第35話 恐怖


 アリナのクラスのお化け屋敷は大盛況だった。

 男女問わず多くの生徒が来てくれて、多くの悲鳴が教室内にこだましていた。

 その悲鳴がさらなる反響を呼んだのかもしれない。芸術祭一日目の午後は慌ただしく過ぎて行った。


(さ、さすがに疲れた)


 井戸から顔を出すだけとはいえ、ほとんど立ったままだ。


 暗闇のなか、薄暗いライトの明かりに照らされた井戸から顔面を黒髪で覆った白装束の女が出てくる。

 井戸の横に道があるのだが、多くの客はアリナの姿を見て悲鳴を上げて逃げて行く。


 迷路自体は難しい作りではないものの、行く先々にお化けが登場するからか難易度が高くて、多くの挑戦者があとを絶たない。

 果敢にもひとりで参加する自信満々な令息が、恐怖に負けて逃げ惑っていたり。

 婚約者なのかカップルっぽい男女が仲良く抱き合いながら走っていたり。

 普段は見ることのできない貴族の様子を眺められるのは、けっこう楽しい。


 その様子を眺めているのは爽快感があるものだが、だからと言って井戸から顔を出したり引っ込めたりするのは結構大変だ。


(そろそろ今日の当番は終わりかな。……そういえば、リシェリアを見てないようなぁ)


 来ると約束はしてくれたものの、予想よりもお化け屋敷の客入りが多く、途中で整理券を配ることにしたようだ。もしかしたら整理券の配布に間に合わなかったのかもしれない。


(明日は特別にリシェリアの分の券も用意しておこっと)


 芸術祭の一日目は、そんな感じで過ぎて行った。



 明日もまだ当番がある。それに午前中はリシェリアと一緒に芸術祭を回る約束をしていた。

 白装束から制服に着替え、髪の手入れをしているとクロエが近寄ってきた。


「今日は大盛況だったわね」

「うん。皆の悲鳴が聞けて、楽しかったよ」

「……それは、あまり大きな声で言わない方がいいのではないかしら」


 しまった。思わず本音が出てしまった。

 アリナが口を押さえると、クロエがクスクスと笑う。


「でもアリナさんの気持ちもわかるわ。貴族は表情を取り繕うのが上手な人が多いの。だけど恐怖の前には素が露わになるから、実は婚約者を誘ってくる令嬢が多かったのよ」


 確かに男女の二人組が多いように思った。


「婚約者の意外な一面にときめく人もいれば、幻滅する人もいる。ある意味度胸試しみたいなものよね、お化け屋敷って」


 そう言いながらも、どこか嬉しそうに口を綻ばせているクロエを見て、アリナは思い出した。


「そういえばクロエ様、男の人と一緒にいたよね?」

「ええ。……私の婚約者なの。少し年上の人で、気が弱くて頼りない感じはしたのだけれど、良い人だったわ」


 同じクラスのクロエは、お化け屋敷の迷路を熟知しているのと、意外と肝が据わっているから作り物で恐怖を感じてはいなかった様子だった。

 だけど彼女と一緒にいた婚約者の男性は、身を振るわせてびくびくしながらも、アリナが井戸から顔を出すとクロエを庇っていた。足は震えていたし、確かに頼りなくは思えたものの、クロエを守る姿には尊いものがあった。


 顔を赤くしたクロエはその時のことを思い出しているのかもしれない。

 自分の世界に入ってしまったクロエの様子を見て、アリナは手を合わせて感謝をした。


 その後、正気に戻ったクロエと少し話をしてから解散をすることになった。

 教室内にはもうほとんど生徒が残っておらす、ヴィクトルの姿も見えない。

 それに安堵と共に寂しさを覚えながらも教室から出ると、そこにはシオンが待っていた。


「シオン様。お待たせしてすみません」

「いえ、私の仕事ですから」


 芸術祭中は外部からの来訪客も多いため、寮と校舎の行き来は必ずシオンが護衛してくれることになっていた。

 昼間は芸術祭の警備に駆り出されている。ちなみにシオンのクラスの出し物は研究発表らしく、出し物の当番等はないらしい。研究発表はいちばん楽な出し物の為、上級クラスのほとんどがそうらしいけれど。


 明日も芸術祭があるからか、ほとんどの生徒は家に帰るなどしてく学園の廊下に人気はなかった。

 昼間の喧騒とは大違いの様子に少し物寂しさを覚え、アリナはシオンに話を投げかけた。


「そういえば、クラリッサ様の調子はどうですか?」

「今日は元気そうでしたよ」

「よかったです。あれ以来、倒れたりはしていませんか?」

「はい。おかげさまで」

「あ、そういえばクラリッサ様が前に話していたのですが、シオン様と一緒に」

「あの、アリナさん」


 落ち着いた声に振り返ると、シオンは立ち止っていた。

 窓の外に広がっている夕闇のせいで、彼の表情はよくわからない。


「どうしてさっきからクラリッサの話ばかりされるのですか?」

「え、なぜといわれましても。……クラリッサ様とシオン様は仲が良いですよね?」

「婚約者ですから」


 少し悲しそうなシオンの声。

 その纏う雰囲気に、少し既視感を覚えた。


(……あれ、これってどこかで……。確か、前世のゲームで見た覚えが)


 思い出す前に、シオンが近づいてくる。


「せっかく私とふたりっきりなのに、どうしてクラリッサの話しばかり……。私の前で、他の人の話をするなんて」

「……えっと、でもクラリッサ様ですよ? シオン様の婚約者の?」


 背中に悪寒を感じる。このままここいたら危ないと思いながらも、足は動かなかった。


「ただの婚約者です。私にとって特別なのは、アリナさんなんですよ?」

「えっと、それは……どういう意味ですか?」


 二学期が始まってからシオンと護衛以外で接することはなく、好感度が上がった気配もなかった。だからゲームのシナリオのように、メンヘラ化することはないはずなのに……。それどころか、シオンとクラリッサの仲は以前よりも深まっていたはずだ。

 だからこのままシオンルートは自然に消失してもおかしくはないと、アリナは考えていた。


(何か、おかしい)


 考えようにも、騎士であるシオンの動きは素早く、もうすぐ目の前にいる。

 近くで見る紫色の瞳には光が無く、代わりに何か赤いものが見えたような気がした。


「アリナさん……。私を捨てるのですか? 私といると楽しいと言ってくれたのも、甘いものが好きな私を気遣って一緒にのも、すべて嘘だったのですか?」


「――え」


 ギリギリ出たのはそんな声だった。


(おかしい。少なくとも、私はシオンと一緒にケーキ屋さんに行ってない。行ったのはクラリッサで……ッ)


 シオンに腕を掴まれる。

 思ったよりも強い痛みに顔を歪める。


「アリナさんはいつもそうです。思わせぶりな態度ばかりして」


 シオンの言っている意味がわからない。

 確かに最初の頃、少しシオンの好感度を上げるために、ゲームの台詞を口にした。

 だけど、それがシオンメンヘラ化のバッドエンドルートになるなんて思うわけがない。


(それにバッドエンドルートには早すぎる。少なくとも、冬の遠征が終わるまではエンディングにならないはずなのにッ)


 どうしたらいいのだろうかと考えるが、ゲームのシナリオを思い起こしても、対応策は思いつかない。


「ゲーム、だったら……」

「ゲームとは、遊びのことですよね。……つまりアリナさんは、私で遊ばれていたということなのですか?」

「ち、ちが……ッ」


 ここはゲームの世界だからと、そのシナリオをもとにシオンの好感度を少し上げたことを思い出す。


(でも、あれはシオンのメンヘラを回避するために……)


 それでもゲームの世界だからと楽に考えていたことはある。

 だからシオンの言っていることも間違いではないのかもしれない。


「そうなのですね。……残念です」

「し、シオン」


 その顔を見て、ぞっと悪寒がした。

 いますぐ逃げなければと思っても、体が言うことを聞かない。


(怖い……ッ)


「ああ、怖がらないでください。アリナさんに危害は加えませんから」

「い、嫌ッ……!」


 ぶんっと腕を振り回すと、驚いたのかシオンの力が緩んだ。

 腕が解放されて、その隙にアリナはシオンに背を向けて逃げ出す。


(どうしよう。何かっ。何かないかなっ!)


 自分がシオンの身体能力に勝てるとは思えない。

 だからすぐに追いつかれてしまうだろう。その前に、できることと言えば。


(そうだっ!)


 ポケットに手を入れる。

 誘拐未遂の事件のときから、念のためにポケットに入れていたポプラの花を取り出す。


「アリナさん、待ってください!」


 正直、これを使うのは怖い。

 だけど、いまは考えている余裕はない。


 ずっとポケットに入れていたのに、しなびたり枯れる様子もないポプラの花をギュッと握りしめた。

 実際に魔法を使うのは初めてだ。ゲームみたいにタップするだけなら楽なのに。


 使い方は、ポプラの花を手にした時からなんとなくわかっていた。


 祈りを捧げるようにギュッと握りしめる。


「お願い、時を戻して!」


 その時、脳裏に囁きかけるような声が聞こえてきた。


【時を戻すと、この時はもう一生戻ってくることはありません。それでも、時を戻しますか?】

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