真実に向き合う為に
――初穂は、その朝とても複雑な心持ちだった。
自分の女としての迂闊さを叱る気持ちもあるが、満ち足りた幸せな気持ちもある。
目の前にはすっかり整った朝餉がある。
早く食べなければ冷めてしまうと思い、手をつけながらも初穂は考え込んでいた。
何があったかといえば、朝目覚めた時に玖澄の腕の中に居たのである。
初穂が玖澄に全てを打ち明けて、玖澄が初穂に昔語りをして。
二人がお互いの願いに触れて、願うことを思い出した日。
二人は寄り添いながら、取り留めのない話をした。
互いの昔の話はあまりしなかった。出会ってからの思い出を一つ一つ語っていった。辿ってきた道を振り返るように、相手がどんな思いでいたのかを知ろうというように。
時を忘れて語りながら、何時しか眠りについていた。
何かの夢を見ていた気がする。詳しい内容は思い出せないが、ただとても明るくて温かな夢だった気がすのだけは確か。
幸せな心地、少しばかり後ろ髪を引かれる思いを感じながら少しずつ瞳を開いて。
そこに、初穂は玖澄の端正な顔を見た。
全身凍り付いて固まってしまった初穂は、思考だけはいやに冷静で。
話しながらいつしか玖澄の腕に抱かれて眠ってしまったのだと気付いた時、玖澄がゆっくりと目を覚ましたのである。
何事もなかったとはいえ、男性の腕の中で一晩ぐっすりと眠ってしまった。
それを思うと、やはり恥ずかしい。
確かに祝言をあげたから夫婦であるし、自分は玖澄を好いていると気付いた。
だからといって、これではあまりに身持ちが軽いと思われるのではなかろうか。
しかも、これは二度目である。以前にもあった。またやってしまった、と初穂は頭を抱えてしまった。
いやいや、玖澄の腕の中があまりに温かくて心地良いのがいけない、とか。
後者に至ってはもはや言いがかりと気付いてはいるけれど、初穂の心は兎角揺れて忙しい状態だった。
掛け布団がかけてあったところを見ると、恐らく白妙あたりが二人の見に来たのだろう。
ぐっすりと寄り添って眠っている二人を見て、風邪を退かぬようにと配慮して去ったと思われる。
起こしてくれれば良かったのにと思う。そこで気を利かせなくていいからと。
初穂は、汁椀に口を付けるふりをしながら、ちらりと玖澄へと視線を向けた。
なお、玖澄はというと。
「……嬉しそうね」
汁の椀から口を話して、ぽつりと呟く。
初穂の前には、初穂と共に朝餉の膳を前にした玖澄が居る。
実に楽しそうで幸せそうな笑みを浮かべた、鼻歌すら歌い出しそうな程に嬉しそうな様子である。
控えめな初穂の眼差しを受けて、ぎくりとばつの悪そうな表情を浮かべた玖澄の肩が少し跳ねた。
それから、おずおずと初穂の様子を伺うように視線を向けつつ、はにかんだ。
「初穂さんに、一日で、一番初めにおはよう、を言えたのが嬉しくて……」
初穂は、嬉しさ隠さず、喜びを噛みしめるように言われて小さく呻きながら俯いてしまう。
朝餉の支度の時からこうなのだ。
元々穏やかに慈しむように、初穂を大切に扱ってくれていたし、とても好意的ではあった。
しかし、今日はそれに輪をかけて好意的というか……初穂が恥じらって身の置き所がなくなるぐらい、優しい。
小さなこと……いや、けして小さくはないのだが、朝に共に目覚めてから、ともかくずっと斯くのごとしである。
初穂とて、嬉しいといえば嬉しいし、温かな気持ちである。
ただ、こう隠さずにしみじみと幸せだと表されれば照れて俯くしかなくなる。
初穂だって伝えたい言葉は沢山あるのに、上手く紡げなくてもどかしい思いを抱きつつ慎ましい沈黙を守るのみ。
些かちぐはぐだが微笑ましい二人の様子を白妙と小霊達が頷き合いながら見守っていたのは、初穂は知らぬことだった。
少しした後、初穂の部屋にて。
朝餉を終えて一段落した後、初穂と玖澄は改めて向き合っていた。
初穂は、最早玖澄に隠し事をしたままでいたくなかった。
だから、何故に自分が贄となったのか、玖澄を討つに至ったのか。全て話したいと告げたのだ。
玖澄は頷くと、静かに問いかけた。
「山の大蛇を討つ、と長が思い至るまでには何かの経緯があったと思います。宜しければ、まず理由を聞いても大丈夫ですか?」
命を狙われた玖澄にはそれを聞く権利がある。
ましてや、人と関わらず長らく平和に暮らしていたはずなのに、突然人が牙を向いた形である。
理由を問いたくなるのは当然だ。
初穂は頷いて、一つ息を吐いて語り始めた。
「半年と少し前ぐらいから。瀬皓の村には酷い災いが起きているの」
「災い……?」
訝しげに呟いた玖澄に頷いて見せると、初穂はやや低い声音で続ける。
「最初は、川魚が一斉に……沢山死んでいるのが見つかって。それに続くように、田畑の作物が枯れ始めて」
脳裏に過るのは、悲痛な叫び声をあげて被害を訴えにきていた村人たちの姿。
蘇る一つ一つの声を思い、顔を曇らせながら、初穂は努めて淡々と語り続ける。
「そうかと思えば、疫病が流行り出したの。手足が震えるようになって立てなくなって……。言葉も話せなくなって、錯乱して。死人も出て。しかも、ある日突然行方不明になる人間まで出た。皆は神隠しだと。」
畑が全滅して、もう一家そろって首を括るしかないと嘆く男とその妻子。
大黒柱である夫が奇病にかかり、どうすれば良いかと乳飲み子抱えて嘆く女。
息子が突然姿を消した、隠されてしまった、と泣きながら地に伏す老夫婦。
初穂に外出は許されていないから、実際の様子は分からない。それでも、人々が恐れ嘆き、震えながら囁きかわす噂話で村の惨状は知れた。
思い出せば心は重いが、大蛇討つべしという総意に至った経緯を語る上で触れないわけにはいかなかった。
「そのうち、皆がこれは呪いによる災いだと……。瀬皓の村は呪われてしまったのだと……」
「そして、その一連の災いの犯人が私だとされていたわけですね……」
初穂の言葉を黙って聞いていた玖澄が、物憂げに呟く。
してもいない悪行の元凶と言われて、面白いはずがない。
居たたまれない気持ちになりながら、初穂は頷いた。
だが、玖澄は気分を害したという風ではなく、何かを思い出すように真剣に考え込んでいる。
険しい表情には違いないが、濡れ衣を着せられた事を怒っている感じではない気がする。視線は少し遠くを見ているようで、何かを思い出している様子にも見える。
やがて、玖澄は静かに口を開いた。
「瀬皓の村がこの地を半ば禁足地としていたように。私も、基本的には村には下りないようにしていましたが……」
「ええ。山に立ち入った者には厳しい罰が与えられるから」
それは、以前も玖澄に語ったことだった。
瀬皓の村は、長たる初穂の父によって山への立ち入りを固く禁じられている。
特別な許しが……それこそ、初穂を花嫁に捧げる為以外では、立ち入る者はいなかったはずだ。
だが……。
初穂は、沢に落ちかけた時の事を思い出す。
少し考え込み眉を寄せると、思いついた可能性について口にする。
「村の人間は、以前から山に出入りしていたのではないかと思うの……」
「……理由を聞いても?」
あの時あの場には、本来あってはならないこと、信じられないことが幾重にもかさなっていた。
そこから導き出された可能性を難しい顔をした口にした初穂を見て、玖澄は軽く目を瞬いた。
すぐに静かに問いかけてきた玖澄に、一度頷いてから話し始める。
「沢に落ちる前……山の中で、不思議な洞窟を見て。そこで、何故か下男の山根と会って。そして……」
躊躇ったが、初穂は全てを玖澄に話した。
昨日、玖澄と別れてからあった出来事を。
不思議な洞窟の前で山根に出会ったこと。何も知らないのかと問われたこと。
その洞窟から逃げ出してきたのは、神隠しにあったとされていた男だったこと。
それを追ってきて折檻したのは、以前地主の家に仕えていた男達であったこと。
捕らえようと追ってきた男達から逃れるようとした末に沢に落ちたことを……。
玖澄が手当してくれた傷はもう痛みもない。
だが、宙に投げ出された瞬間の恐怖が蘇り身体が僅かに震えた。
それを何とか押し隠して、初穂はもう一つだけ思い出したことを玖澄に伝える。
「逃げてきた男が……銀がどうとか、言いかけていたような気がするの……」
「銀……」
何気なく呟いた言葉は、思わぬ結果に繋がった。
玖澄が、打たれたように目を見開き固まったのだ。
まさか、と呟いたように聞こえたのは気のせいだろうか。
何か心当たりがあるのだろうかと初穂が訝しく思っていると、玖澄は表情を元に戻した。
一呼吸置いた後に、話を変えてすいません、と前置きをした上で玖澄は再び口を開いた。
「初穂さんは、私を殺すつもりだった、と言いましたが」
初穂は、顔を悲しそうに歪めてこくりと頷いた。
その表情を見た玖澄は、責めているわけではない、と言いたげにゆるく首を振ると少しだけ遠慮がちな声音で問いを紡いだ。
「あまり自分から強いとは言えませんが、私はこれでもあやかしですし。一応かつては鍛えた男ですし。……答えづらい問いだとは思いますが、どう私を討つつもりだったのかなと……」
その疑問は尤もである。
か弱い女の細腕で。ましてや、病がちで臥せっていることが多かった虚弱な初穂が。
力あるあやかしである男性の玖澄を如何にして倒すつもりだったのか、とは玖澄でなくても首を傾げるだろう。
慣れない刃を持って襲い掛かったとて軽く手首をとられ、逆に戒められるのは目に見えている。
言葉にはしないものの、さすがに女性相手にそう後れを取る程弱くないと言いたげな様子に、ばつの悪そうな表情を浮かべて初穂は応える。
「二人になって、油断した機会を伺って。……お父様から渡された、あやかしを討つ祝福を授かった短刀を、って……」
初穂は、消え入りそうな声で答えを返す。言葉が切れ切れになってしまうのは、仕方ないかもしれない。
自分が懐に抱いていた目的を思えば、如何に気にしなくていいと言われたとて心は重い。
それに、そもそもが成功するはずもない話だった、と思う。
如何に祝福を受けた有難い短刀だと言われても、実際見てみたところ何の変哲もないただの短刀だった。
初穂とて、これでどうやって、と考え込んだこともある。
閨で油断を誘い機会を伺え、と言う事だったのかもしれないが、初穂にとってそれは正面から相対しろと言われる以上に難しい。出来るなら、今朝あれほど動揺していない。
玖澄と実際に相対したなら何かあるのかと思ったが、試したいと思わない。
今は、あの短刀の存在を思い出す事すら辛く感じる。
「その短刀を見せて頂いてもいいですか?」
「ええ……」
何かを思案していた様子の玖澄は、ふと顔を上げると初穂に問いかけた。
問われた初穂は頷いてから文机に近づき、抽斗を開けると仕舞いこんでいた短刀を取り出した。
「これなの……」
何の飾り気もない簡素な短刀を両手で捧げるようにして玖澄に見せる。
玖澄は探るように短刀に厳しい眼差しを向けていたが、やがて初穂に向かって首を緩く傾げた。
「これは、私が預ります。良いですか?」
「ええ、勿論……」
玖澄に問われて、初穂はすぐに頷いていた。
出来るならばもう手元に置いておきたくない。あれは、玖澄に偽りを隠していた証のようなものだ。
父から言われた使命について全く気になっていないと言えば嘘になる。
だが、災いの原因は玖澄ではないという確信がある。ならば、玖澄を討つ必要はない。必要なのは、本当の原因を突き止めることだ。
そう思っていた初穂は、続いて聞こえた玖澄の言葉に思わず目を見張った。
「瀬皓の村に起きていることについて、心当たりが。……少しお時間を頂いても良いですか?」
「心当たり……⁉」
気付いた時には、初穂は震える声で鸚鵡返しに問いを口にしていた。
初穂の問いに応えるように頷くと、玖澄は静かに続ける。
「私の予想が正しければ。瀬皓に起きていることと、初穂さんが山の中で目撃したこと。全てが繋がります」
瀬皓の村人は今も尚苦しみ続けている。その原因が本当に明らかになるのだろうか、と怪訝に思う。
確かに、先程から時折玖澄が考え込むことがあった。あれはもしかしたら、原因について思い当たる節があったからかもしれない。
それに、何より。初穂は玖澄を信じたい。玖澄が、初穂を偽ることはないと信じられる。
だから、初穂は玖澄を真っ直ぐに見据えると深く頷いて見せる。
その様子を見た玖澄は、漸く平素の穏やかな笑顔を見せながら言った。
「必ず、初穂さんに本当の事をお知らせします」
そう言って、玖澄は静かに初穂へと小指を差し出した。
指切り、ということだろうかと初穂は目を瞬いて、目の前に出された小指を見つめてしまう。
少しの間戸惑っていたが、やがて恥じらいながら初穂は自らの小指を玖澄の小指に絡めた。
しっかりと結んで、約して。
玖澄は初穂を安心させる笑みを遺して、部屋を辞していった。
◇◇◇
夜更けて。
漆黒の天鵞絨に銀砂を撒いたような空に、細い銀の月が輝く頃。
玖澄の部屋にて、難しい顔で考え込む玖澄と白妙の姿があった。
部屋の主の手には、簡素な短刀が……初穂から預かった、彼を討つ為の祝福が籠っているというものがある。
玖澄が厳しい眼差しを手にした短刀に向けると、溜息を吐き出しながら呟いた。
「案の定、でした」
玖澄の言葉に、白妙の表情が歪む。
彼らは先程までこの短刀について見分していた。そして、導き出された結論に、揃って表情に苦いものが滲む。
玖澄は初穂からこの短刀を見せられた時から、ある疑惑を抱いていた。
それは、初穂が以前倒れた時に抱いていた疑問に対する答えでもあった。
そして、初穂が何も知らされぬまま、どんな運命を辿ろうとしていたのかを示すものだった。
「実の娘に……何て惨い事を……」
顔を歪めた白妙が、吐き捨てるように呟く。
少年の姿をした蛇の表情には隠しきれない嫌悪感がある。
その向く先は、刃を持ち込んだ初穂ではない……それを持たせた初穂の父親だ。
確かにこの短刀には、不可思議の力がこめられていた。
ただし、初穂が聞かされていたのとは違う形の。
初穂は、ただ信じて。それ故に苦悩して。
彼女の心中を思えば、玖澄は心の底から怒りが湧き上がってくるのを止められない。
初穂が何をした。
確かに病がちに生まれ付いてしまった。故に何時も引け目を感じて、何時しか願いすら抱く事もできなくなって。
それでも、彼女は信じていた。よすがとも思っていた。
それなのに……!
「白妙。……沢近くにある坑道を探って下さい。そして……」
名を呼ばれた白妙の肩が跳ねる。
何時になく厳しい声音に驚いて見上げた少年は、彼の顔に何を見たのだろう。
続けて紡いだ命に黙したまま頷き、強張った面持ちでその場を辞した。
自らを落ち着かせようというように、玖澄は深く大きな息を吐いた。
己の為には感じた事のない感情を、初穂を『使命』に駆り立てた者達に感じる。
初穂の笑みに、どこか消えなかった憂いの理由がわかって、遣る瀬無い思いを感じている。
初穂の哀しみを思えば思う程、彼女を追い詰めた者達への怒りがこみ上げてくる。
身の内を焼き尽くして暴れ出しそうになってしまう。それこそ、言い伝えにあったような獰猛な大蛇に転じてしまいそうに。
けれど、それを止めたのは過った初穂の笑みだった。
笑いながら差し出した小指に、華奢な小指を絡めてくれた時に浮かべていた、恥じらい滲む笑顔。
きっと、自分が怒りに狂い堕ちたなら、初穂は悲しむだろう。
彼女は充分に今まで悲しんできた。だから、どうかこれからは笑っていて欲しいと思うのだ。
苦悩し続けた彼女が、それでも生きたいと言ってくれたことが。
自分を信じて指を差し出してくれたことが。
玖澄は、堪らなく嬉しく、愛しいと感じていた……。
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