第5話
離れへと続く渡り廊下の前で、司は一度立ち止まる。
「離れに入っても構わないか?」
「ええ、この屋敷はすべて貴方のものですから」
「李瀬のものでもあるだろう」
当たり前のように返された言葉にどう反応したらいいのかわからず、李瀬は口ごもる。
「とにかく……どうぞ、いらしてください」
今度は李瀬が先導し、離れの応接間へと案内する。
李瀬がお茶を淹れると、司は周囲に軽く視線を走らせた。
「八重はどうした」
「私が帰しました。彼女の姪用に薬を作ったので、早くやっておやりと」
「薬……昨日はそれでか」
「ええ、足りない薬草類を採集したかったものですから」
「無茶をする」
「それは貴方の方でしょう」
李瀬は引き際を決めていたし、傷一つ負っていない。対して司は謎の怪我をして、いかにも具合が悪そうだったのだ。無茶がどちらかといえば、どう考えても彼ではないかと李瀬は思う。
「俺は別に無茶をしてああなったわけではない」
「さようですか。傷はよくなりましたか?」
「ああ。元々大した傷ではないし、薬がよく効いたようだ」
「それはよかった」
ほっとして頬が緩む。司は深い黒の双眸で、じっと李瀬を見つめた。
「……さっき、俺が何をしたかわかったか?」
「侍女たちが苦しんでいた時のことでしょうか」
「そうだ」
「霊力か何かしらの術か……でしょうか。私にはよくわかりませんでした」
ごまかしたところでどうしようもないので正直に答えると、司はふっと小さく笑みを浮かべる。
「霊力の方が正解だ。力の制御をやめるだけでなく、多めに放出した結果があれだ」
(兄様から聞かされていたけれど、本当にものすごい力をお持ちなのね)
兄曰く、霊力は普通、他者に干渉されるものではないらしい。しかし、濃密で強大な司の霊力は、漏れ出る分だけでも他者の霊力を侵食し、酷い心地を催すとか。
しかし、近くにいた李瀬も梶も平気だったので、力を向ける矛先は精密に制御されていたのだろう。
「司様ほどとなると、霊力を放出する量だけでなく、対象も操れるのですね」
霊力が乏しく、祓魔師としての鍛錬はほとんどできていない李瀬にとっては、あまりに高度で理解も難しいような域の芸当だ。
感嘆してしみじみと言うと、司はきょとんとしたあと、口を開けて笑い始めた。
「くっ……ははははっ! そう来たか。ふ、ははははっ!」
「そんなに笑わなくても……。貴方にとっては、私はあまりにも弱くてお笑い
「いや、そうではなく……くくっ」
何が笑いのつぼに入ったのか、ひとしきり笑って涙すらも浮かべた彼は、しばらくして長い息を吐き、ようやく落ち着く。
「流石の俺も、そんな芸当は無理だ」
「え……? では、なぜ梶殿と私は平気だったのでしょうか」
祓魔師の屋敷で住み込みの使用人として働くのは、祓魔師になれないほど弱いが、霊力を持つ者がほとんどだ。霊力があるために妖魔に狙われやすいので、屋敷の強固な結界に守ってもらうのである。
李瀬は名家の娘とは思えないほど弱いものだが、一応霊力自体は持っている。なのに、霊力の干渉を受けた感覚がまったくないのはどういうことだろうか。
「梶に関しては単純な話だ。あいつには霊力がまったくないから、霊力の干渉も受けようがない」
「そうだったのですか」
「李瀬に関しては……なんだろうな。何か感じたか?」
「……少しひんやりした気がしました」
「それだけで、なんともなかったのか」
「……はい」
霊力の干渉にも気づけないほど、自分の力が微弱だったとは。祓魔師としては出来損ないであると自認していたにもかかわらず、現実を突きつけられるとそれなりに切なくなってしまう。
しかし、司は面白そうに目を細めた。嘲るような様子はなく、ただただ興味を引かれているような雰囲気だ。
「本当に、なんなのだろうな。お前には、清流のような気がある」
「はぁ」
突然よくわからないことを言われて、李瀬の口からは気の抜けた声が漏れた。
「清流、ですか」
「ああ。熱を冷まし鎮めるような気だ」
「……よくわかりません」
軽く肩をすくめた彼は、それ以上説明するつもりはないようで、早々に話を変える。
「……五年も関わらずにいた俺を恨むか」
「いいえ」
李瀬は迷わず答えた。正真正銘の本心なので、即答だ。
「だが、離縁を望んだだろう」
「先ほど申し上げた通り、私たちの結婚を決めたのは、今は亡き前当主ではございませんか。これ以上は無用だと思うのです。私には幸い薬学の心得があり、生計も立てられます。力が弱い上に存在感も薄いのか、妖魔にも気取られづらく襲われません。市井で一人で生きていてもおそらく無事でいられるでしょう。私のことなどどうぞ気にせず、夫婦の縁をお切りください」
「何がなんでも離縁したいというわけか?」
少し細められた目が、真意を探るようにひたりと李瀬を見据える。
「好いた男でもいるのか」
「まさか」
「では、俺が望めば離縁を思い留まるか」
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