使われぬ刀
予想外の始まり方をした夫婦生活は、存外平和であり、そして楽しくすらある不思議なものだった。
玖澄は本当に世話好きの性質だった。
さすがに着替えや風呂などは控えるものの、初穂の世話は可能な限り自らの手で行いたがる。
曰く、可愛いお嫁さんのお世話は私の特権です、と。
夫である男性に食膳を整えさせる事に躊躇いを覚えて申し出ても、これが私の楽しみなのです、と嬉しそうに微笑まれて返す言葉がない。
それがまた大変にどれもこれも美味なのだから、女としての立つ瀬もない。
着物についても同様で、反物を手に入れては初穂の為に手ずから仕立ててくれる。言うまでもないが、実に見事な技術を披露してくれる。
玖澄と共に過ごす日が多かったが、白妙と共に屋敷の外に所用で出る玖澄を小霊達と共に待つ日もある。
愛らしい小霊達と屋敷でゆるりと過ごしていれば、土産だと言って山の幸を抱え、満面の笑みを浮かべた玖澄が帰って来る。
たまには一人の時間もさしあげなさい、と玖澄が白妙に釘を刺される事もある程、玖澄は初穂と共に過ごす事を望む。
だが不思議なことに、玖澄は二人で過ごす事は望むくせに、必ずある程度の決まった距離を置いて初穂と接する。
初穂がはしたないと思われるのを覚悟で、少し距離を詰めようとしたら、大きく肩をびくつかせて後退ったのだ。しかも、何処か恥じらった風な様子で。
何というか、嫁入り前の娘のような反応というか。またしても、女性としての立つ瀬が、と思いもした。
しかし、玖澄と共に過ごす時間を、初穂は嫌いではなかった。
玖澄が集めたもので彩られた部屋にて過ごすのも楽しかったが、四季が集う不思議な庭を散策するのも楽しかった。
玖澄と二人でいる時間は、初穂としては、望むところであるはずだった。
二人きりの時間が増えれば、それだけ懐に飛び込む機会とて増えるのだから。
だが、懐に短刀を潜ませて部屋を出て、戻ってきて溜息と共に引き出しにしまうのを繰り返す日々だった。
玖澄と過ごしていると、楚々として慎ましくと思っていても、ついつい笑顔が零れている事が増えていく。
だがそれと同時に、初穂が夜更けてまで起きている事が増えていった。
過ごす時間に笑みが増えていくにつれて、 部屋を出る前に短刀を取り出す手が、少しずつ重くなっていく。
討てば父の期待に応えられるのに。父や村の皆が喜んでくれるのに。
玖澄の笑顔を見る度に、あれ程強く自分を駆り立てた使命を、一日、一日と先延ばしにし続けてしまっている。
明日はこれをしましょう、と玖澄が言うから。気になって仕方なくて。
自分に言い訳を試みるけれど、あまり効果はない。
わかっている。自分はこの使命を果たすことに、気が進まなくなっている。
知ろうとしたのが間違いだったのだろうか。
玖澄が、あまりに裏のない真っ直ぐな感情を向けてくれるのを実感する。本心から、初穂が少しでも笑ってくれるように、と願っているのが伝わってくる。
初穂が少しでもこの屋敷にて幸せで満ち足りた暮らしを送れるように、心を砕いてくれているのを身に染みて感じている。
ほんの僅かでも、打算や裏を覗かせてくれたなら。少しでもいいから、計算であると感じさせてくれたなら。迷わず彼を討てるのだろう、と思う。
けれど、それが理不尽な考えである事にも、玖澄に責がない事でるとも気付いている。だからこそ、初穂の心中に靄が立ち込める。
靄が濃くなればなるほど、初穂が眠りにつくまでに要する時間は長くなっていく。
玖澄は恐らく気づいているのだろう。
部屋に戻る初穂に、よく眠れるようにと温かく甘い何がしかの飲み物を持たせてくれるようになったのだ。
手にふれる椀の温もりを嬉しいと思うと同時に、甘い筈の飲みものが酷く苦く感じてしかたなかった。
そんなある日、庭園を共に散策していた初穂に、玖澄が樹を植えようと言い出した。
初穂がこの屋敷に来た記念として。これからの歳月を見守ってくれる守りとして。
自分の身体についてよく知っている初穂は、言葉を濁してしまう。
きっと玖澄はここのところ、少しずつ初穂の気が塞いできているのに気付いている。少しでも心の慰めに、と思って言ってくれているのだろう。
苗木が生い茂る頃、初穂は玖澄の隣に居ないだろう。
でも、どうせその木が育ったところを見る事など叶わないと思っても、はにかむ玖澄の申し出を拒絶する事が出来なかった。
部屋に戻った初穂は、いずれ玖澄が味わうであろう失望などを思いながら、文机の引き出しからあの短刀を取り出した。
そして、ゆっくりと引き抜く。目に映るのは鋭い光を放つ刃だった。
見た限りは、普通の短刀である。祝福が籠っていると感じ取れないのは、初穂が只人だからだろうか。これで、如何にして……と思わなくもない。
だが、あやかしに突き立てよと渡された短刀は、いつ役目を果たすのかと無言の訴えをしているように思える。
せめて……と心の裡に呟きかけた時、初穂は目を見張った。
手に何か黒いものが手に纏わりついたような気がしたのだ。何かが身体を捕え、覆い尽くそうとするような感覚があった。
だが、それは一瞬のことで、瞬きする間に掻き消えた。
このところ眠れていないから幻でも見たのだろうか。初穂は溜息を吐くと、刃を鞘に戻して元の通り引き出しにしまう。
せめて。せめて明日の約束を果たすまで。約束をしてしまったのだから。
都合の良い逃げ道だと思うけれど、と初穂は深い溜息を吐いた。
だが翌日、苗木を植えようという約束は叶わなかった。
――初穂が倒れ、それ以降、床から離れられなくなってしまったからだ。
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