懇願と涙

 初穂はゆっくりと目を開けた。

 自分がいる状況が一瞬分からなかったが、すぐに蘇る感覚と共に自分が何処にいるのか、何があったのかを理解していく。

 初穂は、床に寝かされていた。

 朝の支度の最中、身体が酷く重く、同時に熱い感じがして不快に思っていた時、なぎ倒されるような感じを覚えた。

 小霊達が慌てふためくのを危機ながら初穂の意識は途切れ、次に気が付いた時には床に寝かされていた。

 枕辺には、どちらが病人かわからぬ程に蒼褪めた玖澄が、必死に何かを耐えるような表情で座っている。


「初穂さん……」


 悲痛な声音で初穂を呼ぶ玖澄を少しでも安心させたくて、僅かでも微笑みたかったけれど無理だ。

 意識と繋ぐ事が難しい程に高い熱が出たかと思えば喉が腫れて、咳が続く。

 眠る前に嫌な咳をしたのでまさかとは思ったが、と此処の処久しぶりに感じた身体の不調に、初穂は唇を噛みしめる。


 自分には、やらなければならないことがある。

 わたしには、やりたいことがある。

それなのに、どうしてこの手を満足に動かす事すらできないの……。


 幾日たっても熱は引かず。引いたとおもえば、また出る。それを繰り返す度に初穂は少しずつ窶れ、衰えていった。

 初穂は少しの間に、すっかり床から起き上がれなくなってしまっていた。

 玖澄も白妙も手を尽くして看病をしてくれているが、初穂の状態は一進一退が続いている。

 入れ替わりながら、初穂の枕辺に付き添い続けてくれる。

 初穂の顔の汗を拭い、氷嚢を取り換えて。団扇で風を送り、寒気を訴え始めたなら即座に掛け布団を足して。

 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのを見ていた初穂は、罪の意識で胸が詰まりそうになる。

 私に、そんな事をしてもらう資格など。私に、そんなにする価値など。

 脳裏に蘇るのは、屋敷に居た日々に聞こえていた数々の言葉。

 聞かせるつもりではなかったのだろうが何故か初穂の耳に届いた、使用人達の……そして家族の言葉だった。


『何時まで付き合わされるのかしら……』


 声を顰めるように囁き合う、心底迷惑そうな女中達の声。


『お姉様なんか、長女のくせにお嫁にもいけないのだから……』


 嫁いでいった妹たちの、溜息交じりの声。


『先が短いというなら、いっそ……』


 何度目かの峠にて、枕元にきた父の吐き捨てるような声。

 まるで泉が湧き出るように溢れてくる、数々の過去の声。耳にした、周りの人間達の心。

 それらば、初穂に現実を突きつける。

 改めて思い知る。自分がどんな存在であるのかを。

 ああ、少しでも夢を見ようとしたのが愚かだったのだ。

 そう思った時には、初穂はそれを呟いていた。


「もう、いいのです……。やめてください……」


 辛うじて絞り出した声は、驚く程に掠れていた。

 初穂の額の汗を拭っていた玖澄が驚いたように手を止めた。息を飲んで様子を伺っているのを感じる。

 息をする事すら痛み故に辛い。けれど、初穂は必死で、呻くように言葉を続けた。


「元から、弱く……病になりやすい性質なのです……。そのせいで嫁げずにいて……」


 だから、手を尽くすだけ無駄なのだと言おうとしたが、咳込んでしまって最後まで言えなかった。

 だが、これで玖澄も初穂を要らない、と思うだろう。

 贄として喰らうにしても、不健康な得物など不味かろう。窶れ細っていても、腹の足しになるというならまだ重畳であるが。

 仮に本当に花嫁を迎えかったというならば、望んだのは子を望めるような健康な娘だろう。

 贄であっても花嫁であっても、目的があるからこそ迎えたはずだ。

 それなのに健康どころか、何かにつけては病を得て床に就くような虚弱な娘がきてしまった。

 初穂は贄としても、花嫁としても、役に立たない、役立たず……。


「だから、もう、わたしのことは……」


 これ以上玖澄達の手を煩わせたくない。無駄な事に注力しないで、本当の花嫁を迎える支度をしてほしい。

 もうこれ以上、命を狙い偽りを抱えたまま、優しさを利用するような真似なんかしたくない……。

 かろうじてそれだけ紡ぐと、あとはただ荒い息をするだけになってしまった初穂。

 玖澄は、手を止め座したまま沈黙している。

 これでいいのだ、と思いながら、初穂が目を閉じようとした瞬間だった。


「それなら、尚更無理はいけません。淵の主から貰った魚で滋養のあるものを作りますから、少しでも食べられるといいのですが」


 汗を拭ってくれていた手が、再び動き出す。

 気遣うように穏やかに言われた言葉に、初穂は耳を疑う。

 全く気にした様子ないことに、熱に浮かされていた初穂が思わず目を見開いた。

 恐る恐る、視線をそちらに向けてみると平素と変わらぬ玖澄の優しい笑顔があるではないか。

 初穂が言った事を聞いたはずだ。

 本当だと受け取られなかったのだろうか。でも、現にこうして、初穂は寝込んでしまっている。

 玖澄や白妙達の手を散々煩わせてしまっている。

 それなのに、何故変わらないのだろう。

 優しい笑みで、温かな手で。慈しむような眼差しを向け続けてくれているのだろう。

 どうして、と初穂は声にならない問いを紡ぐ。

 だって、今まで、私は、わたしは。


「……私は、役立たずなの。価値が、ないの」


 喉が痛いけれど、耐えながら必死に言葉を絞り出す。咳込みながら伸ばした初穂の震える手を、玖澄の大きな手のひらが支えてくれる。

 握りしめられる手の温もりに決壊しそうになる何かを感じながら、初穂はふるふると頭を左右に振りながら訴えるように言う。


「苗木を植えたとしても、無駄なの。大きくなったところなんて、見られない」


 純粋に初穂を迎えた事を喜び、気遣って提案してくれた。

 けれど、木が育つ頃には初穂はそこに居ない。生い茂った木は、きっと玖澄の心に虚しさを与えてしまうだろう。


「外の世界のことを知ろうとしても。言葉を、学びたくても」


 瀬皓の外に広がる世界に、どれだけ憧れを覚えたとしても。触れてみたいと手を伸ばしてみても。

 初穂には手の届かない世界であり、けして辿り着けない場所だ。

 その為に、人の労力を割かせるなど、以ての外だ。

 言葉を絞り出し続けて、徐々に上がる息を察して玖澄が制しているのが聞こえる。

 けれど、初穂は残った力を振り絞るように、胸の奥底に凝るこころを口にした。


「私は、もう何を望んでも、意味がないの」


 まるで小さな子供の駄々のようだと思うけれど、首を左右に振りながら初穂は呟いた。何を言っているのか、徐々に自分でもわからなくなっていく。

 玖澄がどのような表情をしているか気になって、そちらを向こうとして。

 不意に、初穂は自分の手のひらに滑らかな感触を覚えた。


「先に限りがあるというならば。もし、それが短いと言うならば」


 手のひらを額に押し頂くようにして、何かに祈りを捧げるような表情で。

 何処か縋るような面持ちで、玖澄は初穂の手を握りしめていた。

 その声は悲痛な程に真摯であって、初穂の瞳が戸惑いに揺れる。

 初穂の手を握りながら、玖澄は静かな声音で続ける。


「ならば尚の事、共に在る事のできる時間は愛しく、大切なものです」


 まるで何かを思い出すように目を伏せながら、玖澄は語る。

 そこに悔いるような響きがあるのが、不思議に思えた。

 遠い昔に置き去りにしてきたものを慈しむように思い出しながら、同時に後悔に悲しんでいるように見えるのだ。

 戸惑いに少し茫然とした面持ちで見つめる初穂の瞳を、玖澄の紅い眼差しが真っ直ぐに見つめる。


「あなたには、先に願いを抱き、生きて行ってほしいのです。遠慮することなく、諦めることなく」


 そんなこと、言われた事もなかった。

 生きていて欲しいなど。遠慮する事なく、諦める事なく、など。

 妹達が次々嫁いでいき、子を為していく中で。

 何時まで自分達をつき合わせるのか、振り回される身にもなれ、と囁く声があったのを知っている。

 嫁ぐ事も出来ない役立たずなのだから、姉などと偉そうにしないでほしい、と妹達が嘲笑っていたのを知っている。

 先が長くないというのなら、いっそ諦めて早く死んでくれ、と父が溜息をついていたのを知っている。

 皆が地主の娘だから粗略に扱う事もできず、実に厄介な役立たずと疎んでいたのを。

 役立たずなのだから贄になって当然だと、思っていたのを知っている……。

 どうして、と掠れた呟きを零す初穂の額に、まるであやすように手を添えながら玖澄は微笑む。


「初穂さんは、私の大事なお嫁さんです。幸せになって欲しいのです」


 初穂は、何かを必死に堪え我慢している表情を隠せなくなってしまう。

 それは触れずに、話をさせ過ぎた、と玖澄は初穂の掛け布団を丁寧に整え直す。

 そのまま、水桶を替えてくると立ちあがり、部屋を出ていった。

 玖澄が姿を消した後すぐに、初穂は力を振り絞って布団を頭まで被る。

 布団の中で、初穂はもう零れる涙を抑える事ができなかった。

 病がちで、身体が弱い。子など到底望めない、役に立たない娘。

 今まで、そう言われてきた。そうだと思ってきた。

 でも、玖澄は初穂の身体のことを知っても、大事だと言ってくれた。

 諦める事も遠慮することもなく、願い、幸せになってほしいと……。

 事実を知っても尚、大事だと言ってもらえたことでこみ上げるものを堪えきれずに。

 短刀を託す父に言われた時よりも、ずっとずっと心に響いた「大事」という言葉に。

 初穂は、声を殺してただ泣き続けた。


 ◇◇◇


 水桶を抱えて部屋を出た玖澄は、部屋の近くに控えていたらしい白妙に気付いて足を止めた。

 白妙には山向こうの樹妖のもとに遣いに出てもらっていたが、戻ってきたらしい。

 労う為に口を開きかけた玖澄に先んじて、白妙が呟いた。


「私は、玖澄様にも、先を諦めずに生きていって頂きたいと思っております」

「白妙……」


 日頃落ち着き払った様子を崩さない、しっかり者の少年は哀しげに顔を歪めていた。

 少年の心中を思い玖澄が言葉を失って立ち尽くしていると、白妙は玖澄の手から水桶を取り、歩き出す。


「玖澄様は初穂様のお側に。可愛いお嫁さんの世話は私の特権、と言っていたでしょう?」


 言うと、白妙は止める暇もあらばこそ。廊下の向こうへと姿を消してしまう。

 残されたのは、言葉を失い見つめていた玖澄だけ。

 玖澄と白妙には、忘れられない過去がある。消す事のできない、取り返しのつかない過去が。

 玖澄の抱く悔恨と、白妙の抱く哀しみの根源は同一のものだ。

 だが、白妙はそれでも言うのだ、玖澄にも生きろと――諦めず、幸せになってほしいと。

 己の裡を、抱く考えを見透かされているような気がして、玖澄は哀しげな笑みと共に一つ息を吐いた。

 白妙が去った方角から、初穂の部屋の方へと視線を移す。

 今は、初穂の元に戻ろう。

 それが、自分の、そして彼の願いだから。

 少しだけ待って、彼女の涙が落ち着いたならば。もう一度だけ初穂に触れたい。

 そう願いながら、玖澄は柱にもたれながら天を仰いだ。

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