異国の部屋

 腹具合が落ち着いた頃を見計らってか、暫しして玖澄が顔を見せた。

 屋敷を案内しようと思うが如何か、と問われて初穂は素直に頷く。

 歩く先々で、小霊達が嬉しそうに二人の周りをくるくると踊るように回る。

 それを窘めつつも、玖澄は笑顔だった。

 彼の様子は、どうみても獰猛で恐ろしいあやかしではない。小さい存在をも慈しむ、優しく穏やかな山の守り手だ。

 そんな彼を見つめつつ、白妙が優しい苦笑いを浮かべながら控えている。

 あまりに温かくて優しい光景と共に、初穂は屋敷を案内された。


 少しずつ趣を違えながらも不思議に調和する、障壁画や金具、装飾に彩られた幾つもの座敷を見せてもらい。

 地主の屋敷よりも整い、使い勝手の良さそうな水回りなどを、一つずつ説明してもらって歩く。

 幾つかの棟を渡り廊下にて繋いだ屋敷は、歩みを進める度に様々な角度から四季が集う不可思議の庭を臨む事ができる。


 初穂は密かに心にて感嘆の息を零していた。

 どれも、けして嫌味ではないのだ。むしろ心地よく響き、落ち着くとすら思う。

 一つの渡り廊下の先にあるのは、玖澄の私室であるという。

 歩みを進めてたどり着いた先、見事な襖を開いて、どうぞ、と促されて入った先で初穂は思わず言葉を失って立ちつくしてしまった。


 不思議なものや異国の香りのするものに囲まれた、まるで美しい宝箱のような部屋。

 それが、初穂がその部屋を見て抱いた感想だった。


 きらきらと輝く窓を通して色を帯びた陽の光が差し込む、和の趣の屋敷なれど洋の趣のある部屋には様々な異国のものが集められていた。

 どれをとっても、初穂には見た事もないもの、知らないものばかり。

 淑やかに慎ましく、と心掛けてもどうしても目が輝いてしまう。子供の用にはしゃいでしまいそうになる。

 これは何? と幼子のように目をきらきらさせて問いかけたくなってしまう。

 慌てて顔を引き締めて澄まして見せようとするけれど、どうにも捗々しくない。

 玖澄は初穂を見て頬を緩めると、部屋にある品々の説明をはじめる。

 初めて見る、色のついた硝子の窓が美しい部屋にて、玖澄は沢山の珍しいものを見せてくれた。

 どれもこれも、瀬皓には存在しない、不思議な品々である。

 西洋のものだ、と玖澄が告げた楽器は、試しに操る彼の手にて何とも妙なる音色を紡いだ。

 音楽に聞きほれていると、これも如何、と玖澄は何かの箱のようなものや、面妖な装置を示す。

 箱は、側面についている取手のようなものを回すと、儚く済んだ音色をどこからともなく奏でてみせ、初穂を驚かせた。これは、おるごおるというものらしい。

 もっと驚かせたのは、開きかけた金属の傘のようなものがついた箱に見えるものだ。

 玖澄が何やら弄っているのを首を傾げてみていると、何と突然女性の歌う声が部屋に響いたではないか。

 目を瞬いて周囲を見回してしまった初穂に、玖澄はそれが蓄音機という機械であると教えてくれた。何でも音楽や歌を保存しておいて、いつでも聞けるようにしたものだとか。

 色彩に溢れた風景を描いた絵画を背にあるのは、細い吹き口のついた丸い硝子に、蒼い瞳に輝く金色の髪をした洋装の人形。人形の瞳は硝子の玉であるらしい。

 見知った人形とは違った趣の人形を抱かせてもらい、やはり違った感触を感じて初穂は目を細めた。

 話に聞いた事だけはあった、離れた場所を具に見る事ができるという遠眼鏡。

 そして、くるりと回る地図を描いた不思議な珠。描かれているのは数多の異国であり、これは世界を現した地球儀というのだ、と玖澄は言った。

 こんなにも多くの国が海の外に存在するという事がまず信じられないが、もっと信じられなかったのが……。

 玖澄に、この国はどこにあると思いますかと問われて、とりあえずこれかですかと示すと、玖澄は静かに首を左右に振った。

 ゆるりと向けられた玖澄の指の先を見て、初穂は言葉を失う。

 想像もしなかったほどに、全体にと比べてあまりに小さい島の集まりだったからだ。


「……本当に、この国はこんなに小さいのですか?」

「ええ。世界中を旅してまわった異国の人々が作ったものです。この国は、世界に比べたらこんなに小さいのです」


 玖澄の言葉が本当ならば、この日本という国は小さな国であって。

 その中の一地方の、数ある村の一つに過ぎない瀬皓は、もっと小さく、狭い。

 けれど、初穂にとっては、瀬皓の民にとっては、それこそが世界だった。

 いや、その瀬皓の中でも、もっと狭い地主の屋敷の奥座敷こそが初穂の世界の全てだった。

 自分がどれ程小さな小さな世界で暮らしていたのかと思えば、咄嗟に続く言葉が出てこない。

 嘘だ、と言いたい心があるけれど、玖澄の落ち着いた声音に嘘はないと感じている。

 懊悩しかけた裡を止めるように、頭をゆるく振るともう一度部屋の中を見回す。

 部屋の中にあるのは、何も異国のものばかりではない。

 部屋のそこかしこに、日本独自の工芸品に美術品もさりげなく置かれている。

 古今東西が不思議に溶け合い調和し合う、不思議な空気の漂う部屋。その中で趣を異にせずに微笑む玖澄。

 端正な顔に浮かぶ笑みを見つめていた初穂は、弾かれたように俯いてしまう。

 思わず見惚れてしまいそうになったのだ。鼓動が微かに走りかけている。

 いけない、と思う。まじまじと見つめてしまうのは不躾でもあるし、これではまるで……。

 考えを振り払うように、初穂は部屋にあるものに次々視線を向けていく。

一通り見て回って、改めて初穂は息を吐く。

 何故瀬皓の山の奥に、これだけの異国のものがあるのか不思議でならなかったので、控えめに問いかけた。


「どうして、瀬皓の山奥にこれだけのものが……?」

「お願いして、集めてもらったのです」


 玖澄によると、外の世界を巡らせている従者に集めさせたり、時折白妙を外に出して求めさせているのだとか。珍しいもの、新しいものがあれば持ち帰ってくださいと。

 これだけ多くのものを贖う事が出来るなど、山のあやかしは大分分限者であるようだ。地主であった父よりも、余程富を築いているように思える。

 少し声を潜めて教えてくれたところによると、希少な霊薬として取引されるものを有しており、それを金に替えているらしい。

 それ以外にも、山の霊薬や恵みを金に換える術があり、屋敷の調度や必需はそれで賄っているとか。


「新しいものに柔軟なのは美点ですが、時折無茶を言われて困る事があります」

「……すいません」


 肩を竦めながら言う白妙に、玖澄はばつ悪そうに平謝りしている。これだけみると、またも主従がわからなくなる。

 二人の様子を見てついつい口元を緩めてしまいそうになるのを我慢して、初穂は壁に歩み寄る。

 据えられた書棚には、様々な書籍がぎっしりと詰められている。見た事もない文字から察するに、異国のものもまざっているようだ。

 その中の一冊をそっと手にとり、丁重な手付きで開いてみる。

 柔らかな筆致で描かれた挿絵は、夢のような雰囲気を持つ美しいものだった。

 着飾った姫君と思しき女性と凛々しい男性の絵は、物語の一幕なのだろう。

 だが、当然ではあるが、文字が見た事もない異国のものである以上、初穂に内容を知る術はない。

 絵を眺めていた初穂の耳に、それは異国のおとぎ話です、と玖澄が言うのが聞こえた。

 白妙に軽くお説教をされていた玖澄が、何時の間にか初穂の隣に立っていた。

 玖澄は初穂の手にしているから書棚に並ぶ本の数々へと視線を映しながら、一つ息を吐いて続ける。


「この辺りは、あらかた読んでしまいました」

「何故、山の中に籠っている貴方が異国の文字を読めるの⁉」


 初穂は思わず目を見開いてしまう。

 確かに本とは読むためのものである。だが、文字の違う異国の書籍があるのは、蒐集の意味かと思っていた。

 このような山の中で、どの様にして玖澄は異国の文字を読めるようになったのか。

 しかし、次の瞬間視線を泳がせながら、初穂はやや弱い声音で言い直す。


「あ、いえ……。読めるのですか……?」


 ついつい丁寧な物言いを忘れてしまった。

 相手は初穂にとっては男性である。

 それに祝言をあげた以上、仮初であろうと、相手がひとならざる者であろうと、夫という立場にある存在だ。

 身に染みた教え故、無礼な物言いをしてしまったことに抵抗を感じてしまう。

 この屋敷にきて数々の衝撃につい緩んでしまっているが、それで良しとするには初穂は理想的な女子であり過ぎた。

 慌てて言い直した初穂に少しだけ優しく苦笑いしながら、玖澄は書籍に視線を戻して語り始める。


「籠っていると暇なので、色々集めさせたのです。辞書も一緒に揃えてもらって」


 玖澄は、手を伸ばして棚から一冊の古びた革表紙の本を取り出す。

 それを示して見せながら、頁を少し捲りながら、玖澄は続ける。


「辞書を片手に読み解いていって。気付けば、読めるようになっていました」


 どうやら、この大蛇は辞書を頼りに手探りで学び始め、努力の末に異国の言葉を覚えるに至ったらしい。

 その熱意と根気に内心感心しつつも、初穂は再び物語の頁に視線を落とす。

 広がるのは美しい物語。初穂には想像もつかない、異国のお話。


「きっと、美しい物語なのでしょうね。……とても、美しい絵ですもの」


 絵から少しばかり推し量る事は出来る。けれど届かない、辿り着くことはできない世界。

どんな話か知りたいと願っても、初穂にそれは叶わない。

 瀬皓の外の世界のように、確かにそこにあるはずなのに触れる事の叶わないもの。

 諦めろと言い聞かせる自分の声に反するように募る何かに、必死に蓋をする。見ない振りをする。それが、初穂の何時も通り。

 寂しげに笑う初穂の耳に、ふと玖澄の言葉が飛び込んでくる。


「それなら、私が教えましょうか?」


 言われた言葉に、呆然とした眼差しを玖澄に向けてしまう。

 そんな事は到底無理だ、と思うからだ。

 初穂は、平仮名を読めるように教えてもらっただけでも情けのようなものだった。

 どうせ『初穂には』必要ない、とまともに教えを受けられない初穂を哀れに思った乳母が、密かに教えてくれた。

 学ぶ事に触れておらず、慣れていない。どこまで出来るか、何が出来るかも分からない。

 そんな初穂にとって、異国の文字を読めるようになることは、空に瞬く星のように遠いものに感じる。

 それに、教えてもらうと言う事は、相手の時間を初穂の為に使わせてしまう事だ。

 最低限必要な事の為意外で相手に時間と労力を割かせてしまうことは、初穂にとって最もしてはならない事だと骨身に染みている。


「いえ。……遠慮致します」


 だから、気付いた時には既に答えてしまっていた。

 初穂の表情と声音を見つめ、玖澄が何かを考え込んでいるやや固い空気があったが、やがてそれが緩んで。


「無理にとは言いません。でも、気が向いたら何時でも言ってくださいね?」


 初穂にはあくまで意に沿わない事はさせたくないと笑う大蛇を見て、申し訳ない気持ちになってしまうのだった。

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