ローガンの来訪は突然だった。


 王城から新米騎士が伝令係としてやって来て、急遽時間が作れたので訪問したい旨が伝えられる。了承の返事を託してすぐに、フレイヤ付きの侍女総出で支度が行われることになった。


「アデルブライト卿が贈ってくださったドレスに合う髪飾りを持ってきてちょうだい!」

「それなら紅はこっちのがいいわね」

「ええ、素敵!」


 てきぱきとそれぞれの仕事をする侍女たちの為すがままになりつつ、フレイヤは落ち着かない胸の鼓動を感じていた。


(小猿時代のことは記憶から消すとして、今日はきちんと令嬢らしく、婚約者としてがっかりされないように振る舞わないと)


 まともに会話をしたのは、ローガンが寄宿学校に入る前。遠目に姿を見た最後の記憶は、一年ほど前のものだ。


 その時も、姉との親しげな距離感に胸が痛んですぐに目を逸らしたから、まともに記憶にない。


 つまり、フレイヤの中で、ローガンの記憶はおおむね四年前からほとんど更新されていなかった。


(今の彼は、どんな方になっているのかしら……)


 武官の名門アデルブライト伯爵家の嫡男とはいえ、二十歳という若さで王太子の側近騎士に任じられたのは、彼自身に格別の資質があるからに他ならない。


 寄宿学校を卒業した直後ですら、凛々しさと精悍さを持ち合わせた一人前の騎士のような姿だったが、今はもっと逞しい大人になっているのだろう。


 思えば、彼も自分も、最初に出会ったころとは随分変わったものだ。


 ぼんやりと物思いをしていたところで、「アデルブライト卿がいらっしゃいました!」という速報が入り、現実へと引き戻される。


 なんとか支度を終えたフレイヤは、緊張に顔をこわばらせながら、ローガンが待つ客間へと足を踏み入れた。


「ローガン様、お待たせして申し訳ありません」

「……いや」


 フレイヤの姿を見てソファから立ち上がったローガンは、唇を真一文字に引き結び、目元を鋭くする。


 ──出会った時の優しい王子様のような少年の面影は、もはやほとんど残っていなかった。


 獲物を狙う獅子のような、感情の見えない冷たい薄青の眼差しを向けられ、フレイヤの身体が竦む。


 この様子からして──いや、婚約に至る経緯からして無理もないのだが、ローガンにとってやはり、フレイヤとの婚約は不本意なのだろう。


 お世辞か義務かで寄越されただろう手紙や贈り物に少しばかり浮かれ、彼との再会を待ちわびていた自分が滑稽に思えて、フレイヤは視線を床へと落とした。


「婚約も、今日の訪問も……急な話ですまない」

「……いいえ」


 王太子とソフィアの婚約について何か慰めを言うべきかと考えるが、彼の傷をえぐることになりかねない。上手い言い方も思い浮かばないので、フレイヤは無難な他の話題を選択する。


「ご多忙な中、私のことを気にかけてくださりありがとうございます。ドレスやお花も……」

「当然のことだ。……準備をしていて、困りごとはないか?」


 義務的な言葉のはずなのに、俯いて声だけを聞いていると、本当に気にかけているような響きが感じられた気がして、フレイヤは顔を上げる。


 しかし、目が合った途端に彼の眉間に深い皺が刻まれるのを見てしまい、慌てて再び俯いた。


(困りごと……今こうして、夫となる人から睨むように見られていることが一番困る──というより怖いのだけれど)


 内心そんなことを思うが、口にできるはずもない。


「……特に、ありません」


 助けを求めるように室内へさっと視線を走らせると、フレイヤとともに入室した侍女も、ローガンに気圧けおされたのか紅茶が載ったワゴンを押した格好のまま硬直している。


 誰一人着席せず、張り詰めた空気が漂う有様は、とてもではないが婚約者が顔を合わせた場のものではない。


「……君に不自由はさせない。ドレスや宝飾品、馬でもなんでも、不足があれば言うといい」

「お気遣いいただき、ありがとうございます」


 ここで「馬」という選択肢が出てくるあたり、ローガンの中のフレイヤは、まだ小猿か子犬なのだろうか。


 それならそれで、小型動物が死にそうな冷たい目を向けないでほしいと、フレイヤは現実逃避気味に考えることでなんとか平静を保った。


「…………。では、私はこれで」

「……はい」


 立ち尽くすフレイヤの前で、ローガンはふと立ち止まる。


「……フレイヤ」


 低く滑らかな声で名前を呼ばれて、導かれるように思わず顔を上げると、薄青をした感情の見えない目が見下ろしていた。


 この距離で目を逸らしては、流石に心証が悪いだろうと、ぐっと堪える。


 ……そもそもローガンが睨むように見ているので、心証など既に地の底を這っていそうだが。


 奥歯を噛み締め、なんとか逃げずに起立したままを貫くフレイヤ。


 いつまばたきをすればいいのかもわからなくなり、乾燥と緊張から涙目になりかけたところで、ようやくローガンが「また」と短く言って退室する。


 小さな音を立てて扉が閉まると同時に、フレイヤは緊張から解放されて、よろよろとソファに腰掛けた。

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