(いらっしゃるのなら……するつもりなのかしら)


 緊張感が急に増してきて、フレイヤはソファから立ち上がり、室内をうろうろし始めた。


(夫婦のねやで何をするかは、かなり具体的にわかっているわ。驚いたりしない。それに、私は体格的にも普通のか弱いご令嬢よりは頑丈なはずだし……大丈夫、大丈夫……)


 深呼吸をしていると、コンコン、と軽くノックの音が聞こえる。


「はい」


 そっと扉が開き、フレイヤと同じく寝間着に身を包んだローガンが現れる。

 彼は、大柄な体躯とは裏腹に、大型の猫科の動物を思わせるしなやかな動きで、静かに室内へと足を踏み入れた。


「ローガン様……」


 所在なさげに立ち尽くしているフレイヤを見て、ローガンは唇を引き結ぶ。

 その表情は、婚姻の儀で顔を合わせた時よりもさらに険しく、フレイヤは少し俯いた。


「……フレイヤ。初めに言っておきたいことがある」


 フレイヤは、ぎくりと身体を強張らせた。


 一体何を言われるのか。

『私が愛する人はソフィアただ一人だ』『初夜とはいえお前とは何もしたくない』──可能性が高いのはきっと、こういった内容だろう。


 覚悟はしていたはずなのに、決定的な言葉を告げられてしまうと立ち直れない気がして、フレイヤはぎゅっと手のひらを握りしめる。そして、言われる前に自分から切り出すことにした。


「ローガン様。これは、義務のようなものだと心得ております。ですが……」


 ただでさえ、ローガンの意に沿わぬ結婚だ。

 せめて、彼の心の整理がついて、フレイヤとそういうことをしてもいいと思えるようになるまで待つくらいはしたい。


 だから、今日は結婚初夜とはいえ、無理にする必要はない──震える声でそう続けようとしたフレイヤだったが、その前にローガンが険しさを増した顔で頷いた。


「……ああ。わかっている。私もそのつもりだった」

「そう……でしたか」


 自意識過剰のようで、フレイヤはわずかな羞恥心に襲われた。しかしそれ以上に、想像していたものに類するだろう内容を、彼の口から聞かずに済んだことに安堵する。


 一方、眉間に深い皺を刻んだローガンは、重い溜息を漏らした。

 フレイヤは、身のほどをわきまえていることもこの機に示そうと思い、おずおずと口を開く。


「ローガン様……私は、貴方様から愛されたいなどと願ったりはいたしません」

「……!」

「ですので、その……無理はしないでいただければ、と」

「……ああ。君には指一本触れない」

「…………」


 フレイヤは、唇をきつく噛み締めた。


 本当は、ソフィアのように愛されたかった。

 だがこれは、初めから、同じ想いを返してもらえないとわかっている結婚だ。


 無理に心を向けようとしなくてもいい。

 ソフィアに想いを寄せたままでも──辛いけれど、フレイヤより二人の方がもっと辛いはずだから、我慢する。


 だが、いつの日か夫婦として、愛はなくとも支え合っていけるようになればいい。

 それが、フレイヤの願いであり希望だった。


「あの……図々しい願いだとはわかっているのですが、可能でしたら……いつか、私のことを──」

「……それ以上、何も言わないでくれ」


 よき伴侶だと思ってもらえたら、と続くはずだった言葉は、ローガンがやや大きな声で遮ったために、口にできず仕舞いになる。


 険しいというより、悲痛さが滲む表情の彼を見て、フレイヤはじくりと胸の奥が痛むのを感じた。

 

 やはり、ローガンの想いはソフィアにあるのだ。

 不本意な結婚を受け入れられてもいないうちに、いつかの話をされたって、不愉快なだけだろう。


「……申し訳ありません」


 フレイヤの謝罪を最後に、夫婦の寝室には相応しくない、重苦しい沈黙が下りた。

 それからどれくらいの時間が経っただろうか。


「……私は、もう行く。君は、そこで寝るといい」

「えっ……?」


 ローガンは険しい顔のままそう言うと、くるりと踵を返し、寝室を出ていったのだった。


 一人残されたフレイヤは、彼が出て行った扉をぼんやりと眺める。


 結婚初夜、閨事が失敗することや行われないことは大いにありえると思っていたフレイヤだったが、一人置き去りにされるのは想定外だった。


 しばらく呆然と立ち尽くしたフレイヤは、やがてよろよろと足を進め、倒れ込むように寝台に横になる。

 一人には広すぎる寝台はひんやりと冷たく、寂しさと虚しさと惨めさがごちゃまぜになって、じわりと視界が滲んだ。


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