2章 結婚生活の始まり


 ──その日の夜。


 婚礼にまつわるあれこれを終え、賓客を見送ったところで、フレイヤとローガンは二人の新居となるアデルブライト伯爵家の別邸へ向かった。


 ここから先、フレイヤは真の意味でレイヴァーン家を離れることになる。

 侍女も、特に親しい二人のみを残してあとはレイヴァーン家に戻るため、一層孤独感が増した。


(ローガン様は仏頂面どころか吹雪のような視線を向けてくるし、アデルブライト家にも歓迎されていなかったらどうしよう……)


 不安に駆られるフレイヤだったが、彼女を出迎えたアデルブライト伯爵家の使用人たちは非常に好意的で、ほっと胸を撫で下ろす。


 しかし、それも束の間のこと。


「ささ、お疲れでしょうが、むしろここからが本番でございますからね!」


 恰幅のよい侍女が腕まくりをしたかと思うと、休む間もなく湯浴みの時間だ。

 全身くまなく磨き上げたのちに香油でしっとりとした肌に仕上げられ、頼りない薄い布地の寝間着を着せられると、これから待ち受ける行為について考えざるを得なくなる。


(……私、耐えられるかしら)


 それは、肉体的にというよりは、精神的な不安だった。


 婚礼の儀には、王太子とともに、ソフィアも参列していた。

 三ヶ月ぶりに目にする彼女は、やつれたりすることもなく記憶にある姉のままで、フレイヤは密かに安堵したものだ。


 しかし……王太子のもとへ挨拶をしに行ったローガンに姉が何事かを囁き、それに反応した彼が憮然ぶぜんとした表情ながらも微かに耳を赤くしていることに気づいて、胸の奥が鋭く痛んだ。


「フレイヤ……結婚おめでとう。幸せにね。困ったことがあれば、私に言うのよ」

「……ありがとうございます、お姉様」


 優しい笑みで姉が伝えてくれた祝いの言葉に頷きながら、フレイヤの心にはますます影がさす。


(ああ……お姉様には敵わない。もし私がお姉様だったらあんな風に笑えないし、うまくお祝いの言葉だって言えないわ)


 昼間のことを思い出して、フレイヤは浮かない表情になった。それに気づいたアデルブライト家の侍女だが、初夜への不安からだと思ったらしい。

 励ますように「大丈夫ですわ、奥様」と言って微笑んだ。


「旦那様は、今でこそあの仏頂面ですけれど、立派な騎士でございますからね。決して乱暴にされることはないはずです。ゆったりと構えて、できるだけ緊張しないことが肝要ですわ」

「……ええ、ありがとう」


 彼女の言う通り、ローガンは王太子の側近になるほどの立派な騎士だ。

 意に沿わないところがある結婚とはいえ、腹いせに痛めつけるような真似はさすがにしないだろう。


 ふと蘇るのは、あの日木から落ちて怪我をしたフレイヤを慰め、おんぶして屋敷まで連れて行ってくれた、優しいローガンの姿だ。


 たとえ成長して見た目が変わろうとも、彼の根幹までは大きく変わっていない……そう信じたかった。


 むしろ問題は、彼が初夜を遂行できるかどうかだろう。


 ──ローガンとの婚約について知らされる前、フレイヤが父からお小言を食らうのではないかと危惧していた理由である、半ば公然のお忍び外出。


 ごく少数の護衛だけをつけて街に出るにあたり、フレイヤはなるべく身の危険を避けるべく、その長身を生かして男装をしていた。

 当然、近い距離で会話をすると男装だと気づかれることもあるが、街歩きで不用意に目立たないようにするにはそれで十分なのだ。


 青年のような格好で街の店に立ち寄ると、近くにいた男性客たちの猥談が耳に入る機会もそれなりにある。時には、女性客たちの恋愛話に巻き込まれることも。

 そういうわけで、フレイヤは貴族令嬢らしからぬ耳年増であった。


 曰く、本当に好きな相手ができてからは娼館に行く気がなくなっただとか。

 逆に、好きな人には遠慮してできない嗜好があるからこそ、遊び相手を持つのだとか。

 あまりにも好みから外れた相手だと、目を瞑った方が、下半身が役に立つだとか。


(だ、大丈夫かしら……。ローガン様、私のことはずっと冷たい目で見てくるんだもの。絶対に好みからは外れていそうよね。それに、私を見ると……どうしても、お姉様のことを思い出してしまうでしょうし)


 夫婦生活がないとなると、貴族の最大任務であると言っても過言でもない『後継者を作ること』の出発地点にも立てない。


(お姉様は辛い境遇の中で前を向いて頑張ろうとなさっているのだもの……。私も、同じ気持ちを返してほしいだなんてわがままは捨てて、せめて妻として役に立たないと)


 決意を新たにしたフレイヤは、それでもカチコチに緊張しつつ、スープと果物をなんとか口に運ぶ。

 しかし、隙あらば後ろ向きな考えが顔を出した。


(でも……後継者となる子供を成すために嫌々夫婦の行為をするのでは、まるで種馬と肌馬よ。それでいいのかしら。辛い立場にあるローガン様に無理を強いたくはないし、急がなくてもいいけれど……慣習からして初夜はこなさないと、余程冷え切った関係なのかと思われてしまうわ)


 他国では大昔、王侯貴族の初夜がきちんと行われたかを確認する見届け人制度があったという。

 ベリシアン王国では今も昔もそういった風習はないが、それでも、初夜に夫婦の行為をすることも含めての「婚礼の儀」だと考える人は多いだろう。


 フレイヤも、愛情が伴わずともそういったことをするのは当然だと認識している。

 それでもためらいが捨てきれないのは、ローガンやソフィアのこと、そして自分の想いなど、いろいろなものがせめぎ合っているからだ。


(……もし、ローガン様がこの結婚を受け入れて、私と一応は夫婦になろうとしてくださるのなら、受け入れるまでよ。でも、全くそういう気分ではないのに……という様子なら、急がなくていいと伝えましょう) 


 やがて、レイヴァーン家からついてきてくれた侍女のエヴァが「まもなく旦那様がいらっしゃいます」と告げた。


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