第2話
山で調達したい材料は三種類。そのうち樹皮は、お目当ての木がある位置を既に把握していたのですぐに入手することができた。
昼休憩のあとに、地下茎の部分を使う薬草も無事発見し、残るは一種類。綺麗な水辺に生えるやや珍しい薬草を探し、李瀬は沢に沿って山の中を歩いた。
「……ない」
探し始めて早三時間──李瀬は、疲労で小刻みに震えるふくらはぎをもみほぐしながらため息をついた。
夕方が近づき、太陽の位置が低くなっている。これまで日中の山歩きで妖魔に襲われたことはないが、日没後がどうなのか我が身で試すほど愚かではない。一時間以内に屋敷に戻らなければと焦りが生じる。
(最後にこの下流を見て、一旦帰りましょう。重要な材料ではあるけれど、今あるものでひとまず薬を作ることもできるのだし。私に何かあれば八重まで苦しめることになるわ)
薬を作るために山に入った李瀬が妖魔に襲われるなどして大怪我をしたり、落命したりするようなことがあったら、姪の病について相談したせいだと八重は自分を責めてしまうだろう。
五年もの間献身的に生活を支えてくれている彼女にそんな思いをさせたくないし、李瀬とて自殺願望はないので、安全第一だ。
自分の中で期限を決め、少し空気がひんやりとしてきた山中を進むこと十分ほど。
「……あ、あった!」
ここへきてようやく、お目当ての薬草が数本生えているのを発見できた。
使うのは葉の部分なので、それぞれから数枚、全部で十枚ほどの葉を採集し、袋へ仕舞う。
「よかった。これで子供用なら十分な量を作れるわ」
あとは帰って調薬するだけだ。ほっとするが、雲が流れてきたのもあり周囲がだんだん薄暗くなってきた。
この様子では、日没より早く暗くなりそうだ。
(早く屋敷に戻らないと)
麓へ向けて出発してまもなくのことだった。
(あれは……人……?)
少し先の岩陰に人のようなものが見えて、李瀬はぴたりと動きを止めた。
目を凝らしてみると、大岩にほとんど隠れていてこちらからは左肩と腕の一部しか視認できないが、やはり人にしか見えない。
嫌な予感がして、李瀬は恐る恐る足を進める。
そこにいたのは、一人の男性だった。目を閉じたまま大岩にぐったりともたれかかっており、頬や唇にあまり血色が感じられない。腕を怪我しているのか、手から指へと伝った鮮血が、沢へぽたぽたと落ちていた。
「だ……大丈夫ですか!? しっかり!」
飛び上がりそうになりながら、李瀬は男性へと駆け寄る。呼吸や脈の確認をしようと傍らに膝をつくと、男性のまぶたがゆっくりと開いた。やや虚ろな深い黒の双眸が、李瀬へと焦点を定める。
「構うな。しばらくすれば楽になる」
「……
ゆっくり一度まばたきをしたあと、「そういう楽ではない」という返事があった。ではどういうことなのかわからないが、死にたくてこうしているわけではないとわかれば十分だ。
「もうじき日が暮れます。おぶることはできませんが支えるくらいならできるので、急いで麓へ行きましょう。まずは手当てをします」
「俺は平気だ。気にせずともいい」
「強がりはあとにしてください」
血の気の引いた顔をして何を言っているのか。李瀬は彼の言葉を流し、応急処置用の薬と包帯を取り出した。
「傷はどこですか?」
岩の上にだらりと投げ出されている腕をそっと取る。手首寄りの前腕に、一筋の傷があった。深く大きな傷ではなく、切り口も綺麗なので、圧迫して止血すれば大丈夫そうだ。
「岩場で切ったのですか?」
問いかけつつ男性を見ると、何やら驚いたように李瀬を凝視していた。先ほどより目に生気が宿っている。
「……いや」
「では
「ない」
顔色の悪さは毒などによるものではないらしい。それがわかれば十分だ。
李瀬は傷口に薄く薬を塗り、包帯を丁寧に巻いた。
「歩けますか?」
「ああ」
男性がゆっくり立ち上がる。足取りもゆっくりではあるが、自力で歩けているのでほっとして、李瀬も横に並んだ。
(……改めて見てみると、行き倒れていたのが不思議な人ね)
生死不明の人間を発見して気が動転していたが、落ち着くといろいろな疑問が浮かんでくる。
男性はすらりと背が高く、年の頃は二十代後半といったところだろうか。服の布地は上等に見えるし、手荒れもない。髪や肌にも艶があり、日に焼けて傷んでいる様子がない。
幼少期から栄養状態が良く、手を日常的に酷使していないとなると、裕福な生まれ育ちの人物だろう。
かんばせは涼やかで、表情が乏しいため冷たく見えるが、造形がとても整っている。街中で会ったならば、つい遠巻きにしたくなるような、どことなく圧のある美丈夫だ。
(前腕の傷といい、わけありかしらね。手当ては済んだのだし、深入りはよしましょう)
時々足元がふらつくので、さっと手を貸しつつ、二人は山を下る。
もう間もなく麓が見えてくるという時、無言だった男性が不意に問いかけてきた。
「……君は」
祓魔師のことは知らずとも、一条家は裕福な名家として知れ渡っている。名乗るとあっという間に身元が割れてしまうだろう。
こうして屋敷を抜け出していることが八重以外の侍女に知られると面倒なことになりそうだ。なるべく伏せておきたい。
「……しがない薬師です」
とりあえずそう答えるが、これでは流石に不足があるかもしれない。手当てをした以上、完治までに何かあった場合に相談できるよう、連絡手段を用意しておくのが筋だろう。
「薬が合わなかったり、追加で必要であったり、何かあれば……あの大きなお屋敷で働いている八重という者にお伝えください」
ちょうど木立を抜け、お屋敷が遠くに見えたので、指し示しておく。黒い双眸が、じぃっと李瀬を見つめた。
「その……私は店を持っていないのです。細々と薬を卸しておりまして、八重がその取り次ぎをしてくれていて」
「そうか」
それ以上深く尋ねられることはなく、李瀬は胸を撫で下ろした。
雲間から西日が射すころ、二人は麓に到着した。
「もう具合は大丈夫でしょうか?」
「ああ。手間をかけたな。もうすぐ日が暮れるから送っていこう」
「いえ、すぐですのでお気遣いなく。どうぞお大事になさってください」
送られるといろいろと面倒なことになりかねない。たとえば、侍女に見られて不貞だなんだと騒がれるとか、薬師をしていることが一条家に知られるとか。
面倒事は御免なので、李瀬は返事を聞くことなく退散するのだった。
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