贄の目的
あれは、祠に出立する少し前の事。
座敷にて、初穂と父は向き合って座っていた。
父が人払いをした為、その場にいるのは二人だけだ。
何を告げようというのか、と父の意を計りかねていたところに、父が何かを差し出した。
『これを、お前に託す』
『これは……?』
それは、一振りの短刀だった。
花嫁が嫁入りの時に身に着ける懐剣とも思ったが、何故か『違う』と感じる。
武骨なまでに飾り気のない簡素なものは、凡そ花嫁に相応しいとは言えぬ品であり、重苦しい空気を纏っているように思う。
『あやかしを消し去る祝福が籠められた刀だ。……その短刀にて、あやかしを討て』
父の言葉に、初穂は目を見開いて絶句する。
この短刀は、あやかしに対しては致命的な一撃を与える事のできるものだと、父は言う。
何故、そのようなものを父が持っているのか。
それも気になるが、それ以上に気になるのは父の言わんとする事である。
自分は今から、そのあやかしの贄に……あやかしに喰らわれる為に捧げられるのだ。
だが、父は明らかにそれとは違う意向を示している。
どういう事と問いたいものの言葉に出来ずにいる初穂に、父は更に重々しく告げる。
『贄を与えたところで村が救われる保証はないのだ。あやかしの懐に入り込み、心の臓に突き立ててやれ』
確かに、その通りではあるのだ。
大蛇が贄に満足して村を祟るのを止めてくれるという保証はない。
人とあやかしの理は違うもの。そもそもの価値観も何もかもが違う相手に、対等な取引を考えるのは危うことと言える。
そう、災いを確実に祓うならば、元凶を消し去るより他はない。
その手段がこの短刀だと、父は言う。初穂に、この刃によってあやかしを討ち滅ぼせと……。
この、人よりも虚弱な身に叶うだろうかと、蒼褪めた初穂が息を飲んだ瞬間だった。
『そして、あやかしを見事に討ち果たしたなら、戻ってくるがいい』
父の言葉に、短刀を見つめていた初穂は、弾かれたように父を見る。
重々しい言葉と表情の父は、一つ大きく息を吐くと、更に続けた。
『いかに嫁げぬ娘であっても大事な娘である事には変わらない。あやかしの生贄にむざむざ捧げるのは心が傷む』
初穂は唇を噛みしめる。
父の言葉が俄かには信じられなくて。信じがたいけれど、胸に響いて。
大事な娘、と今、父は言った。
平素、初穂に対しては冷淡なまでの態度で接する事もあった。なるべく人の手を煩わせぬように。
人の情けが無ければ命を繋げぬ事を自覚し、常に謙虚に。持ち得る全てで人に尽くし、分け与え、感謝するようにと命じて。
瀬皓の長の娘として、せめて恥ずかしくない在り方を心掛けよ。そう言い続けてきた父が。
戸惑いと、縋るような光を宿して見つめる初穂に、父は静かに言う。
『だから、必ずあやかしを討ち、戻るのだ。良いな』
重ねて言われた帰還を望むという言葉に、初穂は俯き、静かに短刀に手を伸ばす。
そのまま、胸元にて両手で抱くように握りしめると、一呼吸おいた後、決意の籠った声音で漸く応えを紡いだ。
『有難うございます、お父様。初穂は、必ず使命を果たして参ります』
役に立てない身だと思っていた。物の数にもならぬ、価値のない身だと思っていた。
けれど。
戻ってこい。言われた思わぬ父の言葉に、形容しがたい想いが胸に拡がり、短刀を握る手に籠る力となる。
初穂はその時固く誓ったのだ。
例え本当に生きて帰る事が叶わなくとも。命を引き換えることになろうとも。
必ず、使命を果たして見せると――。
懐に覚悟の刃を秘めた初穂が、ひたすらに唇を引き結び耐えるようにして待っていると、やがて白妙が迎えにきた。
導かれた先は、主にとって大事な儀の……祝言の為に整えられた広間。
浮かび上がる幻想的な光は焔かと思えば違う様子。不可思議の力によって灯る明かりは、場を美しく彩る。
敷かれた毛氈が、置かれた屏風が、灯りを受けて仄かに煌めいて。
小霊達が、寿ぐように舞い踊りながら示す先、正装に身を包んだ玖澄が待っている。
先程の情けない様子はなりを潜めた、凛々しい花婿の姿だった。
ただ、その端正な面にあるのは穏やかな慈しみの光であり、初穂は思わず俯いてしまう。
玖澄の眼差しが温かければ温かいだけ、心のどこかが棘を刺したように痛む。
玖澄が少しだけ苦笑して見守っているのを感じた初穂は、懐が重く感じた。
花の燭が灯る幽玄な広間にて、玖澄と初穂の祝言は恙無く行われた。
祝言といっても、立会人として白妙が、参列者として小霊達というささやかなものだったが。
玖澄は身内ばかりである事を申し訳なさげに初穂に詫びていたが、初穂は盛大な式と言われても気後れしただろうから、むしろこれで良かったと思っている。
人ならざる花婿との三々九度など、現のものとは思えず、ふわふわと夢心地ですらあった。
背負う使命を考えれば、この祝言は仮初のものでしかないのだから、現実味がなくても無理はない。初穂は心の裡にて苦い呟きを零した。
そう、初穂は玖澄を討つ為にここに来たのだ。隙を伺い、懐に刃を突き立てる為に。
しかし、祝言の間、隙と思える機会は巡ってこなかった。
どうせなら、祠にて二人きりであった時に思い切っていれば良かったのに、と思っても既に遅い。
祝言の場では、白妙に加えて小霊達の目があったし、初穂自身が場を包み込むような夢幻の雰囲気に飲まれてしまっていた。
ならば、二人になる時間を待つしかない。それは、存外に早く訪れる事になる。
花嫁の装束から簡素な寝衣に着替えた初穂は、強張った面持ちで敷かれた床の前に座していた。
祝言が終わったのであれば、これからあるのは唯一つ。初夜の床である。
その時は、流石に白妙も小霊たちも姿を消し二人きりとなる。
自分が祝言をあげることになるのも、相手が人ではないのも、勿論予想した事などなかった。
この後どうなるかを考えても、凡そしか分からない。嫁ぐ予定のあった妹達のような教えは受けていない。ただ、妹達が男性の目を避けるようにしながら話しているのを、時折耳にするぐらいだった。
知らない事は恐怖であり、気を抜けば身体に震えが走りそうになる。
ただただ恐ろしいけれど、ふわりと浮かぶのは蛇の青年の穏やかな面持ち。
玖澄が、女性に無体を働くようには思えなくて。嬉しそうに微笑んでいた様子を思い浮かべれば、不思議と震えが止まる。
何故、と自分に問う。先程会ったばかりなのに。
相手は、恐ろしい大蛇のあやかしであるというのに。そして、自分は彼を討たねばならないのに……。
だが。
初穂の懊悩とは裏腹に、初穂の元に姿を現した玖澄はこう言ったのだ。
今日はお疲れでしょうから。ゆっくり休んで下さいね……と。
如何に何も教えられていないと言っても、流石にそれは違う、と初穂にも分かった。
あまり動揺を表に出さないようにと気を付けたが、無理だった。
どうやら何とも言えない表情を浮かべてしまっていたのだろう。
玖澄は初穂の顔を見て苦笑すると、気遣うように優しい声音で続けた。
「初穂さんの身体が第一ですから。また、明日」
無理強いをしたくない、と玖澄は微笑んだ。
まだ顔を合わせたばかりであり、初穂はこの屋敷に来たばかり。お互いを知らないし、環境に慣れてもいないから、と言う玖澄に初穂は返す言葉がない。
夜は冷えるから、と自らが羽織っていた羽織を初穂の肩にかけ、おやすみなさい、と残すと玖澄は静かに部屋を辞した。
残された初穂は、またも呆然として座り込んでいた。
初夜の床に置き去りにされるというのは、何とはなしに女性として複雑なものである。だが、何処かで安堵している自分が居るのも事実だった。
何に安堵しているのか。あやかしと契らずに済んだことか。それとも、懐の短刀を使わずに済んだことか。
またも使命を果たす機会を逃してしまったことを悔いても、もう遅い。既に玖澄は去ってしまった。
再び二人きりになる時はいつ訪れるだろうか。初穂にとっての好機は、次は何時。
温もり残る羽織にそっと触れながら、初穂の瞳には複雑な感情が宿っていた。
玖澄は、何故あんなにも初穂に優しいのだろう。
捧げられた贄に対して。本来であれば喰らう筈の相手に対して。
ただただ優しく気遣い。初穂の身体を、意思を尊重して。家族より、村人達より、よほど初穂の事を……。
そこまで考えて、首を左右にゆるゆると振ると、初穂は窓辺に歩み寄る。
窓外には白々とした光にて照らす月がある。
物憂げな表情でそれを見上げながら、初穂は心の裡に呟いた。
『また明日』、玖澄はそう言っていたではないか。
明日から、日々は続いていくのだ。玖澄と共に過ごす時間は、終わったのではない。始まったのだと。
いつの日かを、思う事が出来るのだと……。
枕の下に隠していた短刀を取り出して、手に取る。
いつか、自分はこの刀で玖澄を刺し貫く。この刀で、玖澄を討つ。
必ず、父から課せられた使命を果たし……父の期待に応えるのだ。
それは、初穂を使命へと駆り立てる原動力であった。
それなのに、何故か。
短刀を見つめる初穂の顔は、我知らずのうちに酷く辛そうに歪んでいた……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます