誰の為の世界
少しばかり二人の口数は減ったものの、その後も玖澄は、屋敷にある様々なものを案内しながら教えてくれた。
休憩しましょう、という玖澄に従い、少しして二人は庭を望める座敷にて茶を喫していた。
花の香りを運ぶ風を感じながら、初穂は目を細め、思わず嘆息する。
どうしました、と問いたそうな気配を感じて、初穂は溜息とも感嘆ともつかぬ複雑な息を吐きながら口を開いた。
「このお屋敷と、瀬皓と。どちらが閉じた世界なのかがわからなくなって……」
意図的に外界から閉ざされた瀬皓の村と、積極的に外の世界を知ろうとする玖澄の屋敷。閉ざされた世界はこの屋敷であるはずなのに、こちらのほうが余程外の気配を感じる。心を開いて吹く、風のようなものを感じる。
「村では、外とのやり取りは……」
初穂の言葉に何か感じ取ったのだろう。
玖澄が様子を伺うように眼差し向けながら問いかけてくるが、初穂は首を左右にゆるゆると振る。
「お父様が、外から新しいものを入ってくることを……いえ、帝都にあるものが入ってくることを嫌がっていらしたから……」
瀬皓の村は、そもそもが外界との行き来の厳しい場所にある。
だが、村が閉じた世界であるのはそれだけが理由ではない。
その理由は、長である初穂の父だ。
出入りを厳しく監視して制限するのも、入りくる新しい……いや、帝都にある考えやものを拒絶し村に入れないのも、全ては父の意思である。
初穂は、ひとつ息を吐くと話し始める。
「お父様は、昔は『神童』と呼ばれる程の秀才だったのです」
それは密かに聞いた昔話。
手習いにおいて、初穂の父は他に並ぶもののない優秀さを示したらしい。
周りのものは皆こぞって褒め称え、神童とまで称して持て囃した。
だが。
「……そう思わせる為に、周囲は大分苦労していたようです。お祖父様に忖度した者達が、若様を立てるようにと子供達に言い聞かせていたと」
この一帯の大地主であり最大の分限者である祖父の威光を恐れるものは多かったのだという。
祖父にとって大事な跡取りである父は、誰よりも何よりも抜きんでて優れていなくてはならない。
誰かに後れを取る事があってはならない。そう、誰も父に勝ってはならなかった。
そして、少年だった父は作られた栄光に気付かぬまま成長していく。
「自分を天才だと思ったお父様は、国を動かす人材となれると信じて意気揚々と帝都に出られたのです」
祖父の代は今ほど外とのやり取りは禁じられておらず、若き日の父はひとかどの人物となる為、国の中枢を目指した。
自分に相応しい栄誉を掴むために。けして自分の力を疑うことなく。
「でも、実際はお世辞で成り立つ張りぼて。結果は箸にも棒にも。何処へいっても非才無能扱いされて、瀬皓へ逃げ帰ってきたのです」
初穂の言葉に、少しばかりの棘が混じる。初穂の顔には、苦い笑みが浮かんでいた。
「それからです。帝都を目の仇にするようになったのは。帝都にあるものは全て本当の価値も分からない浮ついた連中が好む下らないものと」
青年は大志を抱いて都へと上り、夢破れて帰って来た。
その挫折感は、大いなる歪みとなって村を縛る鎖となった。
どれだけ進んだ文化や技術があろうと、それが帝都にあるものであれば下らぬ物として拒絶する。
まやかしの類として、ありもしない恐ろしい逸話を流しすらする。
瀬皓の村人は、父から許可されなければ村の外にすら出られない。近隣の村とのやり取りすら見張りがつく有様だ。帝都とのやり取りなど以ての外。
時折外から花嫁を迎える事がある。だが、それすらけして諸手を上げて歓迎されるものではない。事情があるから仕方ないと、父が認めた場合のみ許される。
全ては、瀬皓が父の為の世界であり続ける為。
外から余計な情報が村人に行かぬ様にして。村を閉ざして、人々に与える知識を制限して。
地方は開化から取り残されがちであるが、瀬皓は殊に変わらぬまま取り残されているらしい。
村を閉ざし、限られた世界の中で人々に神の如く君臨し続ける事で、父は傷ついた自尊心を癒してきた。
「今でもお父様の中には帝都への劣等感が強い。だから、下男の山根が酷い扱いを受けるのです。あの人は、退学したとはいえ帝大の学生だったから」
初穂の脳裏に、父に酷く殴りつけられていた山根の姿が蘇る。
父にとって憎く忌々しい帝都にあった人間。それも、最高学府にて学んでいた真の秀才。閉じた世界にとって忌むべき、外の世界の価値観を持つ者。
恐らく本心としては殺してやりたいぐらい憎らしいのだろう。
それでも山根を側において使い続けるのは、痛めつけ、貶めて自尊心を満たすためだ。自分が彼より優位にあるということを実感したいのだろう。
「それに……いくら村で神のように振舞っていたとしても。中央からのお役人には平身低頭しなければならない」
瀬皓が幾ら僻地であり隔絶されているといっても、完全に中央の権力が及ばないわけではない。
思い出すようにたまに、中央の役人が瀬皓を訪れる事がある。
その時は、父は哀しいほどにへりくだり、こびへつらって見せる。
国に睨まれてしまえば終わりだということは、流石の父でも理解しているらしい。
帝都から来た人間に平身低頭しなければならない事実に唇を噛みしめながら、笑みを貼り付けて彼らをもてなすのだ。
「帝都という存在がある限り、お父様は『神様』で居続ける事ができないから」
神であり続けたい父にとって、自分を人に引き戻す帝都はもうただの憎しみの象徴でしかないのだ。
父が瀬皓を閉ざすのは、古い価値観が故ではない。ただ、自分の劣等感を慰めようとしているだけ。
「だからお父様は、帝都から流れてくるもの……いえ帝都を思わせるもの全てを瀬皓から排除しようとするのです」
外の世界にあるものは、父が絶対である世界を脅かす悪しきものでしかない。だから、入り込む事を許さない。
瀬皓を閉じたまま、彼の意のままである世界賭し続ける為に。
厳しく出入りを監視して、彼は村の者達に閉じた世界の住人であることを強いる。それをけして不自然に思わぬように言いきかせながら。
――それを不自然に思うものたちが、確かにある事に気付かぬまま。
「瀬皓は、お父様の為にある世界なのです」
ぽつり、と初穂が語り終えると、その場には沈黙が満ちた。
つまらない話を聞かせてしまったか、と初穂が少し悔いながら玖澄の様子を伺おうと視線を動かした瞬間だった。
「でも、ここはお父様の世界ではありません。……貴方がしたいと思う行動を禁じるものは、ありません」
弾かれたように視線を向けた先。ぶつかった初穂の黒い眼差しと玖澄の紅い眼差し。
戸惑いの色を浮かべながら見つめる初穂に、玖澄が微笑んだ。
「初穂さんが知りたい、と思ったなら。出来る限り、貴方に外の世界の事をお教えします。望みが叶うように、力を尽くします」
笑みはあまりに温かで、優しいものだった。穏やかな思慮と気遣う光を感じて、初穂の戸惑いは更に深くなる。
そんな初穂を見つめながら、笑みと共に玖澄は続ける。
「だから。私には、遠慮しないでほしいのです。初穂さんがしたいと思う事を、教えて下さい」
初穂は、言葉を返す事が出来なかった。
どうして、と初穂は心の裡の動揺をもう隠せなかった。
だって、あまりにもその笑顔が優しいから。声音が、穏やかで温かいから。
いけないと戒めていても、心が近づきたいと願ってしまう。今まで求めても得られなかったものが、そこにあると思ってしまう。
これではまるで――玖澄に心惹かれかけているようではないか。
出会って間もないというのに、相手について知らないことばかりなのに。
これは続く出来事の衝撃に心が揺れているだけだ、と自分に言い聞かせる。
贄として自分を喰らうはずだった相手が、温かく迎え入れてくれた事への動揺が続いているだけだ。
確かに玖澄は美しいし、初穂に優しくしてくれる。父達のように傲岸で威圧的ではない。穏やかで世話焼きで、時折少し情けないところもある様子だ。
好ましいと思う。でも心を許してはいけない相手だ。
玖澄は、初穂にとっては討つべき存在、それ以外であってはならないのだから。
そうでなければ、辛いだけだから……。
課せられたものを忘れたいと思ってしまう自分を、初穂は心の裡で叱咤する。
山の大蛇は惑わしの力を持っているのだろうかと、初穂は唇を噛みしめてうつむいてしまう。
きっとそうなのだ。玖澄は美しい容姿と、優しい言葉で人の心を惑わし、奪うのだ。
玖澄が、それ以上の言葉を継げぬまま、黙って初穂を見守っているのを感じる。
何故貴方はこんなに優しいの。何故、こんなにわたしはなきたいの。
揺れに揺れる自分の心が何処へ向かおうとしているのか。何故に斯くも揺れるのか。
したい事を問われても、初穂は応えられない。分からない。他ならぬ自分自身の心であるはずなのに。
心も、願いも、辿り着こうとする先も。
初穂には、まだ分からない事だらけだった。
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