第2話


極力存在感を消し、息を潜めてひっそりと生きて、李瀬は十二歳になった。


父に呼び出されたのは、そんなある日のことだ。


侍従を差し向け、日中の執務室へ呼び出すのだから、少なくとも外へ放り出されて妖魔の餌にされる心配はないだろう。いや、そう思わせて油断させる気かもしれない。

李瀬の存在ごと疎ましく思っている父が今になって呼び出してくる理由がわからず、緊張が高まる。


恐る恐る足を踏み入れた先にいた父は、見たこともないくらい上機嫌だった。


「おお、来たか、李瀬」と名前まで呼ばれ、怖気立つ。記憶にある限り、李瀬は父から名前を呼ばれたことがなかった。父がこんなに上機嫌になるなど、一体何があったのだろうか。

どうにも嫌な予感がして顔を強張らせていると、前置きも何もなしに父が告げる。


「お前の結婚が決まった」

「……えっ?」


それは、あまりに予想外の言葉だった。

力が乏しく、他の名家との結びつきを強める政略結婚の駒になりえない李瀬は、父にとって無用なものだったはずだ。なのに、結婚とはどういうことか。


「嫁ぎ先は一条家。次期当主のつかさ殿がお前の夫となる。婚儀はお前が十六になり次第行う。お前のような出来損ないにはもったいない話だろう? 話をまとめてやった私と一条の当主に感謝することだな」


一条家といえば、何代も続けて祓魔師界筆頭の実力者を出している、名門中の名門だ。屋敷に籠もっていた李瀬ですら、跡取りの司がとても優秀だという噂を耳にしたことがある。


そんな大層な人物と出来損ないの自分が、なぜ結婚などすることになったのだろうか。理解が追いつかないまま、李瀬は父の機嫌を損ねないよう「ありがとうございます」と口にした。


「話は終わりだ。私は出かける。もう下がっていい」

「はい」


退出を許された李瀬は自室へと戻る。何が一体どうなっているのか、さっぱりわからない。


ただ、父にとって自分が『完全なる無用の存在』ではなく、『有用な駒』になったのは間違いない。これで命の危機からは脱せただろうか……と考えていた時、兄の訪れがあった。

兄は、唇を噛み締めていた。


「すまない、李瀬」

「……? どうしたのですか?」

「結婚の話を止められなかった」


兄は十五歳。祓魔師としての実力では既に父を超えているそうだが、当主交代には早すぎる。

次期当主として尊重されこそすれ、実権をまだ持たない兄が止められる話ではない。

しかし、止められるのであれば止めたと伝わる言は、この結婚話に裏があることを示していた。


「……お相手の司様は、酷い方なのですか」

「そういうわけではない。彼自身も難儀していると思う」

「では、なぜ……」

「彼は稀代の祓魔師だ。百年に一人いるかいないかの逸材だと言われている。僕自身はあまり話したことがないが、驕るでもなく淡々と仕事をこなしていて、人格的に大きな問題があるという話も聞いたことはない」


李瀬は首をかしげた。

兄が語ったのは褒め言葉だ。結婚を止められなかったと悔やむ理由からはずれている気がする。強いて言うなら、出来損ないの李瀬とはあまりにもかけ離れていることだろうか。


「私では到底釣り合わないと」

「そもそも、彼に釣り合う人など今の祓魔師界に存在しない」


もしや、兄は司の熱狂的な支持者なのだろうか。

胡乱げな目をする李瀬に気付いたのか、兄は頬を掻いて訂正する。


「いや、今のは語弊があるな。より正確に言うなら、彼の力に耐えられる者なんていないんだ」

(力に、耐えられない……?)


ますますよくわからず首を傾げる李瀬に、兄は名門七家の限られた人しか知らないという裏事情を教えてくれた。


「司殿は強すぎるのだ。霊力が膨大かつ強力で、制御しきれぬほどらしい。漏れ出る霊力だけでも周囲に影響を与えるものだから、霊力持ちは迂闊に近寄れない。実際、僕も近くに行った時、霊力が干渉を受けて最悪な気分を味わった。異質な力が自分の中へ、反発を起こすのにじわじわ流れ込んでくるんだ。あの感覚のおぞましさといったら」


その時のことを思い出したのか、兄は苦い顔になる。


李瀬も一応、霊力や祓魔について基礎的なことは教わっているが、霊力が干渉を受けるなど初耳だ。

霊力は、余剰分がじんわりと体外に滲み出るため、霊力持ちは近づけば相手の強さをなんとなく推し量ることができるらしい。しかし、他者の霊力はあくまで知覚できる程度で、侵食されることがあるとは知らなかった。


それほどに司は異質で特別な強さを持っているのだろう。


「妻となれば、近寄らないわけにはいかない。あれを毎日何時間も味わうなど……拷問に等しい。父上は、李瀬は霊力がかなり弱いからまだ影響が薄いと考えたのかもしれないが、それでも無事でいられるか……。子をもうけようとするならなおさらだ」


李瀬は他者の霊力を感知することもできないので、兄が味わった恐ろしい感覚がどういうものなのかわからない。

しかし、気丈な兄があれほど嫌がるものなのだ。よほど酷い感覚だったのだろう。


「私なら、少しぞわぞわする程度かもしれません」

「だといいのだが。結婚するころには霊力の制御も今より向上している可能性もある。だが、嫌な感覚があれば無理せず、近寄るのはどうしてもの時だけにして、影響を最小限に抑えるんだ」


とても結婚に向けての助言とは思えない内容だが、李瀬は静かに頷いた。


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