


 ローガンは特にお目当てがなかったようなので、なるべくささっと選んで会計を頼む。


 大量に本を買った人が直前にいたようで、書店員たちは少々慌ただしく動いていたが、さほど待つことなく買い物を終えられた。


 なお、会計は問答無用でローガンが行った。


「……ありがとうございます、ローガン様」

「いや……遠出もできず、フレイヤをずっと屋敷に留め置いてしまっているからな。無聊ぶりょうの慰めに、せめてこれくらいはさせてほしい」


 やはり、今回の外出は諸々の埋め合わせのためのようだ。


 だが、フレイヤとしてはララを贈られたこと、ローガンが本当に申し訳なく思っているとわかった時点で、既に一区切りついている。


 円満離縁計画も進行中なので、過分に与えられそうな雰囲気を感じて少し落ち着かない気分になってしまった。


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