残酷なる事実

 玖澄の言葉に、初穂は目を見開いた。

 どういう事だという問いが湧き上がり埋めつくしたけど、言葉にして問う事が出来ない。

 父が初穂を犠牲にしようとした、とは。

 確かに贄として捧げることを決めた。

 だが、その真意は……。

 言葉を無くし立ち尽くす初穂の前で、玖澄は父に厳しい眼差しを向けたまま一つ息を吐いた。


「貴方は贄として捧げるはずの初穂さんに、密かに『私を討て』と命じていましたね」


 村人たちがまた騒めいた。

 彼らは初穂に言い渡された『使命』については全く知らされていなかったらしい。

 純粋に贄を捧げ、大蛇に許しを請うとだけ思っていたようだ。

 まさかそんな大それたことを、と皆が蒼褪めながら口にする中、玖澄はあるものを取り出した。

 それは初穂が玖澄に預けた、初穂が父からこれで大蛇を討てと渡された短刀だった。


「貴方が初穂さんに渡したこの短刀には、酷く性質の悪い『呪い』がかかっています」

「……呪い……?」


 何の変哲もないと思っていたが、やはし不思議の力はあったのかと思いもしたが。

 眉をひそめながら、やや呆然としたままの初穂は鸚鵡返しに呟いた。

 短刀に籠められていたのは、あやかしを討つ為の祝福の筈だ。

 けれど、玖澄は短刀にある力は祝いではなく呪いであるというのだ。

 初穂が戸惑い交じりの眼差しを向けていると、玖澄は初穂から少しだけ離れる。

 距離をとった上で、玖澄はおもむろに短刀を鞘から抜いた。

 薄暗い森の中の僅かな光を反射して、刃が鋭い光を放った。

 そう思った時、刃から何かが湧き上がったかと思えば、玖澄の手に噛みつくように襲い掛かる。

 咄嗟に悲鳴のように玖澄を呼んだ初穂を、近づいてはいけないと目で訴える。

 まるで幾匹もの蛇のような影が玖澄の手に噛みついたかと思った瞬間、玖澄は刃を鞘におさめた。

 短刀から玖澄に襲い掛かった黒い靄のようなものは、たちまちかき消えた。

 だが、初穂の心に確かな疑念を残した。

 ほんのわずかな刹那の事だったから、それがどういう害のあるものだったのかまでは確かめようがなかった。

 ただ、現れたものが玖澄に敵意を持ち、喰らおうとするように襲い掛かったのだけはわかった。

 あんな禍々しいものが、祝福などであるはずがない。

 すっかり顔色を無くしてしまった初穂を痛ましげに見つめた後、玖澄は初穂の父に視線を戻した。


「女性の細腕で。ましてや病がちだった初穂さんが一太刀を浴びせる事など出来ないと思っていた」


 あやかしを討てと命じたものの、初穂は非力な女の身で、ましてや虚弱。

 普通の人間の男相手でも敵わないだろうに、相手は力ある大蛇。

 だから父は、より確実に相手を仕留める為に娘を犠牲にすることを考えた。


「だから、本人の意思に関係なく。初穂さんの魂を喰らって私に対する呪いに変える術を施した短刀を持たせた」


 初穂は蒼褪めた顔色のまま、喘ぐように息をした。

 まだどこか実感がない。

 短刀に籠っていたのが悪いものだったのは分かったけれど、どこか込められた意図を否定したいと思っている自分が居る。

 玖澄の言葉を信じたいけれど、否定したい自分がいる。

 だって、その言葉が本当ならば、父は初穂を。

 玖澄は初穂がどんどん顔色を無くしていく様子を見て僅かに躊躇ったようだったが、やがて口を開いた。


「初穂さんが、酷く体調を崩した事がありましたね?」

「ええ……」


 初穂は頷く。

 玖澄が言っているのが何時の事かすぐに分かった。

 忘れようにも忘れられない。あともう少しで黄泉路を辿りかけた時のことだ。

 初穂が頷いたのを見て、玖澄もまた一つ頷いて僅かに重く固い声音で続ける。


「あの時、おかしいなと思ったのです。霊薬を以てしても回復しないのであれば、何がしかの悪い力が働いていると思いました」


 人の世には稀な霊薬は、大概の身体の不調ならたちどころに癒してしまうはず。

 だが、初穂は霊薬を服用しても全く改善の兆しがなく、衰弱していった。

 玖澄と白妙は思案し続け、ついにある可能性に思い至った。


「だから、解呪の術を施しました。……そして、初穂さんは意識を取り戻したのです」


 まさかと思いながら、呪いを解く術を施したなら初穂は命を取り留めた。

 それは、初穂が呪いに蝕まれていたことを正しく示す。

 初穂が助かったことを喜びながらも、玖澄達の疑念は続いていた。


「呪いは初穂さんを喰らいかけていました。あの屋敷で、何処から呪いがきたものかは不可解でしたが……」


 倒れる前日まで初穂は、物憂げな様子を見せる事はあっても体調は落ち着いていた。

 ならば、玖澄の力に守られた屋敷にて、呪いは突然どこからやってきたのか。

 玖澄が口にした問いを聞いて、初穂は小さく叫びながら目を見開いた。

 確かに、倒れる前の晩。初穂は一度、短刀を鞘から抜いている。

 何かがまとわりつくような感覚を一瞬覚えたのは……あれは、気のせいではなくて。

 仕込まれた呪いの力が初穂を喰らって力に変えようとしていたから……。


「それじゃあ、最初から?」


 初穂の唇から零れた声は、酷く乾いて掠れていた。

 信じたくない事実がそこにある。

それを認めたくないというように、初穂の声は震えていた。

 認めたくない、だが事実は揺らがない、動かない。


「最初から、生きて戻ってくるなんて思って居なくて」


 よすがと思っていた、あの日の父の言葉が酷く遠く、虚しく響いている。

 戻って来いと言っていたのに。

 大事な娘、と言っていたのに。

 初穂が戻らないことを、父は既に知っていた。

 だって、父は最初から。

 否定したいと願いながら事実を認めている。初穂の揺れる眼差しを確りと受け止めながら、玖澄は眉を寄せて静かにそれを口にした。


「……最初から、初穂さんの命を犠牲にする気だったのでしょう」


 玖澄が告げたのは、あまりに残酷な真実だった。

 役目を果たしたなら戻ってこい、などと耳ざわりのいい事を言いながら、初穂に役目を果たせるなど、最初から思っていなかったのだ。

 戻って来いとも思っていなかった。戻ってくることができないのを知っていた。

 震えながら向けた視線の先で、父は赤黒い顔で唸り続けるばかり。

 図星を突かれて言葉がでないといった様子の表情を見て、初穂は遂に受け入れる。

 父が初穂を真実切り捨て、娘の命を利用しようとしていたのだと。

 無言の肯定を続ける父に、初穂は震えを押し隠しながら問いを口にする。


「戻ってこいなんて、嘘だったのですね……?」


 漸く口から絞り出すようにして紡いだ問いは、掠れ、切れ切れな儚いものだった。

 嘘だったのだ。

 課せられた使命も。

 戻ってこいという言葉も、大事な娘という言葉も、何もかも。

 咄嗟に縋りついてしまったよすがは。命に引き換えてでも、と初穂に誓わせたものは、存在しないまやかしだった。

 呆然とした様子の娘の眼差しが向いている事に苛立ったように、父は怒鳴り始めた。


「贄に差し出した段階で死んだと同じ事だ! そんなことは、どうでも良いだろう!」


 下らぬことをと喚きながら、父は怒鳴り散らす。

 女に生まれたくせに、他の娘のように嫁にだすことも、奥向きで使う事も出来なかった役立たず。

 そのくせ、すぐ病に倒れて、医者や薬に金を使わせる金食い虫。

 どれだけ手を煩わされたと思っている。

 人の役に立つ分だけ、家畜のほうがまだお前より上等だ。

 父が叫び続ける言葉は、一つ一つが鋭い礫となって初穂に打ちつけ傷つける。

 あまりの悪口雑言に周りの人間達が顔を顰め始めていることにも気付かず、父は喚き散らしていた。

 ただ震えて聞いていた初穂は、不意に手に温かな感触を感じた。

 触れた手から広がる温もりに、守られているような心地がする。

 見上げた先では、湧き上がり吹き出しかける何かに耐えているような玖澄の横顔があった。

 初穂が蒼褪める中、玖澄が抑え続ける中、人々が蔑むような眼差しを向け始める中、父は更に叫ぶ。


「どうせ、何度も死に損なってきたのだから! 死ぬなら親の役に立って死ねば良いのだ!」


 初穂が胸に走った一際大きな痛みに顔を顰めた瞬間、大地が激しく揺れた。

 皆は悲鳴をあげて蹲り、得物を放り出して木に縋り、泣きわめきながら右往左往しかける。

 初穂の父もまた顔色を無くして地にへたり込み、怯えた眼差しを向けている。

 震える人間達の見つめる先には、ゆらりと沸き立つ陽炎のようなものを纏った玖澄の姿がある。

 平素温和で穏やかな笑みを絶やさない顔には、明確な怒りの表情があり。思慮深い光がある瞳には、滾るような憎悪がある。

 言い伝えにあった通りの、獰猛な大蛇の姿が、そこにあった。


「この人に、そのよう言葉を向ける事は許さないと、先程言いましたよね……?」


 今は人の姿であるのに、あの大きな蛇が鎌首を擡げ睥睨しているように感じる。

 だが、初穂は恐ろしいとは思わない。

 玖澄が、何故に怒っているのか分かっているから。

 玖澄は人の姿のままで大蛇の威厳を以て、怒りを敢えて抑えた静かな声音で更なる言葉を口にする。


「初穂さんを傷つける者は、残らず喰ってしまってもいい。そう思うぐらい、私は限界ですよ……?」


 静かだからこそ尚更その底に潜んでいる、煮え滾るような暗い怒りを感じさせる声音に、人々は息を飲んだ。

 大蛇が初穂を大事に思っていること。大事に思うが故に今、怒りに燃えていること。

 そして初穂の為にと思うからこそ、滾る怒りを抑え、敢えて冷静であろうとしていること。

 伝わりくる事実に、人々の顔からすっかり色というものが消えていた。

 怒りの矛先は、初穂の父である嘉川だけではなく、村人たちにも向けられる。


「村の方々。貴方方とて罪がないとは言いません。初穂さんを追い詰め、無言の圧で生贄になるのを強いたのだから」


 人々が目に見えて震えあがった。

 確かに、皆で力を合わせて何とか日々を繋いでいけるような村において、労働力足りえぬ存在は疎まれる。それは仕方のない事だ。

 初穂は、そう思って生きて来た。自分が皆の役に立てないことがいけないのだと自分を責めて、それ故に遠慮して。

 自分を押し殺し続け、何時しか自分の願いを抱く事すら罪と感じるようになった。

 玖澄は、そんな初穂の為に怒ってくれている。

 いつの間にか、初穂の頬を泪が伝っていた。

 拭っても拭っても、瞳から溢れてくる雫を止めることができない。

 今まで誰も、初穂の為になんて怒ってくれなかったのに。初穂に心があることすら、忘れられていたのに。

 この優しい大蛇は、初穂の心を認め、慮り、蔑ろにした者達に対して怒りを抱いてくれている。

 初穂にとっては、それだけでもう充分だった。

 言葉にならない熱い思いが溢れて胸に満ち、苦しい程。その苦しさすら幸せと思う。

 玖澄に出会えて良かったと。

 満ちる喜びに、ここに至るまでにあったすべての事に感謝すらしている。

 震える手を伸ばして、両手で玖澄の手を握り返す。

 もういい、充分だという思いを込めて。

 玖澄のこころに、もう充分に救われたと伝えたくて。

 その想いは玖澄に届いたようだった。

 怒りに燃えるようだった瞳が徐々に何時もの穏やかさを取り戻し、立ち上る陽炎のようなものは静かに消えていく。

 まだ表情こそ固いけれど、いつもの玖澄が戻って来たことに初穂は安堵する。

 初穂を怯えさせてしまったのではと気にしている風にばつ悪げな様子に、初穂は淡く微笑んで首を左右に振る。

 玖澄は一度初穂に笑みを見せた後、再び村人達と初穂の父に向き直る。


「この山から速やかに立ち去り、裁きを受けなさい。そうすれば、私もこれ以上は事を構えようと思いません」


 厳かな声音で紡がれた大蛇の言葉に、人々は打たれたように再び長に視線を向ける。

 最初こそお互いの様子を伺い合っていたものの、やがて頷き交わした人々が、怒りの気配を纏いながら村長を拘束しようと動き始めた時だった。


 ――破裂するような鋭い音が、ひとつ響き渡ったのである。


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