新しき暮らし

 祝言の翌朝から、仮初の夫婦生活は始まった。

 小霊達が手伝ってくれるというので手を借りて朝の身支度を整えていると、白妙が朝餉の支度が出来たと呼びに来た。

 昨夜の事を考えるとどのような顔をすれば良いのだろうと心にて苦悩し、やや固い面持ちになってしまう初穂。

 しかし、それとは対照的に迎える玖澄は晴れやかな笑みを浮かべていた。

 整えられた膳には、実に美味しそうな汁や菜、それに白いご飯がある。

 ゆらりと湯気が上がっているところからして、温かであるのは確かだ。

 日頃、家人がそれぞれに食べ終わった後の残りの、冷えた汁や菜に慣れていた初穂にとっては、少しばかり衝撃だった。

 召し上がれ、という言葉を受けて我に返り手を合わせ、箸を手に取り食べ始める。


「おいしいです……」


 気が付けば、素直に口に出していた。

 手にした器から伝わる温かさや、どこか懐かしさを感じさせる味付けに、身体の強張りが解れていく気がする。

 両手で椀を持ちながら、自分では気付けぬままに無防備な表情を浮かべる初穂を見て、玖澄が嬉しそうに微笑んだ。


「良かった。作っている最中も、お口に合うかどうか心配で、心配で。でも、そう言って頂けたので安心しました」


 とても美味しいです、と続けかけた初穂は、ふと動きを止める。

 今、聞き逃してはいけない事が聞こえた気がする。

 玖澄は、目の前の美味しそうな朝餉が初穂の口に合うか心配していた。

 言われたた言葉を何度か脳裏で繰り返して、その理由について考えてみたならば、結論としては。


「……玖澄様が、お料理を?」

「初穂さんに食べて頂くものだから、自分の手で作りたくて」


 はにかむように笑いながら言われた言葉を、初穂は中々理解出来なかった。

 そもそも、初穂の中では食事の支度は女性が行うものであるし、男性は台所に入りすらしないのが普通である。

 それが当たり前の理と思ってきた初穂にとっては、この素晴らしい屋敷の主であり男性である玖澄が、女性である初穂の為に食膳を整えたというのが俄かに信じがたい。

 しかも、昨夜祝言をあげたばかりであり、玖澄は初穂の夫である。本来なら妻が夫の為に、というのが正しいはずだ。

 だが、ここで嘘をついても玖澄に何の益もない。初穂が美味しいといった時に見せた喜びの色は、疑う余地もないほど確かなものに思えた。

 それに、である。

 初穂は、喜びを隠しきれないまま、自らも箸を進める玖澄を見つめる。

 そもそも、あやかしである大蛇が人と同じものを食すと言う事も、初穂にとっては驚きである。

 人である初穂に合わせてのことなのだろうか。

 それとも、まさか美味しいものを食べさせて肥えさせてから……と僅かに身を強ばらせながら見つめていると、視線に気づいたらしい玖澄が手を止めた。

 玖澄は苦笑しながら、話し始める。


「鬼の一族は人を食べて命を繋ぎますが、私は違います。確かに、私や他のあやかしも、食べろと言われれば食べられないわけではないのですが……」


 あやかしが人を食べないのか、と思っていたのがどうやら顔に出てしまっていたらしい。

 言い方からして、玖澄は人を糧とする種ではないということか。

 少しでも怯えの宿る眼差しを向けてしまった事に、初穂は罪の意識を感じて身を縮めこめてしまう。

 ゆるゆると首を左右にふり、安心させようというように表情を緩め、玖澄は続ける。


「気が進まないというか、好みではないのです。やはり、こうして野菜や魚を料理して食べるのが一番好きです」


 食べられないわけではないが、進んで食べたいものではないらしい。

 少なくとも、玖澄は人と同じようなものを、同じ様に料理して食べる事を好む。

 それを聞いて、初穂は内心にて疑問を抱く。

 それなら、怒った大蛇に喰われたという逸話は。喰われる為に山のあやかしに隠されたらしい、という人々は……。

 聞いていた話と、目の前の青年が語る言葉の内容に食い違いが生じている気がして初穂は考え込む。

 玖澄は、なおも静かな声音で語り続けている。


「あとは、お肉も好きです。時折山の獣を狩る事もあります。あとは……以前、お土産でもらった牛の肉を鍋にして食べましたが、あれは美味しかったです」

「う、牛を⁉」


 玖澄の言葉に、初穂は目を瞬いて絶句してしまう。

 牛、とは瀬皓にも数頭いる、あの牛であろうか。まさか、世の中に同じ名前の違う生き物がいるのだろうか。

 だって、初穂が知る牛という生き物は……。


「牛は、農作業に使ったり、荷物を運んだりするためのものですよね……?」


 僅かに震えた声で、恐る恐る口にする。

 初穂の中では……いや、瀬皓の民の中では、牛は家畜であると同時に財産である。

 農作業や運搬の為に使役するものであって、けして食べるものではない。いや、そもそも食べられるものだと思った事すらない。

 呆然と固まってしまった初穂を見て暫しきょとんとしていたが、やがて玖澄は微笑みながら再び口を開く。


「人の帝も肉を召し上がられたとか。帝都では、お店も出来ているらしいですよ」


 帝が、と鸚鵡返しに呟く初穂の声音は乾いたものだった。

 国の中枢から遠く離れた地方において、帝都の話など遠いおとぎ話のようなものでしかない。

 ましてや、意図的に知る事を戒められた瀬皓においてなど、実在する事すらあやしく思う程に不確かであって。

 けれど、何故に閉ざされた瀬皓の、更に閉ざされた山の中にいるあやかしがそのような事を知っているのか。

 どうやら、牛の肉の料理は玖澄の舌にあったらしい。その後も時折食べたくなるようだが、中々難しいという。

 牛を飼いたいので買ってきてほしいと外を回る従者に頼んだら怒られたらしい。

 白妙が当たり前です、と同意するように頷いているのを見て、玖澄が申し訳なさげに身体を小さくする。

 その後妥協することにした、というので聞いてみたならば。


「流石に村からお肉を頂く訳にはいかないので。時々、村の母牛から牛の乳を拝借したりしておりました」


 それを聞いた初穂が、またしても目を見開いて凍り付く。

 牛の肉と聞いても信じがたい思いがしたが、今度は牛の乳と言わなかっただろうか、この大蛇は。

 僅かに蒼褪めた初穂は、震えながら何とか問いを口にしようとする。


「牛の……?」

「牛乳はとても滋養があって、身体にいいのです」


 否定の言の葉が返る事を期待して問いかけたものの、肯定の頷きが返ってきた。

 有り得ない、と心の中で呻く。

 牛の肉が食べ物という感覚もそうだが、牛の乳を人が摂ると言う事も初穂の世界においては有り得ない事だった。


「……牛の乳を飲んだら、牛になってしまったりしないのですか……?」


 皆は……少なくとも、瀬皓の村人たちはそう思っていた。

 牛の乳を口にしたものは、涎をたらすようになり、尻尾が生えてきて、やがて牛になってしまうのだと。

 幼い頃から言い聞かされてきた話である。試した事はないし試した者を見たわけではないが、してみたいと思った事もない。


「私があやかしだから大丈夫というわけではありません。人が飲んでも大丈夫です。現に、異国の方々は普通に飲まれています」


 未だ半信半疑といった様子の初穂に、玖澄は苦笑いしながら言う。

 身体にも良いし、西洋の人間が体格に恵まれている理由の一つは牛肉や牛乳を摂る文化がある故とか。

 けれど、そう言われても帝都の事すら夢物語な初穂にとっては、異国の話などもっと現実味がない。異国の人間など見た事もないし、海を隔てた先に国があると言う事も何処か信じられない。

 あまりに荒唐無稽すぎて、俄かには信じがたい話である。

 だが、玖澄が語ると、頭から否定できないのも事実。

 知らない世界が垣間見えるような、扉が開かれようとするような、不思議な感覚を覚える。

 気のせい、と思おうとして、ゆるゆると首を振りながら、初穂はふと思い出した。

 牛に関わる話で、瀬皓の村には不思議な事が時折起きていたのだ。

 牝牛の管理をしているものが、時々首を傾げながら父に報告しにきたのを耳にしたのだが。何でも……。


「もしかして。……時々仔牛を産んだ牝牛のところに、誰が持って来たかわからない山の菜や果実が置いてあったのは」

「はい、私です。無償で頂くわけにはいきませんから」


 報告に来た男が言うには、乳の出る牝牛の元に誰の仕業かわからぬが山の菜が置かれて居る事がある。

 誰かが禁じられているのに山に入って採って来たのかもしれないが、それなら何故そんな場所に置くのか。

 瀬皓の村の七不思議の一つにも数えられていた謎の答えは、当事者たる玖澄の口から答えが齎された。

 つまり、玖澄は牛の乳が欲しくなると、様子からして白妙あたりに命じて村の母牛から拝借し、対価として山の幸を置いていた。

 泥棒のような真似はできません、と微笑む玖澄を見て、初穂は複雑な心境になる。

 権力を振りかざして、自分達が酒宴を催すからと、不当に村人から収穫物を取り上げる事のあった父達の様子が脳裏を過る。

 きちんと対価を支払うという、人よりもある意味道理を弁えたあやかしに、初穂は何とも言えない気分になってしまった。

 黙り込んでしまった初穂に、玖澄が促しの言葉をかける。

 これ以上手を止めて朝餉が冷めきってしまわぬように、と初穂は考えを打ち切ると、少し急いで箸を進めたのだった。


 有り得ない、どういう事だ。

 朝餉の時から、初穂の脳裏はこの言葉が駆け巡り続けていた。

 初穂は自らが纏う着物をまじまじと眺めていた。

 目が覚めてこれを、と用意されていた初穂の着物は、見事な織りの生地を、これまた見事な仕立てをしたものだった。

 肌に感じる心地が、今まで感じた事もないもの上質なものである。

 地主の娘として親の面子の為にそれなりの着物に慣れていた初穂にとっても、格段に上等であるとわかるものだ。

 さぞかし名のある職人によるものなのだろうなと思い、朝餉のあと用意してくれたであろう玖澄に礼を告げたのだ。

 そして、返ってきた言葉はこうだった――頑張った甲斐がありました、と……。

 一瞬、言われた事が全く理解できず、初穂は礼を述べた姿勢のまま凍り付いてしまった。

 頑張った、というのはどういう事かと何度も裡に問いもした。

 しかし、どれだけ考えても、考えても。出てくる答えは同じである。

 つまり、初穂が今身にまとう着物は玖澄の手によるものだと。

 何とこの着物は、花嫁を迎えるにあたり用意した反物から、玖澄が手ずから仕立てたものだという。

 さすがに反物を織るまでは間に合いませんでした、と玖澄は笑っていた。

 あの言い方だと、間に合うなら反物から自作していたのではなかろうか。

 そう思いながら視線を向けた先で目があった白妙は、何故か複雑そうな様子で頷いていた。

 夜更けても、灯した明かりの側で嬉しそうに針を動かしていたらしい。

 裁縫までこんなに見事に出来るのか、と嗜みの足りぬ自分を省みると、相手のどちらが婦女子であるのか分からなくなってしまった。


 玖澄が小霊達に呼ばれて所用を済ませる為に場を後にした後に、知らずのうちに溜息が出てしまっていたらしい。

 部屋に戻った後に茶を淹れてくれた白妙が、気遣うように話し始める。


「身の回りの事や、興味を持った事は突き詰めてしまうのが癖といいますか。仕え甲斐がないといえば、ないのかもしれませんが……」


 身の回りの事は自分で行いたがる性質らしい。そして、やるからにはきちんとやりたいと修練したという。

 結果あの通り、殿方にはあるまじきことだが、料理に裁縫にと、概ねの家事に秀でてしまったのだと。

 それでも、ここ最近は今まで以上に嬉々としてあれやこれやと支度に打ち込んでいたと白妙は語る。


「あの方は元々世話焼きの性質のようですが。大事な嫁御寮に関わる支度は、殊更他に任せたくなかったのでしょう」


 花嫁を迎えると言う事になって、必要と思われるものを用意するだけではない。

 慣れぬ場所に嫁いでくる花嫁が少しでも居心地よくあるように、不自由を感じないように。

 心を尽くして、可能な限り己の手で支度を整えた。嬉しそうに、楽しそうに笑いながら。少しだけ、不思議な哀しみを感じさせながら。

 初穂の中には、大事にされたとしても、これは贄が命をとられるまでの猶予のようなものではないか、という疑問が潜んでいた。

 だが、ここに至って、それは完全に消滅する。

 白妙の言葉と、玖澄の様子から見て間違いない。

 何故、力を持つであろうあやかしである玖澄が、人の里からの申し出を受け入れたのかは分からない。

 贄としてではない。玖澄は初穂を確かに自身の花嫁として迎え、大切にしようとしてくれている。

 玖澄は、確かに初穂を己の妻として、大切に慈しもうとしてくれている……。

 何故、とどれだけ裡に浮かべても答えなど出ない。

 そして……。

 白妙が消えた後に初穂が見据えた先には、美しい装飾施された文机がある。

 その引き出しには、父から託されたあの短刀があるのだ。

 戻ってこいという父の言葉が蘇る。

 初穂を使命に駆り立てた、初穂にとってはよすがであった言葉は、何故か酷く重く苦しくのしかかってくるように感じる。

 本当に、玖澄は瀬皓に仇を為す恐ろしいあやかしなのだろうか。

 玖澄が大蛇である事が変わらないとしても、何故彼がそのような事をするのか。

 初穂の知らぬ一面があるというのだろうか。それとも、どうしてもそうしなければならない理由があるのだろうか。

 幾ら考えても、考えても、思考は堂々巡りを続けている。

 初穂は、自分が何も知らない事に気付く。

 そう、知らないのだ。玖澄のことも、瀬皓に起きていることも、その他のことも。

 この屋敷にきて時間が経つにつれ、玖澄というあやかしを知るにつれ。自分が『知らない』という事に気付いていく。

 知りたい、と思う。けれど、知ってどうするとも思う。

 贄ではなく、花嫁であろうが。玖澄の慈しみに偽りがなかろうが。

 初穂に課せられた使命が消える事もない。初穂が、いずれ玖澄を討たねばならない事は、変わらない。

 それ以外を望まれていない。

 だから、初穂の願いは『そう』でなければならないのだから……。

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