「フレイヤお嬢様……!」


 フレイヤ付きの侍女は、普段は伯爵家の使用人らしくそつのない応対をする。しかし、主がこれまで避けていたがためにローガンと間近で接するのは初めてで、フレイヤとそろって硬直していた。


 ようやく動けるようになった彼女は、フレイヤを気遣う声をかけつつワゴンを押す。


「ベラ……お茶を淹れてくれるかしら」

「は、はい! あっ、ですが、渋くなってしまっているかもしれません」

「それでもいいわ」


 彼女の言う通り少し渋くなった紅茶を飲み、フレイヤは肩の力を抜いて溜息をついた。


「お嬢様、大丈夫ですか……? 私、おもてなしもできずに固まってしまって……本当に申し訳ありません」

「いいえ、私もろくに動けなかったもの。無理もないわ」


フレイヤとベラは二人してふぅ、と息をつく。


「アデルブライト卿は……氷の獅子という異名の通りのお方でしたね」

「……氷の獅子?」


 耳慣れない言葉に、フレイヤは首を傾げた。

 はい、と頷いたベラは、何やら興奮した様子で話し始める。


「アデルブライト卿が王太子殿下の側近になられたのは、王太子殿下を襲撃しようとした賊を、あっという間に倒された功績がきっかけだと有名ですよね」

「ええ、その話は私も聞いたことがあるわ。素晴らしい活躍だったとか」

「はい。数で大きく勝る賊を相手に、一筋の怪我も負わず、涼しい顔をしておられたとか。それで、あの冴え冴えとしたお美しさですから……誰が呼んだか、氷の獅子の異名がついたと聞いております」


 初恋の記憶に刻まれた彼には似つかわしくないが、先ほど対面したローガンは、まさしく氷の獅子であった。


 小柄な男性と並んでもあまり目線が変わらないほど長身のフレイヤを、はるか頭上から見下ろす大柄な身体の威圧感。一分の隙もなく鍛え上げられた騎士らしい肉体と、雄々しくなった面差し。


 少年だった頃は細く柔らかさがあった白金の髪も、やや硬質になっていた気がする。

 あの日、凪いだ湖面のようだと感じた瞳は、彼が放つ冷たい圧のせいか、鋭く凍った水面を思わせた。


(“氷の獅子”と呼ばれるような彼でも……きっと、お姉様の前では変わらず、あの照れたような表情浮かべるのでしょうね)


 いつか遠目に見た、二人の姿が脳裏によぎる。


 朗らかに笑うソフィアと、頬を少し朱色に染めたローガン。

 先ほどの、立ち尽くすフレイヤを冷たく見下ろすローガンとでは、雲泥の差がある。


(好きでもない相手に嫁ぐよりはずっとずっと幸せだと思っていたけれど……私を欠片も愛してくれない好きな人との結婚は、考えていたより辛いかもしれないわ)


 どんよりと重くなる心を感じながら、フレイヤは数度目の溜息を吐き出した。




 その後、再びローガンからドレスや花などが贈られてきたが、義務的な行動だろうと思うと、なんとも言えない気分になる。


 フレイヤが「不便はしておりませんので、これ以上のお気遣いは心苦しく思います」という旨をやんわりとしたためた手紙を送ると、それ以後は申し訳程度に時折花だけが届けられるようになった。


 手紙どころかカードすらもついていないので、美しい花に罪はないのに、余計に憂鬱になるフレイヤであった。



◇◇◇



 結局、結婚の日を迎えるまでにローガンと顔を合わせたのは、あの一度きりだ。


 これでいいのだろうかと散々悩んだ数ヶ月だったが、こうして、婚礼の儀を前により一層険しい顔をしているローガンを見ると、会わなくてよかったのだと思えてくる。


 顔を合わせるたびに睨むように見られては、心が擦り減ってしまって、もっと憂鬱な気分で今日を迎えていただろう。


 ──相手が好きな人だからこそ、なおさら。


「フレイヤ、手を」

「……はい」


 大きな彼の手に自分の手をそっと乗せ、教会へゆっくり歩き始める。


 教会の中では、見届人の主教が柔和な笑みでフレイヤとローガンを迎え、婚姻宣誓の儀式が始まった。


「汝、ローガン・アデルブライトは、フレイヤ・レイヴァーンを妻とし、生涯慈しみ、添い遂げることを宣誓しますか」

「……はい。この名にかけて誓います」


 低い声が、ゆっくりと静かに言葉を紡ぐ。


「汝、フレイヤ・レイヴァーンは、ローガン・アデルブライトを夫とし、生涯慈しみ、添い遂げることを宣誓しますか」

「……はい、誓います」


 誓文にサインをし終えたところで、主教がそれを高く掲げ、参列した人々に告げた。


「宣誓は今ここに成されました」


 湧き起こる拍手の中、フレイヤはこれから始まる結婚生活への不安を胸に、ぎこちなく微笑んだ。


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