訪れた契機
幾日かは、穏やかに過ぎ去った。
初穂の胸には真実について早く知りたいを焦る心はあったものの、玖澄は必ず話してくれると何もいわなかった。
待つ間は、出来る限り今まで通りに過ごした。
今までと同じ、温かな日々。
ただ、少しだけ初穂と玖澄の距離は近くなり。
隣にお互いを感じながら、出来る限り寄り添って過ごしていた。
穏やかに過ぎゆくかに思われた日々は、ある日齎された報せにより大きく揺れた。
それは、初穂が何時ものように玖澄の部屋で過ごしている時の事だった。
最近では大分読める本が増えたとはいえ、まだまだ異国の言葉の書物に手間取る事はある。
分からないところを玖澄に教えてもらいながら、少しずつ読み進めている時である。
「玖澄様」
閉じた襖の向こうから白妙の声がした。
その声が何時になく固い響きを帯びているような気がして、初穂は思わず身動きを止めた。
初穂に一言言い置くと、玖澄は襖へと歩みより開き、白妙から何事か聞いている。
白妙が話し続けるにつれて、目に見えて玖澄の表情が険しいものになっていく。
それを目にする度、初穂の心に言いようのない不安が募る。どう考えても、何か良くない事が起こった気がする。
やがて玖澄が白妙に何事か告げると、白妙は頷いて姿を消した。
自分の元に戻って着た玖澄に、初穂は強張った眼差しを向ける。
「……何があったの」
固い声で問われて、玖澄は、言うべきか否かについて躊躇しているようだった。
だが、少しの思案の後、ふるふると首を振り。一つ息を吐くと静かに口を開いた。
「……瀬皓の村長が、手勢を率いて山に入ってきたということです」
「お父様が……⁉」
告げられた事実に、初穂は目を見開いて悲鳴のような声をあげて絶句してしまう。
あれ程山への立ち入りを厳しく禁じていた父が、事もあろうか手勢を率いて山に押し入る真似をするなど。
尋常ではない事態に、初穂の顔から色が失せる。
蒼褪めて言葉を失ってしまっている初穂を気遣うように見つめつつも、玖澄は努めて静かな声音で続ける。
「恐らく、災いが止まない事で業をにやしたのでしょう。直に私を討つ為にきたのだろうと思います」
何てこと、と初穂は心の中にて呻いた。
父は、災いが止まないのは初穂が仕損じたからだと思って。
村の皆は、贄として捧げられた初穂を、大蛇が気に入らなかったせいだと思って。
もう元凶たる大蛇を討つしかないという結論に辿り着いてしまったのだ。
そもそも、原因は玖澄ではない。別にあるのだ。
玖澄を討ったとて何も変わらない。ただ悲劇が増えるだけ。
それに、玖澄は原因を突き留めてくれると言っていたのに……。
動揺を隠しきれず、不安の色濃い表情のまま、初穂は思わず口元を押さえてしまう。
白妙の報告によると、山に入って来た瀬皓の者達は、山を切り開きながら沢の辺りから逸れるようにして上ってきているらしい。
彼らの進む道には、あの日玖澄と共に昼餉を食べた泉がある。
「あの辺りには力の弱いあやかしや、小霊達が多く集っています。彼らの住処を荒されるわけにはいきません」
あの日の楽しい時間を思い出す。
花を降らせてくれた小霊達。近づいてきてくれた愛らしい動物たち。そっと伺うようにしていたあやかし達。
一面に咲いていた小さな白い花々が広がる光景を思い出す。
優しい生き物たちが暮らす場所が傍若無人な人間に踏み荒らされるのを想像すると、背筋に寒いものが走る。
どうすればと思いながら初穂は玖澄を見上げた。
玖澄は、紅の眼差しに決意をこめて確りとした声音で告げた
「彼らの目的が私だというなら。こちらから出向くまで」
「玖澄……!」
村人たちの目的は、玖澄を討つ事。
姿を現すと言う事は危険を伴う。
確かに玖澄は力あるあやかしなのだろうが、父達も何の勝ち目もなしに山に踏み入ったわけではないだろう。
あの短刀のように、何かの算段があるのかもしれない。または、ただの破れかぶれなのかもしれない。
父の意図を探れない。分からないが故に、得体の知れない怖さがある。
玖澄がただでは済まないかもしれない。その可能性が少しでも存在することが怖い。
だが、玖澄の表情を見ればもう決意してしまったのが分かる。
この優しい大蛇は、自分の危険など意にも介さず、山にすまう小さな存在達を守ろうとしている。
唇を噛みしめていた初穂は、次の瞬間、玖澄の腕を掴んで叫んでいた。
「私も……。……私も行く!」
けして離さないというように確りと腕を掴んだまま叫んだ初穂を見て、玖澄が目を見開いた。
驚愕の表情を浮かべた玖澄は、何かを言おうとしているようだが咄嗟に言葉が出てこない様子である。
玖澄の瞳を真っ直ぐに見つめながら、初穂は悲痛な面もちで呟いた。
「災いの原因が玖澄ではない事を知らせなきゃ。私が今までそれをしなかったから、お父様達はこんな暴挙に出たのだから」
父がそれを信じたかどうかは分からない。だが、本来もっと早くに初穂はそうするべきだった。
もしかしたら違う道が開けていたかもしれない。
何よりも、玖澄に被せられた汚名を、濡れ衣を、そのままにし続けてしまったことが今は悔しい。
玖澄の無実を証したい。
この優しい大蛇が悪し様に言われるのを、もう止めさせたい。
だから、と玖澄の腕を握る手に、力が籠る。
玖澄は暫しの間、厳しい顔にて考え込んでいた。
危険を伴う場所に初穂を連れて行きたくない、そう瞳は告げている。
だが、初穂の一歩も引かない真っ直ぐな眼差しを受けて、やがて一つ息を吐くと苦笑交じりに告げる。
「わかりました。……けして、無茶だけはしないと約束して下さい」
首を少し傾けながら優しい苦笑いと共に言う玖澄に、初穂は深く頷いて見せる。
それを見た玖澄は初穂の両肩に、安心させるように手を置いた。
「初穂さんに、本当のことをお知らせする、と約束しましたから」
見上げた先にある笑顔は、何時もより少し硬く強張っている気配があるけれど。
何時もと同じように、初穂の心に明かりを灯してくれる優しいものだった。
初穂に、立ち向かう強さをくれる、何よりも愛しい笑みだった。
玖澄は導くように初穂の手を取ると、静かに告げた。
「行きましょう。……罪を暴きに」
村中にて動ける男手は皆集ったのではないか、という一団だった。
薄暗い森の中、進む道を照らす為に松明を持ち。手にはそれぞれ、得物となり得る農具を持ち、或いは与えられた武器を持っている。
瀬皓の村人は、生い茂る草を切り払いながら、枝を折り、細木を切り倒しながら。
虫が木の葉を食い尽くしていくように、山を踏み荒らし、先へ先へと進んでいた。
男達の顔には、隠しきれない怯えの色がある。
それもそのはずだ。
彼らは今、掟により立ち入ってはならないとされていた場所を切り開き進んでいる。
山にすまう獰猛で人を喰らう、恐ろしい大蛇を相対する為に。
禁忌を犯す事を重ねに重ねてでも、彼らには進まなければならない理由がある。
村で待つ女達の為、子供達の為。何としても災いの原因である大蛇を討たねばならない。座して滅びるのを待つぐらいなら、と彼らは最後に残った勇気を古い起こし、長である嘉川の号令に従ったのだ。
村の長は一向の後方に控えながら、矢継ぎ早に進めと叫んでいる。
山の大蛇さえ居なくなれば救われるのだ。瀬皓を救うために大蛇を討つのだ、と叫び続けている。
傍らの山根が時折何かを進言しようとするが、言い終える前に何時ものように杖で殴りつけられた。
自然と口数少なくなっていた男達が、半ば喚くような声を背に更に進もうとした時。
地の底から轟くような、重々しい言葉が響き渡り、一同の耳を打ったのだ。
『それ以上進む事は許しません』
人々は声にならぬ悲鳴を上げて逃げ惑いかけ、村長が怒号を浴びせてそれを止める。
怒りの声も震えてはいたが、男達は辛うじて駆け出しかけたのを止めた。
皆が皆、恐る恐る声のした方へと視線を巡らせると、そこには彼らが討とうしていた相手が――山に住まう大蛇が姿を現していた。
尋常ではない、見上げるような大きさの大蛇だった。
銀の光を帯びて見える白い鱗は僅かな光に燐光を放ち、向けられる紅い瞳にて招かれざる者達を睥睨し、牙を覗かせて。
「山の大蛇だ……! 怯むな、殺せ! あいつが災いの元凶だ……!」
言い伝えにしか聞かなかった、存在を何処か疑っていたものが、現の形を持って目の前に現れた。
その事実に完全に顔色を失って立ち尽くしていた瀬皓の村人達。
だが、いち早く我に返った村長が皆を叱咤するように叫べば、男達の目に僅かに怒りと思しき光が戻って来る。
こいつのせいで、川が死んだ。
こいつのせいで、畑が死んだ。
こいつのせいで、仲間が死んだ。
憎しみの籠った囁きは、徐々に人々に伝播していき、男達は覚悟を決めた様子で手にしていた武器を構えた。
大蛇はその様子を、静かな……どこか哀れんでいるようにも思える眼差しで見据えている。
蛮勇を振るって武器を振り上げて、男達が大蛇に襲い掛かろうとした時だった。
彼らにとって、全く思いもよらぬ……女の声が響いたのは。
「止めてください……!」
男達は地を蹴った勢いのまま、急に止まろうとしてたたらを踏んだ。
一行に女は居ないのだ。
ならば、今の女の声は何だというのだ。これも山のあやかしか、と俄かに村人は騒めく。
続けて叫びながら皆の前に飛び出したのは……彼らがかつて知っていた女だった。
それは、大蛇に花嫁――贄として捧げられたはずの、村長の娘だった。
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