酒かすと米ぬか

月岡夜宵

酒かすと米ぬか 本編

 孤独りひとり、月明かりを洋燈ランプに、言の葉を飾る。原稿用紙に手書き、ボールペンで文字を配置していく。将棋の駒を置くように、一手、また一手と、時間をかけて、作る。

 伸びっぱなしの無精ひげは誰に気兼ねすることもなくさらしている。くたびれた紺色の作務衣さむえはところどころ黄ばんでいるが、大したことはない。

 あぐらをかいて、時折机に置いた麦茶をすすりながら、わたしは原稿用紙に向き合う。

「ふわあぁ、……ん。もうこんな時間か」

 室内はすでに薄暗かった。

 虫の鳴き声が開けた窓から入ってくる。電球の切れた部屋で、わたしはくしゃみをした。


 隣の部屋からはときどきラジオの音がしていた。季節は冬将軍が戦の準備を始めたと伝え、もう厚着をすべきかと番組のコーナーではお天気お姉さんと司会が話し合っているようだ。


 寂れた下町の一角、老夫婦の家主が管理するボロアポートでの暮らし。畳の四畳半にはちゃぶ台が一つ。青い座布団が二つ。片方は尻の部分に穴が開いたまま放置されている。ふすまの奥の押し入れには布団が一組だけ収納されているが、せんべい布団は最近とみに寝心地が悪くなっていた。

「ああ、これでもダメだ」

 卓の横に置かれた字引の上に、ちり紙みたいな紙くずが転がっていった。

 冷蔵庫のコンプレッサーが見とがめるようにぶうんぶうんと音うるさくうなっていた。


   *


 めがねのなかにはおんながいる。


 長年わたしを悩ます幻想イルージョン

 偏頭痛で医者にかかれば、酒のやり過ぎで幻覚を見ているのだと笑われた。それっきりあのヤブ医者にはかかっていない。


 女の像が見えるからわたしはめがねという道具がきらいだった。

 なんだか、ひどく、心の臓の奥をわし掴みにされるような気が、して。


   *


 いまではこんなナリのわたしも、昔は、まっとうに働いていた。

 真面目に勤労し、取引先には愛想よくごまをすって、たまに上司の愚痴をぼやき、華の金曜日にはよく飲み明かしたものだ。


 ところがわたしは考えを改めた。

 そうだ、本当に小説家になってやろう。

 会社の出勤や学校の登校時刻だった。反対の方向を往くわたしはそのときにはもう流れに逆らっていた。久方ぶりに感じる清清しい思いがした。

 わたしは辞表届を書き、それを上司の机に無断で置いて来たのだ。

 上司の一言が極めつけだった。

 わたしは仕事とはべつに休憩時間で書き物をしていた。暇を縫ってせっせと書きためていたそれを、あろうことか上司はゴミ箱に捨てながら言ったのだ。

「小説だって? 馬鹿馬鹿しい。学生気分じゃ困るんだよ、宮崎クン。そんなものを書く暇があったら仕事をなさい」と。

 周囲に見せつけるように、恥をかかされた。

 机の下で拳を握って震えた。からだが、ではない。魂がぶるぶると沸騰した湯のように吹きこぼれていくのだ。体の内では到底我慢ならない熱は足下にまで広がっていく。

 社会的に報復できぬならば、せめて作家らしく文で射殺そうと躍起になった。

 わたしはますます執筆にのめり込んだ。


 ところが、決意はしたが状況はなかなか思うようにはいかなかった。

 業を煮やしたわたしは文壇ぶんだんくみする生き方をすることにした。

 まず著名な文人がするようにわたしも飲み屋を訪れた。かの文豪が愛したとされるウイスキーに舌鼓。それっきり、酒に溺れた。それはもうずぶずぶと。

 入り浸るはいいが、わたしにはすこしばかりのポケットマネーしかなかった。日銭というには心許ない。食べるだけで一日が終わってしまいそうな、小遣いだった。

 だというのに居酒屋のツケは膨れ上がる一方。店主にも看板娘にまで文句を言われるが返済についてはとやかくいわれないのをいいことに、週末たびたび飲みに出かけたものである。


 先輩たちの真似をして煙草までふかし始めた日には、子供たちから邪険にされるようになった。ろこつに顔をしかめて逃げ出すわが子。イヤイヤと首を振ってきらいだ絶交だなんだとさえずるこどもたちに、逆に、わたしは気を良くして一服した息を吹きかけてやったこともある。しっしと笑ってやると子供たちは泣き出した。妻には拳骨げんこつをくらった。わたしはすねて、部屋にこもった。

(こんなに深い匂いだというのになぜいやがる?)

 わたしは首をかしげた。すでにれっきとした煙草の中毒者であった。

 子供たちはそれっきりわたしを見限ったようだった。近づくことも挨拶を交わすことすらなくなり、父親とも呼ばなくなった。


 現代ではわたしのようなやつを「want to be」、ワナビ(ー)とも蔑むらしかった。作家になりたがっているわたしはたしかにそうだろう。

 妻とは酒や煙草のことで喧嘩したっきり別居を言い渡された。このちんけなアパートをみつけて部屋に居座っている。子供たちには愛想を尽かされていて、四十後半にもなってもまだ作家なんて子供じみた夢をみる成人には飯も恵んではくれなかった。なんて、子供心のない。


 社会から切り離されたちっぽけな部屋。

 数々の文芸雑誌に送った力作も、ほとんどがなしのつぶて。

 気前のいい雑誌や出版社が返す総評にはこう書かれてあった。

『こちらは小説ではありませんので批評は見送らせていただきます』、と。

(ふざけるな!)

 続きは読まずに破り捨てた。

(小説ではない、だと!?)

 この頃のわたしは日々に鬱屈うっくつとして情緒不安定であった。

 顔見知りの先輩どころか後輩までがわたしを追い抜き本を出す、作家になる。


 わたしはうすうす自覚していた。

 自分でもいやになるぐらいにわかっていたのだ。


 さいのうが、なかった。

 致命的に。

 ほんとうに分不相応なゆめ・・だった。


   *


 目の前がぼやける日々が増えてきた。

 文字を視るもインクがにじんで誤字が増えた。

 眉間を揉んで、濡れタオルで目頭を温めた。こうするといくぶんかましになった。


 本に見向きもせず、机にかじりついて、小説をかく。

 四季が移ろってもわたしの生活は変わらない。春のさくらも、夏の砂浜も、秋のもみじも、冬の雪室かまくらですらわたしの心を縫い止めはしない。


(妙に冷え込むと思ったら、うう寒いわけだ)

 朝日に照らされた窓の外にはシャリのような銀の輝き。こどもがはしゃいだ痕跡、犬猫の小さな跡、てんてんとしている。

 最近は雪明かりでもめっきり目が痛くなるようになってきた。今日はカーテンを閉めて書こうと昼間なのに電球をつけて執筆にいそしむ。ガタガタいうストーブを引っ張り出してマッチで火をつけた。かじかむ手を温めるよう近づけて、暖をとった。



 書いた、

 書いて、

 また書いた。

 捨てて、

 拾って、

 書いては、また捨てた。


 潰れた文字が夢を辿ったたどった自分のようにみえる。原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めて握りつぶした。力いっぱい乱暴にゴミ箱に放り捨てて。ちゃぶ台にまた向かう。

 愚かだ、と思う。こんな風にまだ打ち込み続けることがばかみたいだと。くすぶりつづけている自分が、燃えかすみたいな人生にも。書き散らして、なんど心臓を刺して、自分の心をえぐり出しても、一返も戻っては来ない。


 わたしには、命を生む〝才能〟がない。


 どんなに書いたって言葉は届かない。

 それでもわたしは原稿用紙に向かうのをやめられそうにもなかった。


   *


 強がりで書き続けた、来る日も来る日も。雨の日も風の日も嵐の日ですら、叩きつけられる轟音にもめげず、立て付けが悪いせいで悲鳴みたいな音をならす窓枠にもまけずに。

 木枯らしの吹く秋が過ぎていった。

 しもやけで赤くなった指先でボールペンを走らせる。

 まだわたしの作家生命は生きていた。

 調子のいい時期だった。

 座布団に座り込み、平気で二時間でも三時間でも粘れていた。雪隠せっちんも忘れて、万年筆すら用意できなかった作家もどきは書き続けていた。


 妻が倒れた、と連絡が入ったのは、新作が思いついてそれどころではなかった時だ。第一報は、大家夫婦が代わりに連絡を受けて人づてに聞かされた。それでも我関せず書き散らしていた。

 堪忍袋の緒が切れた息子が扉を蹴りあげるようにやって来た。土足で踏み入ったことに注意したわたしに怒り心頭に発す長男は叫んだ。

「母ちゃんが呼んでんだよくそ野郎! でてこい!!」

 わたしは返事もそこそこに原稿に向き合った。

 息子が息をのんだ気配がした。

「……なんでまだ、そんなもん書いてんだよ」

 絶句、していた。わたしは続きを書こうとしてその反応も無視していた。勝手に帰るだろうと高をくくるわたしに拳がめりこんだ。頬への強烈な殴打だった。入れ歯になった作り物の歯が勢いで飛んで行った。

 荒げた息づかい、息子はすぐに崩れ落ち、勢いはなくなる。顔をおおって絞り出したのは。

「母ちゃん……、もうすぐ死ぬんだって」


 このふたつの裸眼はいつのまにか曇っていたらしい。

 し、が、「死」に結びついた時、わたしはようやく歩き出した。よろよろと玄関から外へ、下駄を掃き忘れていたのに気づくと、つっかけて、今度は病院を聞き忘れていたことに気づき、長男におずおずと切り出した。息子は答えてくれた。連れていく、と。いつの間にか免許を取ったらしく愛車の真っ赤な軽自動車に乗って走り出した。


 ヤブにかかったきり――あれは町医者だったが――病院などと訪れたことはなかった。

 息子はずっとにらんでいた。口数もなく、わたしをただ案内する。

 病院くんだりまで会いに来たわたしだが、その浮浪者じみた格好のせいで、受付で止められた。息子の説明でなんとか中には入れたものの、わたしはますます不安を覚えた。

 薄暗い通路をひたすら進んだ。ジメジメとした鍾乳洞の内を歩くように、病院の廊下を進んで、やっと四人部屋にたどりついた。

 ネームプレートには懐かしい名前があった。わたしは、まだ、妻の名前は覚えていたらしかった。 

 よぼよぼの小汚いおっさんが進むのを手前の子供たちが不審そうな目でみている。向かいの老人はあからさまに顔を背け、布団に引っ込んだ。下手な行動をしないよう、看護師は警戒しているのか、わたしたちの後をついてくる。


 静かだった。区切られたスペースのベッドで眠る、妻。点滴が落ちていく。

 かすかに聞こえる呼吸音。

 安らかな顔をして、妻はかろうじて生きていた。


 気づけば口にしていた。

「倒れた? 死ぬって、まさか、あと、どれだけ……」

「もう短いんだって」

(家内が、……死ぬ?)

 わたしは、まだ、遠い。同じ列車に乗っていた人間が、二言三言話し意気投合した相手が、急に列車を降りて駅にいくという。親しんだ顔が人生を下車する、と。

「っとに、クソだクソだって思ってたけどアンタほんと最低だよ!」

 息子はわたしにえらい剣幕で詰め寄った。

「やめなよお兄ちゃん。こんな人、親でもなんでもない。今更……むだだよ」

「母ちゃんの人生はどうなるんだよ……。おまえのせいで!!」

 息子は再び崩れ落ちた。

(わたしのせい?)

 眼鏡が狂っていたのはわたしの方だった。わたしは、妻の人生を食い潰した害虫だったのだ。

 飲み屋のツケの代金は妻が翌日律儀に支払い、吐瀉物としゃぶつをまいて地面で倒れていれば、顔見知りの連絡を頼りに急いで駆けつけ、わたしをアパートへ連れ帰り介抱していたという。子供たちを寝かせてからもこっそりアパートを訪れたこともあったという。

 激昂げっこうする息子から聞かされた内容に覚えはない。それが真実。

 どこからか捻出ねんしゅつされて貯金箱に入れられていた小遣い、あれは妻が稼いだ月給だという。

 作家として生きてきた。常に言葉と歩んできた。

 そのわたしが、ことばをうしなっていた。 





 高校を卒業した息子と中学生の娘は先に帰っていった。

 病室には目覚めない妻。

 許された時間はあとわずか、陽がさらに落ちる。

「あなた……?」

 夕べが一層輝くその時、妻は目を覚ました。


 待ち続けていたのに、喉が、張り付いて、声もでない。震える手をなんとか妻に伸ばす。

「おま、え……」

「なあに?」


 わたしは放蕩ほうとうな人間だった。

 妻も子供も顧みず、迷惑ばかりをかけた末、一番の被害者を病にまでしてしまった。

 彼女は癌を発症していた。医者の小難しい説明は、わたしにはまるっきり入ってこなかった。あれだけ勉強したのに辞典もあてにならない。


   *


 後日、わたしは妻の病室を訪れた。今度はひとりで、身だしなみを最低限ととのえて。

 湯に浸かり、飯を食べ、歯も磨いた。

 数年してこなかった人間らしい文化的な生活をしたら、目が覚めるようだった。しゃきっとしたシャツに袖を通し、妻に顔を見せた。妻の顔色はよくない、具合も含めて、まだ危機を脱したとはいえなかった。

 わたしはカラッカラに乾いた喉で言った。

「私の先輩が、本を出したんだ。今度、買いに行こう。ああいや、ちがうな、おまえの好きな服でもなんでもいい、今度」

「一言、謝ることもできないなんて……。あなたっていう人はほんとうに……!」

 急な返事に心臓は縮み上がった。妻は思いあまってという様子だった。しゃくりあげるような声で。

「……ばか、ねえ」

 あの妻が、全部を見透かしていたように、慈愛のある声でいうのだ。

 わたしなど太刀打ちできない。

「もうきれいな服なんて着れないのよ、わたし。昔みたいな流行の服なんて」

「あ…………、すまない」

「大体、それをいうならもっと見ておいてほしかったわ。なのにあなたったらちっともみてくれないじゃない。覚えてる?」

「おぼえてる……」

 ネオンカラーの真っ黄色なワンピースも、水玉がうるさいほどで胸元にりぼんがあしらわれていたシャッツも。縦縞がこれでもかと入ったミニスカート、それだけじゃない。ポマードで固めた耳かくし。頭の後ろで巻いた重げなヘアスタイル。細くした眉も、梅みたいな頬紅も、……覚えている。

 目頭が異常に熱い。

 妻の手を取って、わたしは言った。

「神の試練。さりとて、ならば……ともに乗り越えよう、この苦しみ」

 頭のなかの、どこかで聞いたようなどこにも存在しないような台詞を引用していた。

 ふっ、とビニール袋から空気が漏れたような音が妻から聞こえてきた。

「あなたってば、やっぱり変わってるわ」


 今は何を書いているのという質問に、スランプだと嘘をついた。

 妻は冗談を真に受けて、あれがいいこれがいいと聞きかじったらしい執筆方法を口にする。散々自分を苦しめうまい果汁ばかり吸った男だ。生きる価値がないといわれても小さくなるしかない。そんなわたしに助言をするなんて妻の神経がにわかには信じられなかった。

 さすがのわたしもまだ隠れて書いてるとはいえなくて。

 だから真実を少しだけ風呂敷に広げてやった。

『もう、まともに見えないんだ』


「え?」


 変な沈黙があった。わたしの前でみるみる顔をしわくちゃにする妻。

「ばかなひと……! ああ、だからやめてっていったのに!!」

 突然、妻は気を取り乱した。暴れるように髪を振って、おおげさに嘆き悲しむ。

「わたしの作家が、かみさまは、夫の目をうばってしまった……!! あああああっ! こんなことって……」

「どうして……、おまえは字書きのわたしがきらいなんだと……、あ?」

 フラッシュバックした、過去の記憶。

 別居するに至った、喧嘩の原因。

 似合わないわよ、そんなことしないで、やめて、と数々の非難に嫌気がさして、別居を言い渡された時も、なかばやけで出てきた。もしあれが妻の一過性の言葉なら、わたしは。

「だから『お酒も煙草もやめてって』言ったのに……、ただでさえ体を酷使するから……」

(彼女は、わたしを。否定していなかったのか?)





 妻に尋ねた。

「あなたから光を奪いたかったわけじゃないの」と涙ぐむ様子はいっそ哀れなほどだった。

「最初こそ、作家なんて博打みたいなこと、本気でやめてって思ったわ。あなた根がまじめだし。でもね」


「ずっと読んでいた・・・・・の。夢を追いかける、あなたの文章を」


 文豪の物真似をしても重厚感のある文体ではない。かといって繊細な描写も描けやしない。ちぐはぐな展開はいつだって物語にはなりえなかった。まとまらないわたしの作品を、あれを、読まれていただって?

 急に、わたしのなかで羞恥心が芽生えた。

 散々賞に応募した身ではあったが、妻君に読まれるのはなんだか違った。自分の素を知る彼女に読まれるのは、なんだか、とても、耐えられそうにないとおもった。

 かけずじまいの作家、それでもいいと妻はいう。

 わからなかった。

「わたしにも好きなことがあるのよ、ふふ」

 謎めいた微笑み、その奥に何を思っているのか。結局、妻はそのことについては口を割らなかった。


『ずっと読んでたの』、記憶に引っかかるものがあった。

 酔いが冷めると、原稿用紙には赤ペンが、入っていた。だれともしれない物好きなファンに気を良くしたわたしはそしてまたペンを握ったのだ。

 わたしに自信をくれ続けた、赤いサインペン。


「だから、目を潰してほしくなかった。ねえ、ほんとうにもう書けないの? 負い目で言ってるわけじゃなくて?」


   *


「書いてる?」

「ああ」

「読ませて」

「ああ」

 わたしと妻の会話はわたしが「ああ」と返すことばかりだった。

 病室でもこりずに書き記すわたしを妻はとがめることもなく、むしろ機嫌のいい声と表情で原稿を催促してきた。

 息子と娘とはあれ以来会っていない。わたしに会いたくなくて時間をずらしているようだった。病室には旬の果物がかごに置かれている。


「好きなわりには赤ペンで容赦なく指摘していたじゃないか」

「あら? 違うわよ、好きなのは……おっと、危ない危ない」

 わたしは今日もまた、あと一歩、妻から核心的な言葉を引き出せずにいた。

「編集者ごっこも楽しかったのよ」

「まったくおまえってやつは」

 呆れたわたしに妻はよく笑っていた。


 かつてはぐうすか寝ていたわたしの横でじっくりと原稿を盗み見ていたらしい妻だが――……次第に容体は悪化していった。

 あと一月もすれば、と医者はこぼす。心がけておいてください、と。

 妻も妻で分かっている様子だった。

「色眼鏡だっていい。うんときれいな私をおぼえててちょうだいね」

 それから妙なことを妻はのたまった。

 ――そしたら、あなたのめがねにいつだって映り込みにいくわ。

「はは、そりゃあいい」

「わたしたち、仲直りしましょうよ。ねぇ、あなた」

 指切りの指を差し出す妻。

「仲直りにかい?」とわたしは聞いた。

「ええ」

 げんまんして、わたしたちは語らった。


 一枚落ちる葉っぱと一枚ずつ拾い上げられる紙っぺら。


 病室に届け続けた束のような原稿用紙。

 妻に毎日読ませた。

 何度も送った。何枚もみせびらかした。

 妻はやっぱり、編集者ごっこをして、時々サインペンを走らせていた。

 するすると流れる赤字や記号が心地よかったのを覚えている。


 だがそんな幸福も永遠ではなかった。




 ある日妻は逝った。


 最後は先細ったこずえが折れるように、あっけなく。

 すずめが鳴く群青の明朝だった。


 慟哭どうこくという言葉を使ったのは、あれが最初で最後だった。格好もつけずに使えてしまう、虚しさを、身をもって知った。


   *


 最近、眼鏡を買いにでかけた。

 あれほど忌避していた頭痛はでてこない。店員は親切だし、品揃えは豊富だ。

 わたしは店舗を闊歩かっぽした。

 年齢に合った、渋い焦げ茶色の眼鏡をチョイスし、店員に渡す。

 機械に通す、なにか作業があるとかで眼鏡をこちらに渡し、実際に試着してデータを計られていた時だった。

 店員は頭を抱えて数値をみているようだった。

「あれ、なにもうつらない……。おかしいな?」

 何度も何度もコンピューターに打ち込み原因を調べている様子だった。わたしは店員を制した。

「いや、これでいい……」

「え、でも」

「みえるんだ」

「え?」

「――つまがいる」


 死んだはずの女房が、眼鏡越しに、化けてでていた。


 めがねのなかにはおんながいる。


 長年わたしを悩ましてきた幻想イルージョン

 偏頭痛で医者にかかれば、酒のやり過ぎで幻覚を見ているのだと笑われた。それっきりあのヤブ医者にはかかっていなかったはずだ。


 女の像が見えるからわたしはめがね・・・という道具がきらいだった。

 なんだか、ひどく、心の臓の奥をわし掴みにされるような気が、して。


 レンズの奥で、妻が、笑っている。手を振る彼女は、向こう岸から、今も、わたしを。


 ほろりほろりと水が伝う。目から出た汁がとまらない。力強く踏ん張っても、破砕した果実は汁をとめどなく流す。

 つんと鼻の奥が痛んだ。

 すっかり忘れていたはずの、妻が昔付けていた芍薬シャクヤクが、香った気がした。


 息子たちとはまだ険悪だ。とくに次女など顔も出さない。おまえは心配しているのだろうか。今度、長男が孫を連れてくるそうだ。おじいちゃんになるわたしをみておまえは吃驚びっくりするのかな。孫のプレゼントはなにがいいだろう。ランドセルは早いだろうなあ。おもちゃだろうか、なあ、何がいいと思う、おまえ。


 夕凪のなか立ち上る陽炎。かげった向日葵ひまわりに対して夕顔ゆうがおが咲いている。すこし蒸し暑い縁側からこちらを覗いている妻。

 まだ、おぼえていた。

 わたしが一番見惚れていた頃の女房の姿が、そこにはあった。


   *


 印税どころか分厚い札束さえついぞ拝めなかった。夢はちりぢりになり、絶望の一間、惰性で生き、書くことだけに執着していたあの頃。


 わたしなど塵芥のゴミ屑だ。小説を書くことにすべてを振り切りその戦いに敗北した燃えかすに過ぎない。アクをとりのぞけば濁りにごり淀みよどみしかない。文豪みたいな人生を送っただけの、「I wanna be a writer.」。なにも生まずなにも出さず、それでいて食って寝て遊んで買ってと勝手の限りを尽くしたろくでなし。掃きだめがお似合いの駄目人間だ。


 それでもわたしは最後まで物書きでしかなかった。


 ついに最後の一篇を書き切った。世界に唯一人ただひとりしかいなかった私の読者に向けて綴ったつづったのは、物語とも呼べぬ一文だった。


 簡潔に終わる短い文。作家人生の全部をこめた原稿はたったの1ページにも満たないものとなった。それがわたしの〝すべて〟だった。


 彼女の最期には書き切れなかった物語を目にする。今おまえは笑っているだろうか。好きだったこととはなんだったのか、結局わからず仕舞いだ。ミステリーにはてんで疎いからわたしにはお手上げだった。

 形見分けで訪れた妻の居た家。引き出しに手をかけたところでわたしはやめてしまった。なんだか、違う気がして。なにも受け取らずに、妻、という隣人が暮らしていた家を出た。


 たった四畳半。このぼろいアパートはもうすぐ引き払う。執筆道具といえるようなものはろくに残っていなかった。使い古した辞書ぐらいか、わたしが作家だった証は。


 掃除をしたら本棚の裏から出てきた卒業証書。筒を開けると床に落ちたフォトペーパー。妻とわたしの、学生時代の写真だった。

 あの頃語った青写真はほとんど何も叶わなかった。一番手に入れたかった夢も希望ですら、砂粒のように手元からすり抜けた。

 古き時代を思い出すと、たまらない。

 写真の彼女はめがねをしていた。メガネっ娘なんて、昔ならさりとてもてはやされることもなかったのに。

 瞳を輝かせた自分と、少しこわばった顔の、昔の妻。


 そうだった。わたしは――彼女・・ラブレター・・・・・を書いてやりたくて〝しょうせつ〟なんてものに手を出したんだった。


 たしか、委員会の活動でたまたま意気投合した。彼女とはよく本を読んだ。隣の席で、全然集中できなくて、ぺーじだけを慎重にをめくっていた。

「じつは本を書いているんだ」

 彼女の手前、大見得おおみえを切った。

 絶対、読むわ、と彼女は興奮していた。

 おもえば、ずっと。

 支えられていた。

 ばかなわたしのツケを払わされて、散々苦労させた。

 すまない、と謝る資格さえないほどに。




 そんな、文学を愛したともがらに捧ぐ。




   糟糠そうこうの妻

               宮崎 賢一


 君に、謝意を表す。




「ぼかあ作家に向いていなかったようだ」

 インクまみれになったペンを、ようやく置いた。

































 六歳になる孫にランドセルをプレゼントをした春。口も聞いてくれなかった次女がわたしの病室に紙束を持ち込んだ。ザラザラする紙面を触ってもわけがわからない。とっくにわたしの目は光も陰も映さなくてめがねですら用をなさなくなっていた。

 わたしはつまがこいしかった。

 しかしめがねがどんなに光を通してもこの目では反射しないだろう。


 娘はおもむろに口を開いた。

お父さん・・・・、ずっと知らなかったでしょ。お母さんね、……この原稿用紙に書いていたんだよ」

「知ってるさ、校正ごっこをしていたんだろ? 楽しく書き込んでたのはサインペンの音で知っているよ」

「ちがうの!!」

 娘はひどく慌てた様子で否定した。

 言うか言うまいか迷う間があった。悩み抜いた末にだろうか、重い口が開いた。


 ――文通が、やりたかったんだって。


「お母さんずっと、わたしたちにまでお父さんのことよろしくねって。ほんと、何度も……、あの人……お人好しっていうか、……お父さん?」


 もう娘の言葉が聞こえなかった。


 原稿用紙の束を抱えたわたしは妻の想いを抱きしめた。ひたすら嗚咽しながら病室の寝床にうずくまった。咳き込むほどに喉が焼けるように熱い。息を吸うにも火の玉を丸呑みするような有様だった。


 妻に先立たれたときは慟哭どうこくだった。

 妻が遺していったいまは哄笑こうしょうだ。


 生まれたばかりの赤子が大声をあげて鳴くように、わたしは笑い泣きした。


「いっぱい、聴かせてあげるね。お母さんの代わりに、目の見えなくなったお父さんに、お母さんの、気持ちを」





『この手紙・・が読まれる頃は……――ふたりともきっと和解できていることでしょう。賢一さんへ、宮崎幾子より』

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